優等生だった。通知表には5が並び、附属中学校にトップクラスの成績で合格した。両親や教師に「いい子」と言われ続けていたが、倉田さん自身は小学校5年生のころには息切れしていたとふり返る。いい子でいるのは自分が望んだことではないと思い始めた時、ふとシンナーに手が伸びた。14歳だった。
当初はコントロールできていたが、高校を卒業して一人暮らしを始めるとクスリの量は増えていった。シンナーに加えて薬局で買った鎮痛剤を2箱飲み、マリフアナを吸う。薬物乱用から薬物依存へと進んでいた。
30歳で4回目の入院をした時、アルコール依存症の人のための回復施設に通うことを勧められる。当時はまだ薬物依存症専門の施設がなかった。
50~60代のアルコール依存症の人たちは、若い倉田さんを黙って受け入れてくれた。自己嫌悪と罪悪感に苛まれ、それがまた再使用へとつながる悪循環にはまっていた倉田さんだったが、初めて「許された」と感じられた。この時から倉田さんのゆるやかな回復が始まる。
やがて、ダルクの創設者である近藤恒夫さんから「大阪でダルクを立ち上げないか」と声がかかる。ボランティアで、入院したり逮捕されたりした依存症の人に会いに行くという活動はしていたが、対人援助を仕事にするほど向いているとは思えなかった。一度は断ったが、仕事の都合で面会を延期した依存症患者が急死するという事件が起きる。激しい後悔に打ち震えた。