ご存じの方も多いと思いますが、「本名を呼び、名のる運動」というのがあります。(人によっては「民族名を呼び名のる」という言い方をします。あとに述べる理由によって私は「本名」の方が適切と考えています。)在日コリアン(旧植民地出身者、特別永住者)の子どもたちが、差別のゆえに日本風の「通名」を名のる現象に光を当てて生まれたスローガンで、なかなか含蓄があります。
「現在、在日朝鮮人で通名を使用している人の割合は高い。包括的な調査の例は多くないが、ある調査によると、在日朝鮮人の通名所持率は91.3%に及んだという。職場での本名使用率50%、通名使用率78%という統計もあるが、ある三世に聞いたところでは、90%前後が通名を使用していると感じている、という。」(梓澤和幸弁護士「在日外国人〜弁護の現場から」筑摩書房、2000年より引用)
日本にやってきた外国籍の子どもたちが、日本風の「通名」を名のり始める傾向は、在日コリアンにかぎりません。うっとうしい日本人の排外的な視線をそんなことで避けられるなら、誰しもそう思うかもしれません。
母親が服役中、里親にあずけられたベトナム籍の少女Aちゃん、里親によって日本風の名前を付けられて、日本の学校に通っています。その事実を知ったAちゃんの母親は「私は娘の名前を変えていいとは認めていない」と激怒しました。児童相談所〜里親は、いじめがあるから名前を変えたと事情を話したといいます。しかしあとからわかったことですが、里親が引き取って日本の学校に通わせたときから、日本名を名のらされていたようです。
オーバーステイの子どもが、日本風の「通名」を持つたとき、ほっとしたといいます。摘発をこれで防げるかどうかわかりませんが、警察官に路上で誰何されたとき、しのぐことぐらいはできるかもしれません。
小さいときに他人名義のパスポートで来たBくん。大人になってもなかなか本名を自ら名乗れない。染みついてしまった他人の名前。
アウンサンスーチさん。ビルマ人は姓を持たないから、これが名前のすべて。日本式の「家」をしょわされた名前など、悪しき伝統で、捨て去るべき「民族名」かも知れない。
日本語や日本の文化に触れ、それを一生懸命に我がものにしようと懸命に日本社会の中で生きる外国人の子どもたち。自分の日本風の名前を持ってみたくなる・・のは必ずしも差別や偏見を背景にしていないこともあります。たとえば、ラテンアメリカを愛しした日本人が、ラテン風の別名をつけて通すということはよくありますよね。
フィリピン人のお母さん。若いとき、つきあっていたボーイフレンドとの間に、「未婚の子」を生んだ。フィリピンでは病院の看護士さんに、口頭で名前を伝え、看護士さんが役所に出生届を出すことになっています。フィリピンの名前の付け方はスペイン風で、子どもの名前には父親の名前がラストネームにつきます。つまり名前を見れば、未婚の子どもだとわかってしまいます。そこでお母さんは既婚者と偽って看護士さんに伝えて届けを出してもらいました。やがて、このお母さんは日本人と結婚をし、この子を日本に呼びよせようとするとき大変な問題が発生します。なぜならフィリピンでは離婚ができないから、日本人と結婚できたお母さんに、フィリピン人との間に婚姻関係は存在しないことになります。したがって、別のお父さんの名前が付いている「この子」はこのお母さんの子どもではない、ということになってしまいます。日本の入国管理局はこの子の日本への呼びよせを二度にわたって不許可にしてしまいました。
私は冒頭でスローガンは「民族名を呼び、名のる」より「本名を呼び、名のる」方が好ましいといいましたが、その理由を述べておきます。
{注:ここでいう民族名とは民族の名前(アイヌ民族とか)ではありません。その人の所属する民族の習慣に則ってつけられた、その人の民族風の個人の名前です。日本語は難しいですね。}
たとえば二つの民族の狭間で産まれた子どもにとって「民族名」とは何なのでしょうか。一人の個にとって、民族は必ずしも単一ではありません。
また、ブラジル人の名前は、民族名ではないと思うのですが。なぜならブラジルは単一民族国家ではないから。ところで、コリアンは単一民族なのでしょうか?
フィリピン人のスペイン風の名前は、かつてフィリピンがスペインの植民地だった時代を反映しています。したがってフィリピン国内の少数民族をのぞいて、おおかたのフィリピン人にとっては、本来の「民族名」など存在しないと言っていいかもしれません。
「本名を呼び名のる」運動を追求することがいつも最善の選択肢とはかぎりません。それに「本名」を名のることが強要されたりすることはあってはならないことです。しかしその人(生徒)との信頼関係のある出会いの中で、もしその人(生徒)が通名として日本名を名のっている背景に差別を感じたら、「私はあなたをこう呼びたい。」という働きかけはあるべきでしょう。しかしさまざまな思いは、お互いに理解し合わなければなりません。
在日外国人が日本名を名のりたい理由は様々です。もともと日本名を持っている日系人かもしれません。また日本の名前を通名として楽しんでつけているだけかもしれません。
なんらかの理由によって、本国の文化に嫌悪感を持ち、積極的にそれを捨て、日本名を名のり、日本に帰化しようとする人だっていると思います。「パリの移民・外国人」本間圭一(高文研)を読みました。日本の近未来を読むようでした。ここでは母文化の持つ悪しき因習からの脱出、も大きなテーマでした。アフリカ文化の女性性器切除や、文化としての強制結婚、インド出身者のカースト制など。これらの問題が移民とともにフランスまで持ちこまれているというのです。こうした問題を抱えている場合、自国文化のコミュニティーから逃亡する人たちもいると思います。
ここまで議論してくると、どうしても「同化教育」についても言及する必要があるかもしれません。基本的な考え方として、「同化教育」に対する批判に「民族教育」や「母語保障、母文化の保障」を対置するという図式でとらえられることが多いのですが、本当にそんなに単純な二極対立の図式でとらえて良いのか、私にはまだ自信を持ってこの事を議論するほどこのテーマを整理はしていません。「同化」を裏返してみても別の「同化」があるだけのような懸念をいだく場合さえあります。この問題はまた稿をあらためて論じてみたいと思います。
ここでは民族とか「集団」の問題ではなく、「個」の問題として「名前」をとらえ、アイデンティティーの象徴としてとらえておきたいと思います。
「本名を呼び、名のる運動」をめぐっては、さまざまな議論があります。だれがどういう名前で呼ばれたいか、よけいなお世話だ、というかもしれません。また、どんな場合にも有効性を持つ普遍性を持ったスローガンでもありません。時には口角泡を飛ばす激論にもなります。しかし在日外国人の子どもたちが、本名を名のることでいじめられたり、偏見の目で見られたりする厳しい現実が学校の中(日本社会の中)に存在しています。こうした現状をふまえ、「名前」をその子の寄って立つ「アイデンティティ」の象徴としてとらえ返したとき、「本名を呼び名のる」スローガンの提起した