小さい時から人と接するのが苦手だった。医学部に入ったが、インターンで「全然、肌に合わないな」と感じ、医師免許取得後は研究者の道を選んだ。
もともとがん細胞に興味があった。大学院4年の時、アメリカへ。マサチューセッツ工科大で3年半研究員として働き1972年に帰国。放射線医学総合研究所(放医研、当時は科技庁所管の国立研究所)に入った。
大学受験の時の競争率は13倍だった。ある教授が言った「落ちた12人に対する責任が君たちにはある」という言葉を崎山さんは忘れられない。「放医研に入って、放射線のことを勉強したならば、その知識を社会に還元する責任と義務がある」。
とはいえ、放医研時代の崎山さんは「放射線なんかおもしろくない」と公言し、研究費を外から見つけてきては好きな研究を続けた。放射線と向き合うことになったのは、定年を前に高木学校と出会ってからだ。
「定年後は何をしようかと考えて、いろいろな市民団体を見ていた」時、高木仁三郎さんを新聞記事で知った。すぐに高木さんにメールを送った。体制側と誤解されないため、いかに自分が放医研で孤立してきたかをアピールして。例えば―。
放医研の〝ミッション〟として、日本に寄港する米軍原子力潜水艦の出港前後の海水を調べる仕事があった。崎山さんは、賛同者を募り(たった1人だったが)、絶対に行かないという手紙を所長に出した。
「だって、おかしいじゃないですか。私たちは、放射線量が自然変動か原子力潜水艦のものかをどう区別するかも知らない。だいたい日本に原潜が来ること自体おかしいんですから」