日中国交回復と花岡和解
町田忠昭 |
2000年11月29日、花岡受難者聯誼会と鹿島との和解が成立した。いわゆる花岡事件から55年目、20世紀の終わりにあたっての和解に、私は一入の感慨にとらわれている。奇しくもその年6月15日、朝鮮において南北首脳会談が実現し、共同声明が発表された。朝鮮戦争から50年、真の和解への巨大な一歩が踏み出されていた。この二つの出来事は20世紀後半の最大の成果として私の心に生涯にわたって刻まれるであろう。
1953年、戦時中強制連行された中国人犠牲者の遺骨送還運動は日本社会を挙げての共感と支持の下、米日反動派の妨害を打ち破り、遺骨発掘から追悼会をへて祖国への捧持送還と次々と課題を実現させた。朝鮮戦争という極限状態の中で、平和と友好の貴重な礎石を築いた先人のこの努力なしには、今日の花岡和解は難しかったであろう。それは多くの先人の犠牲と献身によって得られたものである。謹んで心からの感謝を捧げたい。
敗戦後、上京した私は、廃墟の東京で激動の中を生きるにやっとの日々を送りながら、時代の影響を受け、新しい歴史を生きようとしていたが、偶々、花岡の遺骨送還にも立ち会う機会があった。遺骨送還の成功は、戦後の日中間の和解の第一歩であった。それからほぼ40年経って、90年代、いわゆる冷戦構造崩壊の中で戦後補償が提起され運動が展開された。花岡はその歴史的位置から、多方面に渡る戦後補償全体の運動の先駆的存在として、その原動力になることを求められた。そこにはまた、日中友好運動、戦後のアジア史全体にも深く関わるものがあった。花岡事件は日中友好協会創立時(1950年)の中心的な問題であり、協会の原点であった。今日、その創立者の一人であり、89歳の生涯を日中友好に捧げ、いまもなお貴重な発言を続けている島田政雄さんは、この花岡和解をよろこび、「あなた方の運動は市民運動の典型です」と手紙に書かれ、「強制連行事件の解決の端緒が開かれた。花岡事件の裁判のように次々と成功させてゆこうではありませんか」と希望を語っている。そこには、戦中戦後を日中友好を貫いた人の和解に対する確信があり、中国人強制連行を考える会に対し、自分たちの運動の正当なる後継者としての認識に立つ限りない愛情と敬意と励ましがある。
和解の内容、それが花岡受難者聯誼会の主体的決断によって生まれたことは新美弁護団長の報告、中国人代理人林伯耀氏、また昨年12月17日来日された王紅さんの報告を読めば明らかである。そこには、和解批判者の言うような一点の私心も見出すことはできず、ましてや、何らかの意図・野心を憶測する余地はない。
そのことをまず述べて、私は私の戦後の人生体験に照らして語りたい。戦後の中で最大の事件は朝鮮戦争であった。朝鮮戦争はアメリカに手痛い打撃を与え、アメリカは中国・朝鮮に対し原爆投下を検討し、中国・朝鮮は今もその条件命令が生きている世界唯一の地域である。当時、第3次大戦必至の状況の中で、百年来の欧米帝国主義、50年来の日本軍国主義侵略の深い傷跡を癒すいとまもない建国僅か一年の新中国は、さらに朝鮮戦争志願軍を参加させ、その重荷を増大させていた。その想像を絶する困難の中で、日本人民の希望である在華邦人の帰国を実現してくれた。朝鮮戦争は中国にとって、そして解放を求めているアジアと世界の人民にとって、輝かしい(惨)勝(利)であった。それは解放を願う世界の人民の命運に関わるものであった。そして1953年7月27日の休戦協定は文字通り国際的和解への一歩であったといえよう。
新中国建国は革命であり、社会の変革と人間の思想の革命であった。1953年その新しい作風を身につけた帰国者は、日本社会に帰国者ブームを巻き起こした。社会科の教師は帰国者を招いて新中国での民衆の生活を語ってもらうことが大きな教育であった。マスコミもこぞってその人間のあり方、社会を礼賛した。1952年、初めて新中国を訪れた帆足計氏は帰国後各地に招かれ、中国を語ったが、詩人佐藤春夫に「初春や、めでたき国を語る人」の色紙を贈られている。その新中国によって、日本戦犯が裁かれた。3500万の死傷者と5000億ドルの被害を与えた人類史上最悪の犯罪の、その直接の戦犯に対し、革命的人道主義により一人の死刑も出さずに、鬼から人間への蘇生を可能にしたのは、「彼らは50年後日中友好の士として還ってくるであろう」という人間存在の究極のあり方を洞察した、毛沢東・周恩来の、日本と中国、そして人類の新しい未来を切り開こうとする志、その偉大な力量の実現であった。それはアジアの隣邦として2000年来の友好を踏まえて、極悪の犯罪人もまた甦らせることができることを実証した。それは人類史上の新しい人間の歴史の展開であった。今日、その人々は「中帰連」に結集し、文字通り50年後も真の友好を堅持し、訴え続けている。そこに真の和解の姿があるといえよう。ここに、革命的人道主義による真の和解を目指した、平和・友好・共存の道、“公道”が示されたのであった。
