群書の内容上の、いくつかの改編について

                           インディアス群書編集部


                 一
 インディアス群書第二〇巻は、当初はアリエル・ドルフマンほか著『帝国主義とマスメディアーー文化支配への批判』という内容で読者の皆さんに告知してきた。だがそれは、私たち編集部の力量の未熟さに帰せられるべきいくつかの理由によって、変更せざるを得なくなり、また他の未刊の巻の内容に関しても現在いくつかの変更を検討しているので、そのことを読者の皆さんに説明しておきたい(この変更を、私たちは必ずしも否定的にのみ捉えているのではないことは後述するが、たとえば本巻はドルフマンの論考が入っているという意味で楽しみにしておられた読者の存在を知っているので)。

 チリ出身の文学研究家・批評家であり、作家でもあるアリエル・ドルフマンの仕事に私たちが注目したのは、ベルギーの社会学者、アルマン・マトゥラールとの共著『ドナルド・ダックを読む』(原著は一九七二年刊)を読むことによってであった。純粋無垢なお伽話と理解されてきたディズニー漫画は、元来主要な読者と想定された米国の人びとに、そしてその圧倒的な伝播力によって副次的な読者として獲得した世界じゅうの人びとに、どんなイデオロギー上の仕掛けをしているのか。

そのような視点から帝国主義の文化侵略の形を容赦なく暴いたこの先駆的な仕事は、一九七〇年から七三年に至るチリ革命の実践の過程で、米国から暴力的な形で浸透してくる文化への従属を断ち切ろうとする試行錯誤の中で生み出されたものだった。

日本に生まれた私たちの多くも、主として学校で集団鑑賞するディズニー映画を通じて(現在の子ども/若者たちなら、それに浦安のディズニーランドが付け加えられるだろう)その世界に、いわば無批判的に親しんできていたから、この種の「表現」や「装置」が孕んでいる支配的なイデオロギーを厳しい批判の対象としたドルフマンたちの仕事に深い示唆を得たのだった。この本の日本語版は、インディアス群書の刊行が始まった一九八四年に晶文社から発行された。

ドルフマンはその後『地上にあるわれらがリーダーズーー文化帝国主義に関する試論』を刊行し(一九八〇年)、やはり子ども向けのコミックス、テレビ番組、絵本などを批判の俎上にのせるとともに、「おとなの読者を子どもにする」作用を及ぼす『リーダーズ・ダイジェスト』のような雑誌にも批判のメスを入れた。この本の日本語版は『子どものメディアを読む』と題されて、やはり晶文社から刊行された(一九九二年)。

 私たちはこれらの仕事を参照しながら、世界じゅうがひとしく抱える、帝国主義による文化浸透・支配の問題に、米国との関係においてもっとも深刻な形で構造的に直面しているラテンアメリカの現実と、それに対する批判運動がいかに展開されているかを明らかにする一書を『帝国主義とマスメディアーー文化支配への批判』として独自に編集・翻訳するつもりだった。

 「独自に編集する」と考えたのは、次の理由による。群書の準備を進めていた一九八〇年代半ばの当時の私たちの問題意識からすれば、当時わたしたちが読んでいた“Casa de las Americas "(『カサ・デ・ラス・アメリカス(アメリカの家)』、キューバで発行されている季刊の文化総合誌)や“ Cine Cubano "(『キューバ映画』、ラテンアメリカ映画を軸に映画の理論と批評の深化に貢献したキューバの映画誌)、“Comunicacion y Cultura "(『コミュニケーションと文化』、メキシコで 発行されていた「ラテンアメリカの政治過程におけるマス・コミュニケーション」を扱う季刊研究誌)などに掲載されはじめていたドルフマンやマトゥラールをはじめとする多くの人びとの諸論文には、先行した彼らの仕事の問題意識をさらに豊かにし、広げてゆく志向性が感じられた。批判的分析の対象は、子ども向けのコミックス・読み物に限られることはなく、新聞、映画、テレビ小説はもとより、それらの多くが制作される大国(米国、ブラジル、メキシコなど)から、国境を易々と超えて伝播してゆくことを可能にする新しい通信伝達システムそのものへと、ひいてはそれの軍事転用の問題へと及びはじめていた。

 女性向けの雑誌、スポーツ、音楽産業、レジャー、観光ーー心地よいものとして人間生活を彩る、広義のさまざまなコミュニケーション装置とその応用形態が広範に取り上げられていたのだと言える。

