隔離のはじまり明治以前から、ハンセン病は「天刑病」「業病」とおそれられ、嫌悪の対象にされた病気でした。患者達は、家族や村から負われ、「浮浪ライ」として放浪野宿生活を強いられていく者達も少なくありませんでした。ハンセン病患者の隔離の始まりは1907年(明治40年)に成立した「癩予防に関する件」に始まります。この法律はすべてのハンセン病患者を収容しようというものではなく、放浪している資力のない患者を対象にしていました。当時3万人はいたといわれる患者を収容できる施設が、そう簡単に出来るわけがありません。しかしこれにより、ハンセン病患者強制収容への道が開かれたのでした。 断種(不妊手術)のはじまり隔離収容がどういう考え方や、いきさつで始まったのか、また患者への断種の強要はどういう考え方やいきさつで始まったのでしょうか。明治以降のハンセン病の歴史を詳細に綴った次の書籍から拾い出してみます。 「いのち」の近代史、藤野豊著、かもがわ出版 ハンセン病患者に行われていた断種手術は、戦前では男性は輸精管切除、女性にはX線照射により妊娠不能にする方法がとられていました。 内務省に置かれた「保健衛生調査会」の報告書(1919年)の記録を見ると、「結婚を禁止すれば欲求不満となった患者が逃走し、遊廓に登り、菌をまき散らす」(前掲書P81)という考え方が示されています。また「全生病院では、1915年(大正4年)以降結婚を希望する男性患者に対して断種手術が行われていた。院長光田建輔の考えで、患者の逃亡防止のため結婚を認め、その代わり断種を強要していた」(前掲書P82)としています。 以上のような断種開始のいきさつから、「ハンセン病患者には子どもをつくらせない」ことが、断種の始まる以前から、すでに暗黙の前提であって、優生学上の観点から断種が始まったのではないことがわかります。藤野豊はこの時期のハンセン病患者に対する断種について、「決定的な治療法がないとされた当時において、病気そのものを撲滅するより、患者を撲滅する方が簡単であった」(前掲書P296)から断種を徹底的に行おうとしたとまとめています。 優生学とハンセン病はいつ結びついたか藤野氏の前掲書によると、優生学の普及とともに、ハンセン病が優生学上の課題として論じられるようになったのは1920年代になってからのようです。民族主義の高揚とともに、ハンセン病根絶は「民族浄化」の課題として位置づけられていきます。優生学の普及を目指した「優生運動」という雑誌(1927年7月)では遺伝病ではないとしながらも、「遺伝的素質」を考えたら「こうゆう悪疾を持ったものと結婚を避けることは悪いことではない。」(前掲書P96より再引用)としています。 第二次大戦敗戦後まもない1948年に成立した優生保護法では、妊娠中絶や断種手術を行える場合として、「ライ疾患」をあげています。なぜでしょう?優性保護法は優生学を実現するために作られた法律です。遺伝病でない、しかも治ると分かっている感染症の患者をなぜ優生手術や妊娠中絶の対象にしたのでしょうか。 ハンセン病はなぜ優生手術の対象にされたか「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。」(第一条、この法律の目的)とした優生保護法ですが、医師の認定と本人の同意という前提で「癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの 」(第三条、医師の認定による優生手術)としており「伝染の虞」を断種の根拠としています。 法案提出に当たった当時の民主党参議院議員谷口彌三郎は「優生保護法解説」(研進社、1948年)の中で「先天的に同病に対する抵抗力の弱いと云う事も考えられる」「現在では癩を完全に治療しえる方法がない」(前掲書P482より再引用)・・・ハンセン病の特効薬プロミンは1941年アメリカで開発された。敗戦とともに日本で治療が開始され、その効果はすでに1947年に報告されている・・・そんな矢先に「優生保護法」は成立したのです。私はこの事実に慄然とせざるをえません。これはあの血友病・エイズ薬禍と同じ文脈ではないかと。 生まれてこなかった「いのち」の数この戦後の民主憲法下で「優性保護法」のもとで行われたハンセン病を理由にした優生手術の件数は、記録に残っているだけでも1435人。そのうち女性は1000人を超えています。また、同じくハンセン病を理由にした妊娠中絶の件数は、記録されているものだけで3172件です。 このような手術は、ハンセン病の伝染力がきわめて低いことが十分に知られ、なお治療法が確立しているにもかかわらず、療養所内で患者たちに事実上強要されていきました。優生保護法は1996年に「らい予防法」とともに廃止されました。 |