朝鮮戦争によって日本はアメリカの兵站基地になり、莫大な利を得、復興した。サンフランシスコ講和会議は日本をアメリカの従属国化すす戦略の下、新中国を除外し、蒋介石政権に賠償を放棄させる道を強要した。1972年、ベトナム戦争下、文革の激動の中で、中国はアメリカと交渉によって国家間の関係を回復する道を選び、日本はその渦の中で国交回復に動いた。それは衝撃であった。当時そのニュースを日中友好協会で聞いた瞬間、私たちは一斉に「反対」と叫んだものである。愚かであったと思う(犯罪的にまでも)。文革の影響を受け、協会は分裂し、極限状況の中でさらに分かれ、という状態にあった。
当時訪中した会長黒田寿男氏は、周恩来首相と会談して反対を表明したが、周恩来首相は「田中政権との国交回復に反対というなら、黒田政権は何時生まれるのですか。それまで、中国に待てというのですか」と問うた。当時、朝鮮戦争に次ぐベトナム戦争を頂点とする国際的中国包囲網の中で、中国がこれを打破するための遠大な戦略として展開したアメリカと日本との国交回復という課題を、私たちはその時まだ十分に理解できなかった。少なくとも日本に社会主義政権が生まれて初めて平等な国交回復ができる、そうあらねばならないと思い込んでいたのである。日本政府の交渉内容がどれほど恥ずべきものであったかは、今も顔が赤らむ思いである。日中双方の指導者によって歴史的和解は成立した。歴史に遺留された問題に対しては、「後の人々がよい知恵を出してくれるでしょう」との中国の指導者の次の世代への信頼の言葉があった。当時、真の謝罪とは遠い表現と賠償なき和解に対し中国人民は深い憤りを抱かれたことであろう。まことに、和解後の道は万里の長征にも似て、長く険しい。あれから来年は30年である。朝鮮戦争の際、朝鮮全土の解放を望んだスターリンに対し「アジアにおいて中国がなければアジアの解放はない」と毛沢東は語り、38度線において第3次大戦を未然に防ぐ道を選んだ。当時、私たちもまた、朝鮮全土からの米軍追放を期待していたが、中国は原則を最大限に貫きながらも、冒険主義を犯さなかった。その線上にアメリカとの国交回復という和解があった。歴史は確実に前進したのである。1972年はまた、沖縄復帰の年でもある。「沖縄問題はまた日中問題でもある」との観点から、復帰運動に微力を捧げた体験に照らして、アメリカとの和解による復帰もまた、万里の長征の一歩であり、その後の道の険しさを目の当たりにしている。そして花岡もまた、和解に到達した。おりしも国家間にあっては日本首相の靖国参拝問題・ガイドラインのアメリカによる先取り強行、そして憲法改悪へ・・・などの日本の抜き差しならぬ反動への道は、日中間の友好に暗雲を投げかけている。それは朝鮮戦争当時の状況にも通うものである
和解が文字通り日本社会各層の共感を得たことは、それが戦後史の中で画期的なことであり、思うに50年代の新中国に対する憧憬にも似て、日中間に新しい道が切り開かれた、その可能性の象徴のように映ったからである。それはこの和解がまた、2000年もの東アジアとの友好の歴史という日本人の心の深層が触発されたからであろう。しかし、和解が、鹿島側の法的責任を認めず・謝罪しない、というコメントを通じ、猛烈な批判が生まれた。当然である。いち早く代理人の林伯耀氏や神戸華僑総会・林同春氏の強烈な意見書が出され、考える会でもまた、田中代表による批判見解が出された。鹿島はこれにこたえることができなかった。和解批判という形を通して問われているのは、日中間の根本問題であると思う。日本管轄下の法制度の下では、人道に対する罪という国際法を、時効・除斥の壁を突破して適用するのは、日本社会のエリート的存在として保身を最優先する裁判業者に望むことは(東京地裁の判決を見ても)絶望的ともいえる。望むべくもないとすれば、和解は次善の策といえるであろうが、この和解は空前絶後といえる20回の期日を数え、裁判長も絶望する状況の中、代理人は原則を貫き通した。