(「斉魯晩報」2001年12月16日)
日本、花岡受難労工に賠償

● わが省は受難者が最も多く、568人の大部分はまだ所在が不明。
●(本紙済南12月15日発、李艶記者)40人の受難者家族は、昨日一人25万円の賠償金を受け取った。

 本日、省の紅十字会訓練センターで、わが省の「花岡事件」受難者家族代表31人および河北、安徽両省からの受難者家族代表9人は、花岡平和友好基金管理委員会から日本鹿島建設会社による一人当たり25万円(人民元に換算すると約1.65万元)の賠償金を受け取った。
「花岡事件」の中国人受難者986人のうち、わが省の人数が最も多く、568人いるとのことである。現在、大部分はまだ所在が不明である。他の多くは河北、河南、安徽などの省の人々である。
 1944年から、986人の中国人が、三回に分けて日本の秋田県北部の花岡に強制連行され、鹿島組(現鹿島建設会社)に酷使された。当時の花岡中山寮は、中国人労工に「この世の地獄」と呼ばれた。彼らは木の板で組み立てられた簡易な部屋に住み、毎日15〜16時間の過酷な重労働を強いられ、団栗粉、林檎の滓を以って飢えを凌いだということである。過酷な重労働と虐待に耐え切れず、1945年6月30日、「花岡暴動」を起こしたが、翌日には鎮圧された。そして、花岡に強制連行された中国人労工986人のうち、合計418人が日本で生命を奪われた。1989年「花岡惨案」の生存者は北京に集い、「花岡受難者聯誼会」を設立し、鹿島建設会社に対し初めての公開書簡を出した。1995年6月28日、11人の受難者代表による原告団は、東京地方裁判所に鹿島会社に対する訴訟を正式に提起した。
 困難と曲折を経て、2000年11月29日、遂に以下のような和解が成立した。「鹿島建設会社は一括5億円を支払い、花岡平和友好基金が設立され、それによって受難者の慰霊と追悼、受難者及びその遺族の自立、扶養、療養、子女の教育に用いる」と。
 今年6月、花岡平和友好基金管理委員会の計画のもと、生存者、遺族31人及び中国紅十字会の関係者は、花岡現地に行き中国人殉難者慰霊祭に参加した。9月27日、同管理委員会は北京で花岡生存者21人に対し、一人25万円の賠償金の支払いを初めて実行した。本日、わが省で行なわれたのは二回目の賠償金の支払いである。支払い活動は次々と進められ、あらゆる努力をして、各々の受難者家族に25万円を支払っていくことになる。
 本日の支払いの席上で、生存者で原告団の一人でもある、今年80歳の新泰市在住の李紹海さんは、涙ながらに発言した。「私たちは亡くなった難友を忘れてはならない、あの歴史を忘れてはならない。私たちは正当な賠償を求めつつある」と話した。
 わが省の568人の花岡受難者の大部分はまだ所在が確認されていないとのことである。これらの人々の消息を知る人があれば、賠償金の支払いのことを伝え、そして生存者の確認を手伝ってほしい、と希望している。連絡先の住所は「北京市東城区干面胡同53号中国紅十字総会703号室、花岡平和友好基金管理委員会事務局」、電話番号は010−65288007;010−65124447 内線(703)である。