 それと同時に、ラテンアメリカの民衆がそのような文化侵略に単に受動的にさらされているだけではなく、それらを批判的に読み解き、場合によっては摂取し、みずからの表現をもって対峙する動きをも伴っていたことが明らかにされていた。社会変革の理論において、単純な経済決定論が主流を占める時代はとうに過ぎていたが、そのための理論的基盤のひとつは、当時のラテンアメリカにおける文化批判の運動の中から生まれていたのだとふりかえることができる。

 マトゥラールの仕事である『解放の過程におけるマス・コミュニケーション』(“La Comunicacion Masivaen el Proceso de Liberacion ", siglo veintiuno editores,Mexico, 1973) や『多国籍企業とコミュニケーション・システム』(“Multinacionales y Sistemas deComunicacion ", siglo veintiuno editores, Mexico,1977)などは、その ような方向を志向した初期の仕事であったし、同時期(一九七四年)の一書である『多国籍企業としての文化』は後年日本語にも翻訳された(日本エディタースクール出版部、一九九二年)。

 これらの仕事の先駆性と重要性を認めつつ、私たちは欲張りにも、時代状況の変化にも相渉った、もっと多くのジャンルに行き渡る論文集として第二〇巻をまとめることを望んでいた。そして帝国主義文化の浸透・支配という現代的な問題を、このような広範な視野で論じて一書にまとめたものは、当時の私たちの目には入ってこなかった。そこで、先に触れた雑誌などの論文の中から、問題意識が共通で、批判・分析の対象が多岐のわたっており、一書を成してはじめて全体像が見えてくるような形で「独自の編集」を行なうという方針を立てたのである。その後ドルフマンやマトゥラールのものをはじめとして実際にいくつかの論文を選び出し、翻訳をすすめていた。しかし、問題意識の共通性をみきわめるとは言っても、日本という「外部」から、遠くラテンアメリカの個々の執筆者の個別の動機に基づいて書かれた複数の論文を一書にまとめあげるという編集作業は並大抵のことではなかった。何度も立て直しを図ったものの、みずから納得できる形にはどうしてもまとめることができなかった。

                  二 
 インディアス群書およびこれと共通の問題意識に基づいて企画・刊行される場合が多い、現代企画室の刊行書目を徐々に増やしながら、私たちが取り組んできたもののひとつに、ボリビアの映画制作集団・ウカマウとの共同作業がある。一九八〇年、『第一の敵』(一九七四年制作)から始めた自主上映運動は、その後の五年間のうちに長篇六作品、短篇二作品という全作品の上映を実現できた。一九八九年には、はじめての共同制作作品『地下の民』が完成し、今年末から来春にかけては二作目の共同制作作品『鳥の歌』(仮題)の日本上映も日程にのぼりつつある。

 ウカマウ集団とその主宰者、ホルヘ・サンヒネス監督たちの映画制作・上映活動の過程も、ラテンアメリカにおける帝国主義による文化支配の歴史と現状をふりかえるうえで、私たちに大きな示唆を与えてくれるものであった[詳しくは、ウカマウ集団+ホルヘ・サンヒネス著『革命映画の創造ーーラテンアメリカ人民と共に』(三一書房、一九八一年)を見ていただきたいが、残念ながら本書は絶版となっている。次回の『鳥の歌』の上映に向けて新しい一書を刊行する予定である。なお、インパクト出版会から刊行されているシナリオ集@『第一の敵』と同A『ただひとつの拳のごとく』は、いずれも在庫がある]。

 紙数が限られているので、簡潔に表現してみる。「映像による帝国主義論」の創出をめざしたウカマウの映画作品は、米国がラテンアメリカ現地の独裁政権や軍事政権を媒介に思うがままの支配力を揮っていた一九六〇〜七〇年代にあっては、帝国主義がもつ「政治」「経済」「軍事」の貌つきを歴史と現実に即して描きだし、これを告発し、さらにはこれとたたかい、多くの場合は敗北することになるゲリラ闘争や民衆運動のあり方にも触れていた。

 力点は前者におかれてはいたが、だからといって、単なるプロパガンダに終始した映画だったのではない(そうでなければ、厳しい批評基準をもつ現代の観客に支えられて、自主上映活動/共同制作活動が二〇年近く持続されるなどということは不可能だと思う)。

