「〝このままでは死ねない〟と立ち上がった、大娘(ダーニャン:おばあさん)たちの勇気ある闘いを現地の人々に伝えたかった」と、池田さんは企画の思いを語る。
戦争時、日本兵による性暴力は常態化し、抗日戦が激しい地域では残虐を極めた。山西省では女性たちを「強かん」所に拉致・監禁し、輪かんした。日本軍支配下の村々から、女性を「供出」させることもあった。
被害者は戦後も後遺症やPTSDに苦しめられた。性被害が個人、家族、村、民族の「恥」とされる社会の中で、女性たちは沈黙するしかなかった。
被害事実が闇の中に消えかかっていた1992年、万愛花(バン アイカ)さんが中国で初めて被害を名乗り出た。98年に万さんたち被害女性9人と遺族は謝罪と賠償を求め、日本政府を提訴した。が、他の「慰安婦」裁判同様、最高裁まで闘ったが敗訴した。
「敗訴で大娘たちは希望を失い落胆して、体調を崩したり亡くなる人もいました。私たちも打ちのめされました」
落ち込んだ大娘たちを見て、長年裁判と医療支援を続けてきた池田さんたち「山西省における日本軍性暴力の実態を明らかにし、大娘たちとともに歩む会」(以下山西省・明らかにする会)は、大娘たちの名誉回復の方法を考えあぐねた。現地で話し合う中から出てきたのが山西省でのパネル展だった。
山西省・明らかにする会やアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(以下wam)などを中心に実行委員会が組織され、wam運営委員長の池田さんは共同代表になる。
八路軍紀念館の別館は、壁面の長さが170メートルもある大きな会場だ。実行委は、wamで開催された「女性国際戦犯法廷展」や「中国展」をベースに、大小166枚ものパネルを作製した。中国語への翻訳、レイアウト、字体・色使いの指定、校正など、膨大な作業が2年余り続く。池田さんは実行委のメンバーと何度も訪中し、紀念館や宿舎に缶詰めになってパネルを完成させた。中国側の都合で開催が突然延期されるなどの困難もあったが、昨年11月2日、ついに武郷展開催にこぎつけた。
「自分の被害と闘いが描かれたパネルを食い入るように見ていた大娘は〝スッキリした〟と語りました。〝お母さんが生きていたら喜んだのに…〟とパネルに合掌する娘さんたちを見て、胸がいっぱいになりました」