裁判長はそれを「何か大きな力が働いたとしか思えない」と述懐している。1990年7月5日の共同発表の再確認がそれである。再確認を和解条項として承認したのである。鹿島のコメントは、承認せざるを得なかった歴史の重みに対するうめきであろう。どのようにうめくとも歴史は前進し、日中双方による花岡平和友好基金運営委員会の事業は進展していく。我々が鹿島のうめきに同調する謂れはない。まして外部からそれを言われて動ずることもない。今必要なことは和解成立にあたり日本社会がすべてを挙げて歓迎した日中友好への和解の道をさらに進めることだ。これは朝鮮戦争や日中双方の国家間の和解と同じく民間の和解である。そして国家間の和解の後もまた厳しい長征の道であるが、民間の道もまた、限りなく厳しい。しかし、和解の瞬間、日本全体もまたあるべき本来の姿をそこに見て歓迎したのである。考える会、花岡受難者聯誼会、鹿島は、この期待に応え、この和解をさらに前進させなければならない。
内外の批判者は完全な勝利を、という大義名分を掲げる、もっともではある。しかし、私たちは、生存者・遺族の絶対多数の「生きているうちに解決を」の声を最大限に尊重しなければならない。平和・友好のために「子々孫々にわたって闘い続ける」ことは当然であるが、原則を貫徹するために日中国交回復を日本の革命政権樹立まで待つことは、日本・アジア・世界にとって不利益であったように、戦後補償運動、裁判を、日本社会の革命が行なわれるまで、あるいは日本の強制連行企業が、撫順の戦犯管理所に収容されるような条件が作られるまで(それは再び日中戦争が必要だということである)不可能であろう。日本社会の絶望的状況の中で、戦後40年、戦後補償運動は認識されず、提起されなかった。冷戦崩壊の中で、日本もまた、自主と責任を求めて動いた。その歴史の先頭にたって、花岡は全体の礎を築く使命があった。国交回復にあたって、「後の人々がよい知恵を出してくれるでしょう」と言ってくれた中国の指導者は、泉下できっと、この一つの礎を評価していてくれるであろう。それらの指導者を最もよく知る島田さんの言は、それを確信させるものである。
日本司法の下、戦後補償裁判の最もよかったと思われる一例を挙げて比較参考にしたい。
日本鋼管に戦争中来て、酷使され被害を受けた韓国の金景錫さんは、自力で裁判を起こし、40数回日本に通い、数百万の経費をかけて裁判したが、被告日本鋼管は、事実認定も不確かなまま、謝罪も補償でもない見舞金を払った。それは金さんの直接の裁判費用をも償えない額であったが、金氏は「いやしくも企業が金を払った事実は、これが現実としての謝罪と補償でなくてなんであろうか」と記者会見で正義が貫かれたことを、その喜びで泣きながら語った。日本の支援者に対する熱い感謝と現時点での国家間、民衆間の和解が、はるかな未来への共生を目指すという視野に立っての呼びかけであった。花岡受難者聯誼会もまた、昨年11月、鹿島が受諾する和解内容の報告を受け、鹿島に対し、その瞬間深い憤りを感じたが、代理人を交えない独自の会議の激烈な討議を経て、日本の友人の苦闘の努力を評価し、駐日両国の現状と将来の友好を考えて受諾を決意したという。その決断は日本とアジアの和解への貴重な貢献であり、新たな展望をもたらすものであった。昨年一二月17日の報告集会に花岡受難者聯誼会を代表して来日された王紅さんの発言もまた、これらに共通するものであった。ここには自ら主体的に闘った人たちの確信があり、日本国家による「国民基金」との本質的な違いがある。
今回鹿島との和解に対する一連の批判は、日中の戦後史と数々の矛盾に目を向けず、文革の負の遺産である、大義をかかげて生産(的現実)をさらに破壊する状況に似ている。疑心をもって代理人が鹿島と取引し和解を押し付けたとの観点は、10数年にわたって代理人や考える会が、和解への日本社会の歴史的遺産を引き継ぎ、その信頼の上にたって大衆と共に自らの力を尽くし、闘ってきた事実を、鹿島に通じた人々が「君たちはそうまでして中国に恩を売りたいか」といったのに通ずるものである。代理人も考える会も、誰一人として、日中友好を願いこそすれ、中国に恩を売ろうなどと思うものはいないし、鹿島に取り入ろうとするものもいない。それはこの運動に関わった者の名誉にかけて、誓って言っておかなければならないことである。