 映画の手法そのものに、ハリウッド映画に象徴される映画文法に対する根底的な批判となる要素が秘められている。観客を驚かせたり、竦ませたり、脅したりする画面を執拗に反復することで、スクリーンに展開するストーリーの中に観客を強引で暴力的な形で一体化させるハリウッド映画。その背後には、「制作費何十億ドル」「エキストラ出演何万人」を豪語する、金高や物量に物を言わせる作戦がある。

 それに比してウカマウの映画は、受け手が画面に展開する物語に過剰に一体化しないよう、逆向きの努力を試みる。それは、観客が物語から一定の距離をとり、冷静な立場で物語そのもの、あるいはその背景としての歴史的な事実に関してふりかえり、顧みるという行為を可能にするために、である。作り手と受け手の間の相互交通性あるいは対話可能性を保証する試みと言ってもよい。

 クローズアップは避け、画面にはつねに複数の人びとが存在する。あるいは人が群れをなして画面にあふれる。風土と密接に繋がりながら。ひとはひとりで生きているわけではなく、他者および風土との関係性のなかで生きていることを示す手法である。

 ほかにも触れるべきことはあるが、上のようにわずか数点に触れただけで、彼らの映画制作の手法そのものが「帝国」においてなされる表現に対する文化批判となっていることがわかる。そのようなことから、私たちは、ウカマウ作品の自主上映に始まり、制作資金の一部負担→シナリオの共同検討→共同制作へと至る二〇年足らずの過程において、ラテンアメリカにおいて実践されている帝国主義文化の浸透・支配に対する批判活動を目の当たりにし、私たちなりの方法でそれに「参加」しているという実感をもつことができた。

 しかし、と同時に触れておくべきことがあるように思える。先に述べたように、六〇〜七〇年代のウカマウの作品の基調は、アンデス地域における地主、高位軍人、白人エリート層などが、先住民族を多数者とする民衆に向けて揮う政治的・経済的・軍事的・文化的・社会的抑圧の現実を描き、同時にその背後にあって現地支配層を操り、南の地域を従属下におく北の大国=米国の姿を暴露することにあった。だが、一九八〇年を経て、軍事体制下にあった地域においても一定程度の民主化が進行した。むき出しの暴力と抑圧によってこれらの諸国に君臨してきた体制は、世界の目にさらされることのない農村部においては旧来の支配方法を残存させつつも、基本的にはより洗練された、巧妙な支配の方法を身をつけ始めた。

 批判運動の側もまた「転機」を迎えた。ウカマウが一九八〇年代末から九〇年代半ばにかけて制作した『地下の民』と『鳥の歌』の二作品は、この時代状況の変化に対応しつつ新たな世界を切り開くための試行錯誤の結果生まれたものだったと見做すことができる。

 それは、約めて言えば、次のような問題意識ということになるだろうーー外部には相変わらず、強大な政治・経済・軍事・文化的影響力を揮う帝国=米国が存在している。とりわけ、ソ連・東欧圏という従来の「社会主義社会」が無残な崩壊を遂げて以降、市場原理を唯一神とする資本は、グローバリゼーションの名の下に世界を覆い尽くそうとしている。ソ連的社会主義の敗北にはしかるべき理由があったとしても、自由市場経済体制が万能だとする考え方に対する批判活動は続けなければならない。それにしても、この敗北状況は何によって生み出されたのか。農民は、労働者は、左翼学生・知識人は、かつての武装ゲリラは、先住民族は、この歴史過程をどう生きてきて、いまどんな現状にあるのか。否定的な現状があるとすれば、それはどう打開できるのかーー。

 従属を強いる外部の強力な存在を「第一の敵」として告発し、歴史的事実であるにはしてもみずからを「犠牲者」一般に留めるに終わるだけではすまない状況が生まれていた。必然的にまなざしは内部へと向かう。みずからが抱える矛盾を摘出し、従来の考え方や活動のあり方に孕まれていた弱点や失敗を見つめる。

 最近の二作に登場する人物像には、たとえば、アイデンティティ・クライシスに苦しみ、先住民の村の共同的なあり方の原則に離反するような行為をあえて選ぶインディオ青年や、先住民至上主義の立場から、白人やメスティーソの内実を問わないままに「われわれの土地から出ていけ!」と主張するアンデス先住民や、優越感に満ちた温情主義・父権主義的な立場から、インディオに「同情」しているにすぎないために、いったん彼らとの関係が危機に及ぶと「君たちのためにぼくらはたたかっているのに」と叫ぶしかない左翼学生や労組活動家の姿が含まれている。

