和解報告集会へのスピーチ
「大義を明らかにし、大局を重要とする」
1945年6月30日、秋田県花岡町で苦役にさらされた中国人は、加害企業鹿島組による奴隷的な使役と迫害に我慢できず、命を懸けて世界を驚かせた花岡暴動を起こした。同年9月11日、秋田地方裁判所は、耿諄ら12人に対し、死刑、無期懲役、有期懲役などの判決を下した。しかし、1948年3月、横浜BC級戦犯法廷は、調査によって事実を確認し、耿諄ら12人は無罪、現場監督の補導員3人に死刑、1人に終身刑を言い渡した。
以上のことは、鹿島が法律的責任を認めるかどうかにかかわらず、鉄の事実はいつまでも覆すことができないことを示している。法律は必ず我々に公正な答えを与えてくれる。血は血であり、債務は債務であり、返すべきものは返さなければならない。鹿島組の河野正敏らはその先例ではないのだろうか。
1989年12月21日、耿諄ら花岡の生存者は鹿島への公開書簡を発し、三項目要求を提出した。また新美隆弁護士らに依頼し、代表として鹿島に直接交渉することを依頼した。
1990年7月初め、花岡の生存者、遺族が鹿島と交渉した際、鹿島は花岡の代表に深甚な謝罪を表明し、7月5日に共同発表を行った。この謝罪は戦後補償の中で日本企業によるはじめての謝罪であり、また一年後再び会談を行い賠償問題を解決すると約束した。これは本来、鹿島にとって罪を認める良いスタートであったが、しかし、鹿島は延ばし延ばして、ついに十年の長きに達したのである。被害者の傷口に更に塩をかけ、その傷口を痛めたばかりでなく、心をも傷つけたのである。
訴訟の中では、鹿島は被害者を虐待した事実を認めないだけではなく、事実を歪曲して多くの人の死は厳しい環境がもたらしたものである、とした。さらに、社としては誠意をもって最大限の配慮を尽くしたが、多くの方が病気で亡くなるなど不幸な出来事については、深く心を痛めてきたと、鹿島による残虐な行為を美化したのである。本当に恥知らずというほかない。流言は事実を隠すことができず、いくら粉飾しても鹿島本来の面目を隠すこともできない。和解の直後、鹿島は、訴訟内容について社に法的責任はないことを前提とした和解であると、公言した。いったい、1990年7月5日の共同発表を今も覚えているのか。和解はこの発表を基礎に行なったもので、共同発表をしっかりと記憶すべきである。自分の糞を自分で口にするものなのだろうか。
我々中国人は決してあなたたちからの施しや、恩恵や、救済を受けようとは思わない。我々が取り戻そうとするのは自身の権利、人間の尊厳である。金銭は命と較べられない。命は値がつけられないものであり、金銭は罪を反省する誠意しか表わすことができない。事実を抹殺することは許されないし、正義は永遠に存在する。
十数年来、花岡の生存者、遺族、弁護団の弁護士各位、中国人強制連行を考える会、在日華僑中日交流促進会、平和を愛する日中の友好人士の皆様は、鹿島との間で絶えまない闘争を続けてきた。我々の代理人は、苦労をいとわず、その捧げた精力、心血、財力には言葉では表現できないものがある。数十回に亙って日本と中国との間を往来した。訴訟が始まって以降は、問題を円満に解決する為に更に頻繁に往来した。問題があるたびに、その大小を問わず、すぐに被害者と連絡を取り、裁判の審理経過および審理事項を何度も報告した。
東京高裁が和解の方向を示すと、98年8月13日、新美先生、田中先生、林伯耀先生たちは北京に行き、被害者と会ってその意見を聞いた。被害者たちは充分に討論し、各自の意見を発表して共通の認識に達した。新美隆先生をはじめとする弁護団に全権を委任して法廷での調停活動を行うよう、依頼書にサインし、弁護団に手渡した。その後、裁判所と何度も交渉した後、裁判所は初歩的な和解条項を出した。
2000年4月29日、新美先生、田中先生と紅十字会の張先生は、自ら河北省定州市へ病中の王敏を見舞い、彼の意見を聞いた。王敏は自分の印鑑を私に手渡し、みんなに自分の意見を伝えるよう依頼した。皆は、和解協議書の内容を討論し、我々が十数年来鹿島と戦ってきたより重要な意義は、金銭ではなく、人間の尊厳、民族の尊厳を守ることである。また、かって中国全土、アジア各地において日本の侵略者が多数の労工を強制連行した罪行を暴露し、侵略者の本来の面目を明らかにすることである。それによって日本政府および加害企業に罪の歴史を反省させ、このような誤りをあらためさせ、二度と繰り返さないようにさせることである。さらに、それによって後世を教育し、この歴史を記憶に残すことである。
中日間の戦後賠償訴訟の中で今回の和解ははじめてのものであり、中国、アジアの他の戦後賠償問題にとっての、第一歩であり、はかりしれない影響を与えるに違いない。この時、新美先生たちは、被害者の代理人に対する信任及び紅十字会を受け皿とすることに同意するサインをした意見書を持帰った。
11月19日、和解直前という肝心な時に、代理人は再び北京に行って、被害者と最終的な和解条項を協議した。皆は何度もの譲歩には理解し難いところがあり、鹿島組にすっかり得をさせたという感じがした。鹿島組は、虐待され、搾取され、使役されて死に至った被害者400余人に対し、今まで何を示しただろうか。我々の三項目要求の第二項目である記念館の建設に対し、一文字も書いていない。我々には鹿島に対する三項目要求を重ねて主張する権利がある。大館、北京に記念館を建設し、もって後世を教育するために。第三項目の一人500万円という我々の精神的、肉体的苦痛に対する補償金額も一桁縮小され、本当に怒りの極みである。
しかし、弁護士からの報告を聞いた後、我々は代理人の苦労を理解すると同時に、彼等の聡明と知恵に感心した。さらに今回の和解条項成立の難しさをも理解したうえで、被害者は大義を明らかにし、大局を重要とし、政治上の勝利及び戦後賠償問題を解決する為の突破口をつくることを重視した。被害者の連名で耿諄さんが執筆した「歴史の公道を取り戻し、人間の尊厳を守り、中日の友好を促進し、世界の平和を推進する」という書は、被害者の心の声を反映したものであり、代理人によって日本に持帰られた。
この長い戦いの中で、国内外の同胞および世界各国の友好人士から支持を頂いた。特に、この和解は、中国人強制連行を考える会、新美隆先生をはじめとする弁護団、在日華僑中日交流促進会、大館市の行政部門と多くの市民、マスメディア関係の方々の努力と切り離すことはできないものである。この機会を借りて、私は花岡の被害者及び遺族を代表して、これらの方々に心から感謝し、また深甚な謝意を表わしたい。
この世を去った400余人の先人、病気で相前後して亡くなった李克金さん、孟繁武さん、王敏の原告三人よ、安心して下さい。我々はあなたたちがやり遂げられなかった事業を最後まで進め、日本政府及び鹿島の責任を引続き追及するだろう。世界を戦争から遠く離れさせ、永遠に平和にさせるよう努力します。
先人達よ、安らかに休んで下さい。
王敏の娘、花岡受難者聯誼会幹事 王紅
2000年12月17日