1971年、夫の仕事で移り住んだ愛知県の病院で労働運動に目覚めた。職場で率先してベトナム戦争孤児支援の募金を始めた時、産婦人科部長に呼ばれて「組織のないものがやってはならん」。当時、病院が人手不足を口実に、看護を簡略化する「間引き看護」を行っているのも耐えがたかった。「侵略=差別と闘うアジア婦人会議」に参加した時「組織って何でしょう」と尋ねたら、労働組合の作り方を教えてくれた。
「病院に知れて妨害されると困るから、信頼できる女性ばかりを67人集めてね。ある日、患者さんの待合室で『今から組合を結成します!』と宣言したの。大きな輪の中で、小さい私のためにみんなが用意してくれた台の上にあがってね」
労組の仲間たちとともに、人としてどう生きるべきかを学んだ。戦争中、日本がアジアにどんなひどいことをしてきたかを知って、愕然とした。それが反戦運動のスタートになった。娘二人を育てながら、様々な活動の先頭に立った。
憲法9条が危ない。心の底から危機感を持ったのは、安倍政権のころ。改憲がかまびすしく叫ばれ、「くそっと思った!」。一人で駅前に立つようになる。
「池袋の駅前で演説した時に、警視庁に行って許可を得よ、と言われたんです。警視庁でも私、いつものように演説を始めました。そしたら係員が『あなたに許可は出しません』。必要ないと言う。『あなたは、語り部ですから』って」
共感する人がどこにでもいる。かんかん照りの駅前で、黙ってペットボトルのお茶を手渡してくれる人もいるそうだ。