 帝国主義的な収奪・浸透・支配の単なる「犠牲者」でしかなかった者は、こうして、内部矛盾を解決するすべもなく立ちつくし、時にねじ伏せられて収奪や支配にも甘んじ、魅力あふれる現代的な資本主義文化の浸透に喜んで身を浸してこれを楽しみ、社会一般の「常識」と化している旧来の価値観に骨の髄までおかされた人物でもある。この同じ人間の内部には、未だ顕在化していないにしても、これに反発し、抵抗し、別な生き方を模索する可能性も秘められている。

 このような見方から生まれる歴史観や人間観は、対象を複眼で捉えることによって、深みを帯び、現実批判の根拠を築く。こうして私たちは、ラテンアメリカで発行されている文化研究誌に発表される諸論文や、ウカマウの新作に触れながら、ラテンアメリカにおける文化支配批判の理論と実践の模索が新しい段階に入っていることを確認したのだった。 ところで編集子が本書に出会ったのは、原書が発行されて間もない一九九二年末のことだった。ぼちぼちと読み始め、上に述べてきた私たちの問題意識がかなり解明されてゆく思いをいだき、重要な仕事だと感じていた。

 それから間もないころ、本書の翻訳者のひとりである澤田眞治さんが来られて、本書を翻訳して出版したいとの希望を述べられた。それまでは面識のなかった方が、同じ本を読んでいて、共通の関心をもっていたのは、まったくの偶然ではあった。

 刊行を決め翻訳権もただちに取得したが、本書をインディアス群書の第二〇巻として収めるという判断は、後日編集部が行なった。当初のような構想で独自に編集した一書をまとめることができなかったのは私たちの非力に帰せられるべきことだが、時代状況の急激な変化に見舞われた時期でもあったので、その変化の様相を着実に捉えていて、かつラテンアメリカ民衆文化の広範な領域を視野を収めたこの本に出会えたことは、正直に言ってうれしかった。私たちがすでに刊行したり、これから刊行を予定している作家・詩人・評論家・歴史家たちの人物像とその著作への言及が多かったことも印象深く覚えている。同時代感覚を著者たちと共有しているという思いをいだいて読んだ記憶は、忘れがたい。

 ドルフマンらの仕事を待望されておられた読者の方々には申し訳なく、お詫びするが、第二〇巻は、以上のような意義を認めて本書をもって代替することになった経緯をご理解いただけるようお願いしたい。


                  三
 いま少し、インディアス群書の編集内容の変更についてお知らせしたい。群書の刊行は、第九回配本を終えた時点から大幅な遅滞を続けて今日に至っている。読者の方々には、あらためて私たちの非力をお詫びしないわけにはいかないが、三年前に刊行を再開し、間遠な刊行ながら今回の本で第一二回配本を迎えた。

 そして、群書の刊行が遅滞していた二〇世紀末のこの一〇年有余は、世界史的に見ても稀なと思えるほどに、世界を震撼させるような大きな出来事が次々と起こった歳月であった。その「傾向」はいまなお続いているようにも思える。そのなかには、先にも触れたソ連社会主義体制の崩壊・政権からの共産党の脱落という、おそらく二〇世紀最大の意味をもつというべき事態が含まれている。ソ連体制の崩壊は、当時わたしたちが予想した以上の影響力を日本を含めた世界各地に及ぼした。そこでは、或る人間がソ連社会主義に対する痛烈な批判者であったかどうかということは、客観的にも主観的にもほとんど意味をもっていない。

 群書に即して言うなら、このシリーズは、ソ連の崩壊も東西冷戦体制の終結も「予感」しない地点で構想されていた。ヨーロッパ近代が異世界の「征服」に乗り出して以降の、世界近代と現代が孕む問題群に関して、ラテンアメリカ世界に関心を集中させつつも、同時に全世界にも通底するものとして編集したシリーズなのだが、それは主要には、いわば「一九六〇年代的」な問題意識に支えられたものであった、と正直に言わなければならない。そのことの「限界」を、私たちはこの一〇年間の時の流れの中で強く感じてきた。

 刊行が遅延しているあいだに生じた世界状況、思想・文化状況の大きな変化を前に、私たちはこれに追随し流されるという形においてではなく、できることならこの変化の意味を私たちの方法で捉え返すという形で生かしたいと思う。第二〇巻をめぐる私たちの試行錯誤については、上に縷々説明した。それは、たとえば第一七巻のエルネスト・チェ・ゲバラ著『社会主義と新しい人間ーー甦るゲバラ思想』の場合にもなされるだろう。