受難者遺族:路素瑞さんの手紙(2001年12月19日)
  紅十字会の皆様:こんにちは。
 私は、兄妹3人及び家族全員を代表して、まず紅十字会の皆様と日本の大学教授田中宏先生、日本の弁護士の新美隆先生および生存者の李紹海さん、王敏さん、耿諄さんなどに心からの感謝を表し、ご挨拶を申しあげます。
 あなた方は、日本侵略者による中国人強制連行問題に対し、夥しい量の活動を進め、村や家を歩きまわって当時の状況の聞き取り、調査をしました。王紅さんを代表とする調査班は、私の家を何回も訪ね、当時の状況を熱心に聞き取りました。あなた方は、精神的にも物資的にも力を注いでくれました。また、中国労工が、公道を取り戻し、名誉を回復するため、大きな代償を払って勇敢にも鹿島建設会社に謝罪と賠償を要求しました。この訴訟は、開始から13年もの歳月を費やし、幾度となく公判を繰り返し、やっと和解にこぎつけました。あなた方は、様々な苦難に耐え、十数年間、南に北に奔走し、どんなに苦労したことでしょう。また、この十数年を一日の如く、個人の一切の利益を犠牲にし、真理と正義を追求するために鹿島建設と交渉し、最終的に、私たちは勝利を得ました。日本で惨死した中国人のために、公道を取り戻し、また鹿島建設から私たち受難者および遺族への謝罪と賠償金を獲得しました。この成功は、あなた方の心血と汗によりもたらされたもので、私たちは心から感謝しています。私たちの夢がやっと実現しました。
 今月15日、山東省済南で開かれた賠償金支払会議において、田中先生と新美隆先生が自ら送金証を渡してくれた時、私は大変感激しましたが、一方では辛い思いと誇りをも感じました。
 誇りに感じたのは、私たちはついに勝利を手にしたのであり、先輩たちのために遂に公道を取り戻し、名誉を回復したからです。私たち中国人はこころざしを持っており、勝利はついに私たちのものになりました。
 辛い思いをしたのは、このお金は、ほかのお金と違って、父の血と命と引き換えに得たものであり、また、紅十字会の皆様、日本の友人田中宏先生、新美隆先生および十数名の生存者の汗と心血によって取り戻した成果であり、容易に手に入れたものではなかったからです。それはどんなお金よりも貴重であり価値あるものです。この50数年来、私たち兄妹3人が望んだのは、お金ではなく父のために公道を取り戻し、名誉を回復することでした。私たちの願いはようやく実現しました。父よ、天国で安らかに休んでください。
 昨日、私は家に帰って、兄に済南での会議の状況を話しました。私たち兄妹3人はいずれも、このお金は特別なものであり、父の命を代償に得たもので、決して軽々に使ってはいけないと考えました。父は日本侵略者に連行され、残酷な非人道的な虐待のもと、ついに異国の異郷で惨殺されました。父が連行された後、敬愛する母の身に数々の苦難が降り注ぎました。当時一番上の兄は8歳で、二番目の兄は4歳で、私はわずか数ヶ月で、父の顔さえ覚えていません。父が日本で虐待されて亡くなったことは、我が家に極めて大きな災難をもたらしました。特に、母はこの事実が受入れがたく、あまりにも悲しくて精神的にも大きなショックを受けました。当時の暗黒な旧社会では、誰も私たちを人間として扱ってはくれず、我が家は何の援助も救済も得ることができませんでした。当時母は31歳の若さで、何も知らない私たち兄妹3人を抱えて、家を必死に支えました。当時母がどんなに苦しく、どんなに悲しかったことか、毎日、涙は止まらず、一日は一年の様に長く感じたことでしょう。母は私たち兄妹が生きていくために、ありとあらゆる苦難を味わいました。父がいなくなったため、兄二人は学校に行けず、私もまた小学校にしか行けませんでした。今でも、私たち兄妹は教育を受けられなかった苦労を味わっています。母は、私たち3人を大きくなるまで育ててくれ、その心血と精力を全部私たちに注いでくれました。母は、世界のどの母親よりも多くの心血を注いでくれました。母が味わった苦しみはあまりにも多く、精神的に受けた傷は、どれほどのお金でも癒すことはできません。母を私たちは永遠に忘れることはできません。
 一番上の兄が結婚した後は、兄嫁が母の不遇に同情し、非常に親孝行をしたので、母の身体も日増しによくなりました。今、私たちは、公道を取り戻し賠償を得たけれども、決して過去を、歴史を忘れることはできません。事実は、私たちの今日の幸せな生活が、無数の烈士が血と命の代償によってもたらしてくれたことを教えています。私たちは、この賠償金を永遠に保有し、世々代々に伝えていきます。花岡惨案の悲惨な歴史を私たちはしっかりと記憶し、次の世代にもこの歴史を永遠に記憶させなければなりません。
 最後に、私は、兄妹3人と家族を代表して、花岡事件のために貢献をしていただいた皆様にお礼を申し上げます。本当に皆様ご苦労様でした。
 浅学のため、これだけしか胸のうちをお伝えすることができません。また誤字も多く、文章も通じないかもしれませんが、どうかご容赦ください。
                        
                          受難者遺族:路索瑞[河北省]
                          2001年12月19日




受難者遺族:懐保申(2001年12月16日)さんの手紙

答謝友人和紅十字会
 杳杳無音心欲裂
 甘露滋潤傷愈合
 誰知其中難辛苦
 唯独友人和紅総
 千言難尽感激情
 只作珍珠奪眼出

「友人と紅十字会に礼をいう」

杳として音信がなく心が裂けようとし
甘露の潤いで傷を癒合す
誰がその辛苦を知るか
友人と紅総しかない
千言万語も感激の情に尽くせず
ただ真珠として眼からあふれ出る

注:(1)傷癒合
日本軍国主義と鹿島建設が、労工およびその家族にもたらした損失と精神的な傷は、永遠に癒すことができないものである。ここで言うところの「癒合」とは、田中宏先生、新美隆先生などの日本の友人、在日華僑林伯耀先生および中国紅十字会、日本大館市人民、正義感を持つ各界の人士、華僑が多くの支持を与え、数々の苦難の道を経て、代償を支払い、労工とその遺族に公道と尊厳を取り戻し、その傷に潤いを与え癒したことを指している。
(2)只作珍珠奪眼出
男は簡単に涙を流すものではない。どんな困難な状況においても涙を流すべきではない。
しかし、今回は感激のあまり真珠よりも貴重な涙が眼からあふれ出た。
受難者遺族:懐保申
2001年12月16日