2002年6月21日高橋徹、記

遺伝決定論

(問)君たちはなんのために勉強しているの?遺伝子で人間が決まるなら努力するのは無駄でしょ。

遺伝決定論

 高校の生物の授業で、遺伝の項の話の中で決まって血液型の遺伝の話をします。その後、生徒達の間で、たいてい盛り上がるのが血液型による人間行動決定論です。A型性格、B型性格など、なにか星占いと同じようなノリで語られます。

 「人間て4種類しかいないの?」

 ここで授業は脱線していきます。氏か育ちか論争。すなわち人間は遺伝子によって決まるのか、生育環境によって決まるのか。そして人間はなぜ時間をかけて学習するかということ。

生物は生存機械か?

 リチャード・ドーキンス氏という進化生物学者は「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店)という書物の中で次のような生命観を示しました。

「われわれは生存機械である・・・遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされた機械なのだ。」

 単純素朴で、わかりやすい比喩で進化における自然選択が遺伝子に働くことを示した本とすれば罪はありません。しかし、生命の本質が遺伝子である、というこの生命観には唖然とさせられてしまいます。

 遺伝子をその要素の一つとしながらも、環境と対峙し、学習を重ね、自らの人生を作り上げていく〜そういう人間像は見えてきません。

グールド氏の反論

 同じ生物進化学者で、ドーキンス氏の論敵、スティーブン・ジェイ・グールド氏の反論を引用しておきます。

「ドーキンスの理論のもつ誘惑は、西洋式の科学思想につきまとっている悪習−原子論、還元主義、決定論などとよばれる姿勢−に由来するものだとわたしは考える。・・・中略・・・しかし生物は、多数の遺伝子をいっしょにしただけのものより、はるかに奥の深いものである。生物は歴史とという重大な一面をもっており、その体のさまざまな部分は複雑な相互作用をしている。」(邦訳:「パンダの親指」早川書房)

人間は自分を変えていく

 遺伝子に還元しても、生物の生きた姿は見えてこない。それと同じように、遺伝やその他の生物的側面に還元しても、人間の生きた姿は見えてきません。一卵性の双子を見れば分かるように遺伝子が同じでも、また生育環境が同じでも、生きていく人生は違います。

 氏も育ちも人間の要素の一つかもしれませんが、人間はそれだけでできあがっているわけではありません。

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