 一九九七年ーーゲバラ死後三〇年目を迎えたこの年、量的にはたくさんのゲバラ情報がマスメディアにあふれた。従来に比すればめずらしくも、ゲバラの遺族の発言も目立った。妻、アレイダ・マルチは、ゲバラの遺稿のなかで、紙不足というキューバの実情も考慮しながら優先的に出版を実現したいものの二番目として次のように語った。「コンゴを去り、ボリビアに入国するまでの一九六五年末から六六年後半までの月日を彼は最大限に活用して経済関係の論文をいくつも書いたが、その論文の集成」を出版したい、と(メキシコ「ラ・ホルナダ」紙、一九九七年一〇月九日付)。

 この時期は、現在明らかになっているデータから言えば、コンゴでの闘争支援が失敗に終わり傷心のゲバラが、キューバへの一時帰国を促すカストロの意見を無視してタンザニアのダルエスサラームやチェコのプラハに滞在してコンゴにおける闘争の総括文書を書いたり、秘密のうちにキューバに戻り来るべき闘争を共にする人びとと軍事訓練に励んでいた時期に符合する。

 ダルエスサラームとプラハに飛び、一時的に生活を共にすることでゲバラの日常に触れていたアレイダのこの証言は意味深い。

 同じ頃、ハバナで記者会見に臨んだゲバラの息子、カミロは「ゲバラが工業担当相時代に書いた経済政策の自己批判」など未出版文書の刊行予定も明らかにしたという(「朝日新聞」九七年一〇月一七日付夕刊)。

 私たちが構想して準備していた第一七巻のゲバラ著作集は、この事情を知らないままに、構成されていた。ゲバラの著作は一九六七年の死後、ほかならぬキューバにおいて何度かにわたって集成されてきたが、後代のものに編集上の深化が見られるわけではない。死の直後に編纂された第一著作集に収録されていないものは、その後もほとんど日の目を見ないままである。未発表論文が相当数あると仮定して、それを生かすも殺すも、少数の党・政府指導部の手中にあるのが現状だと推定することができる。ゲバラの記録文書庫を作って彼の文書を保管しているアレイダ・マルチとカミロが言うのだから、古くは工業相時代に、そしてのちの六五年末から六六年半ばにかけて書かれたそれらの経済関係の論文はたしかに実在するのだろうが、そこに何が書かれているかを知ることができないままに『社会主義と人間ーー甦るゲバラ思想』と題する本をまとめることはできないだろうと、私たちはいま考えている。

 アレイダとカミロが上に紹介したインタビューの中でまず第一に公表したいと語ったのは、「コンゴ革命戦争の道程」と題する文書だった。私たちは先に、メキシコとキューバの作家たち三人の共著『ゲバラ コンゴ戦記1965』を刊行したが(現代企画室、一九九九年)、これは、いまだ前述の「道程」が公開されていない段階で特別閲覧を認められた作家たちがふんだんに「道程」の記述を引用しながら著した、実に興味深い内容の本であった。そして突然のように一九九九年四月、キューバ政府はこの著作を『革命戦争の道程:コンゴ』と題して出版することを、スペイン、メキシコ、イタリアなどの出版社に委嘱した。この先例からすれば、未発表の経済関係の論文の公表もそう遠いことではないかもしれないが、私たちはそう断言できる場にはいない。

 ことは、国外派遣使節団の責任者としてキューバの外にいる場合が多かったとはいえ工業担当相を務めていた時期と、すでにキューバの市民権をはじめキューバに関わるあらゆる立場を放棄して出国していた時期のゲバラの発言に関係している。公開文書でもすでに明らかになっているように彼がソ連的な経済システムや社会のあり方に一貫した批判を貫いていた場合であっても、ましてや万一かつてのその立場を自己批判してみずからの過ちを認めていた場合には、その未公開文書がもつ重みは計り知れない。

 私たちは、未公開文書の公刊を待ちつつも、ゲバラ著作集として予定していた第一七巻を、『革命戦争の道程:コンゴ』をもって代替することになるだろう。未公開文書が現われた時には、別途考えたい。ありうべき他の巻の改編については、また次の機会に説明したい。読者の皆さんのご理解が得られることを切に希望する。

編集室から
●本書は、小社の他の刊行物とさまざまに組み合せて読み解くことが可能でもあり、刺激的でもあります。どうか、関連する書籍の探索の旅にお出かけください。

99年刊行書へ戻る        インディアス群書へ戻る