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インタビュー

大阪ダルクセンター長

倉田 めばさん

  • 2010.07.15
  • 聞き手:社納葉子
  • 撮 影:谷口紀子

倉田 めばさん

希望が支える薬物依存からの回復

 芸能人が薬物使用で逮捕されるたび、親(特に母親)が涙の「お詫び」をし、生育歴や家族関係が容赦なく暴かれる。したり顔のコメンテーターたちが言いたい放題の原因探しに熱中する。倉田さんはこうした報道に強い怒りを抱いている。
 「薬物を使ったことのない人が薬物依存について知ろうとした時、トラウマ体験や家族の問題を追及するのは、自分が理解しやすいからです。でも薬を使った原因をいくら知ったところで、薬物をやめられるわけではない。薬物依存とは、脳と薬物との関係が〝病気〟になっている状態だからです。まずやるべきことは解毒、そして再使用防止なんです」
 友達がクスリを持ってきた。ちょっとしたお金が入ってきた。上司に嫌味を言われてやけっぱちになった―。日常生活のいたるところに再使用の〝ひきがね〟がひそんでいる。
 ひきがねに触らないか、あるいは触ってしまって「やろうかやるまいか」という状況になった時いかにとどまるかが、回復への分かれ道となる。当事者による薬物依存症専門のリハビリテーション施設・ダルクは、そのためのプログラムに取り組んでいる。

 優等生だった。通知表には5が並び、附属中学校にトップクラスの成績で合格した。両親や教師に「いい子」と言われ続けていたが、倉田さん自身は小学校5年生のころには息切れしていたとふり返る。いい子でいるのは自分が望んだことではないと思い始めた時、ふとシンナーに手が伸びた。14歳だった。
 当初はコントロールできていたが、高校を卒業して一人暮らしを始めるとクスリの量は増えていった。シンナーに加えて薬局で買った鎮痛剤を2箱飲み、マリフアナを吸う。薬物乱用から薬物依存へと進んでいた。
 30歳で4回目の入院をした時、アルコール依存症の人のための回復施設に通うことを勧められる。当時はまだ薬物依存症専門の施設がなかった。
 50~60代のアルコール依存症の人たちは、若い倉田さんを黙って受け入れてくれた。自己嫌悪と罪悪感に苛まれ、それがまた再使用へとつながる悪循環にはまっていた倉田さんだったが、初めて「許された」と感じられた。この時から倉田さんのゆるやかな回復が始まる。

 やがて、ダルクの創設者である近藤恒夫さんから「大阪でダルクを立ち上げないか」と声がかかる。ボランティアで、入院したり逮捕されたりした依存症の人に会いに行くという活動はしていたが、対人援助を仕事にするほど向いているとは思えなかった。一度は断ったが、仕事の都合で面会を延期した依存症患者が急死するという事件が起きる。激しい後悔に打ち震えた。

続きは本誌で...

くらた めば

1954年兵庫県生まれ。ピア・ドラッグ・カウンセラー、大阪ダルクセンター長、「薬物依存からの回復支援Freedom」コーディネーター。 http://www.freedom-osaka.jp/
共著に『人間といういのちの相Ⅱ』(東本願寺出版部)がある。
【 新聞代 】(送料込み)
 1カ月750円、3カ月2,250円
 6カ月4,500円、1年9,000円
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 加入者名:婦人民主クラブ
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