一九九七年に小社が刊行した『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』は、文字どおり、ブエノス・アイレス大学医学部に在学中のゲバラが、友人アルベルト・グラナードと共に行なった南米旅行(一九五一年一二月〜一九五二年八月)の記録だった。
そこに付した「日本語版解題」において記したように、ベネズエラから米国に渡ってのち帰国したゲバラは、その後ただちに一二科目残っていた必修単位を取得し、アレルギーに関する論文を書いて医学博士となった。
他方、アルベルト・グラナードは、初志のとおり、首都カラカス市郊外の村にあるハンセン病院に職を得ることができたので、ベネズエラに残った。
ゲバラは、グラナードと別れるときに、いつか同じハンセン病院で働こうという約束を交わした。
医師の資格を得たゲバラは、その約束を果たすために、ベネズエラに向けて再度の旅に出た。一九五三年七月七日のことである。今回の旅の同行者は、カリーカことカルロス・フェレールであった。
アルタ・グラシアに住んでいたころのゲバラが、喘息に苦しむと診察を受けていた医師の息子であり、親しい旧友である。
ゲバラの両親の心配は大変なものであったらしい。喘息を病む身体上の問題、生来の放浪性が孕む未来の不安定さ。後者の心配はある意味で当たったと言えよう。
本書が語るように、ボリビアの社会革命の息吹きに触れて心が高揚していたゲバラは、旅の途上のエクアドルでグアテマラにおける革命と反革命の攻防を聞くと、ベネズエラへ行くという当初の予定をなしくずし的に変えて、グアテマラへ向かった。
グアテマラの社会革命が挫折してメキシコへ逃げると、そこに待ち受けていたのは、フィデル・カストロら亡命キューバ人革命家との運命的な出会いであった。それから一年と数カ月後には、ゲバラは、キューバの独裁政権打倒のためにカリブ海に乗り出したヨット「グランマ号」上にいた。
本書にまとめられたのは、この旅の途上で、ゲバラが家族(両親と伯母ベアトリス)および親友ティタ・インファンテンテに宛てた手紙の一部である。
本書の編者はチェ・ゲバラの父親、エルネスト・ゲバラ・リンチだが、本書冒頭に言うように、彼は一九八〇年に『わが息子 チェ』を著している(Mi hijo elChe, ErnestoGuevara Lynch, Planeta, Barcelona, 1981)。
この本は、「わが息子 チェ」がメキシ コでキューバ人革命家たちと付き合いはじめて逮捕されたり、釈放されたものの地下生活を続けとうとうキューバ遠征隊に参加していることを「一方的に聞かされるだけの立場」にいたアルゼンチンの家族が、生死さえ定かでない「息子=甥=兄」を思って、いかに焦燥の日々をおくっていたかの記述に始まる。
そして革命の勝利後一週間も経たないうちにキューバから航空機がアルゼンチンに差し向けられ、父母をはじめとするゲバラの家族とアルゼンチンに在住していたキューバ人亡命者を移送することになるが、そこで息子と六年ぶりの出会いを果たした親としての感慨が綴られてゆく。その後は、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ誕生以降の個人史が、いくつもの断片的なエピソードを軸に描かれて、一書をなしている。
それは、伝記的な物語としてチェ・ゲバラの生涯とたどるというよりも、身近な家族から見た、細大洩らさぬエピソードの集積とでも言うべき書である。末尾には『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』のかなりの部分が収録されて、この書は終わる。
父親、エルネスト・ゲバラ・リンチは、本書「前書き」に見られるような意図で、「伝記の続編」として本書をまとめた。両親に宛てた手紙が保管されていたことは当然だろうが、本書に奥行きを与えているのは、伯母のベアトリスと友人のティタ・インファンテに宛てた手紙の一部も収録されている点にあると思える。
ふたりに宛てたゲバラ書簡の筆致からは、からかいと皮肉と当て擦り的な表現の向こう側に、ゲバラがふたりに抱く深い信頼と愛情を感じとることができる。
ゲバラの父親の姉に当たるベアトリスは、父親の言によれば、「生涯を独身で通し、子どもをもつこともなかったので、家族すべての護り役のようにふるまったが、エルネストに注ぐ愛情は特別だった」(“Mi hijo el Che")。
ゲ バラは四歳のころから伯母宛ての手紙を書き始め、伯母もまた返事を怠ることはなかったというから、三五年間にわたって両者の間で交わされた手紙は膨大な量にのぼり、そのすべてをベアトリスは保管していたという。
チェ・ゲバラもまた、きわめてまめな日記・手紙の記録者であったから、本書のような異例な形で「伝記」が成り立つというのも、「記録魔」のようなゲバラと「保存魔」のような家族があってこそ、だったと言える。
「記録魔」と言えば、本書のイタリア語版を一九九七年に刊行したミラノのSPERLING & KUPFER EDITORI 社からは、二〇〇〇年に “OTRA VEZ : Il diarioinedito del secondo viaggio in America Latina 1953-1956”, ERNESTO CHEGUEVARA が発行された。ゲバラ自らの手になる『ふたたび:ラテンアメリカ第二回目の旅の未公開日記 一九五三〜一九五六年』である。
つまり、家族・友人宛ての書簡を通して本書で描かれた旅にあっても、ゲバラは日記を記していたのである。その旅から四〇数年を経て(ゲバラの死からは三〇数年を経て)、「日記」は、キューバの「チェの個人文書保管所」との共同作業によって、まずイタリア語訳が刊行されるに至った。
[チェ・ゲバラが遺した文書の、著作権上の管理は、遺族との合意の下で、イタリアのいくつかの出版社を通してなされていることは、『モーターサイクル南米旅行日記』に付した解題でも触れた]。スペイン語原文も、単行本となる以前のコピーの形では私たちの手元に届いているが、本として刊行されているかどうかは不明である。
日付をもたない形で書かれているこの「日記」は、メキシコにおけるフィデル・カストロたちとの出会いには触れないままで終わっているが、旅先の各所における土地と人びとに対する思いが、書簡集とは別な角度から披瀝されている箇所も多く、興味深い記録となっている。
また、この本には、第一回目の旅の同行者、アルベルト・グラナードが「一九九八年八月、ハバナにて」という但し書き付きで序文を寄せている。私たちは、本書に続けて、この「日記」の紹介も行ないたいと考えている。
さて、本書の最後には、またしてもゲバラ自らが記録した『革命戦争の道程』の冒頭部分が収められている。
これにはすでにいくつかの日本語訳があり、またゲバラの最後の土地になるボリビアでの活動記録も『ボリビア日記』として、いくつもの日本語訳がある。これらに、上の「日記」を加え、さらにいま私たちが日本語訳を準備している『革命戦争の道程:コンゴ編』を重ね合わせると、チェ・ゲバラ自身の手になる「旅日記」と「ゲリラ戦争下の野戦日記」は、おそらくそのすべてが明らかになるだろう。
私たちは、こうして、「芸術家のような喜びをもって鍛え上げてきた意志の力が、弱い脚と疲れた肺を支えて」いた「この二〇世紀の小さな隊長」(一九六五年、両親に宛てた別れの手紙より)の生涯を、思いがけない形でたどることになるのである。
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