吉川勇一『コメンタール 戦後50年第4巻 反戦平和の思想と行動』 社会評論社 1995年
p.30〜38.
ベトナム戦争とベトナム反戦運動
ベトナム戦争は、この戦後五〇年という半世紀の中で、人民中国の成立、ソ連・東欧社会主義圏の崩壊とならんで最大の世界史的事件であった。アジアの一農業小国の人民が世界最強の軍事力をもつ国家との戦争に勝利したのである。
この戦争で、アメリカの北爆を非難し、ベトナムからの撤退を要求する運動は、社会主義国はもちろん、西欧資本主義諸国、アジア、ラテンアメリカなど第三世界諸国の区別なく、また、ストックホルム・アピールやベルリン・アピールのような、どこかの世界的指導部が強力に各国の運動を「指導」した結果としてではなく、まさに自発的に、大衆運動が全世界で澎湃と、しかも非常に激しい形態も含みつつ巻き起こったのであった。これがアメリカの支配層、および一般民衆に与えた影響も大きく、九〇年代の湾岸戦争がこの傷を癒すという効果をもっていた点も見落とせない。また、日本の運動としては、このベトナム反戦の実践の中で戦前との断絶の契機を掴むことになる。六〇年代後半から七〇年にかけてのこの大きな転換は、このコメンタールの他の巻でもふれられるはずである。
原水爆禁止運動の中で日本の加害責任との関連の重要性を指摘する意見はあったが、運動の中では重視されなかった。この問題を正面からはっきりと主張し、反戦運動の思想の基礎の一つに据えるのは、「ベトナムに平和を1市民連合」(べ平連、一九六五〜一九七四年)の中心となった作家の小田実である。
べ平連が発足するのは一九六五年四月だが、翌六六年八月、べ平連は東京で「ベトナムに平和を!日米市民会議」を開催する。この時の基調報告が本書に採録した小田実の「平和への具体的提言」である。ここで小田ははじめて「被害者にして加害者、加害者にして被害者」という、以後たびたび繰り返す主張を全面的に展開する。そしてそれはべ平連にとどまらず、急速に反戦運動全体のなかにひろがる意識となる。全共闘の主張した「内なるベトナム」、さらに「内なる東大」という自己否定の思想にもそれはつながる。
武藤一羊は次のように論じている。
もう一つ指摘しておくべきことは、べ平連の市民的不服従、非暴力直接行動についての実践である。べ平連は、一九六六年の六月、アメリカから二人の活動家、ハワード・ジン(ボストン大学教授)とラルフ・フェザーストン(学生非暴力調整委員会――SNCC活動家)を招いて、北海道から沖縄まで全国一四カ所での反戦講演旅行を行なった。これがべ平連の組織を全国にひろげるきっかけとなるわけだが、そこでの二人の発言、とくにアメリカの反戦運動、黒人解放運動における非暴力直接行動と直接民主主義にかんする理念は、それまでの日本の平和運動にほとんどなかったものだけに、新鮮な衝撃力をもって、各地べ平連の活動家に受入れられていった。そして、これは、べ平連有志による「非暴力反戦行動委員会」の結成と、市民的不服従の行動の実践へと発展してゆく。小田のこの報告でも、個人を国家の原理から切り離すことと関連して、市民的不服従の行動が提唱される。この「日米市民会議」の集会に出席していた中野重治は、小田切秀雄もあとで驚いているように、個人の責任の問題について自己批判ともとれる文章『WE SHALL OVERCOME』を書くことになる。しかし、あとでふれるように、非暴力直接行動あるいは市民的不服従の理念は、六八年以降、「不服従」→「実力行動」→ 「暴力の使用もいとわぬ行動」と歪められる傾向が強まる中で、ほとんど発展させられなかった。
べ平連がそれまでの運動と大きく相違していたもう一つの点は、運動の組織のありようにもあった。べ平連の組織形態が、それまでの戦後の諸運動の組織への批判の上に、それを乗り越えようとする構想であったことは明らかだった。その構想にもとづく組織がどういうものになったか、それをエピソードをまじえつつ具体的にのべているのが、本書に収録した小田実の「『反戦と変革』への序文」である。
この文の中では明示的な言葉では語られていないが、それまでの平和運動の組織と異なるべ平連のもう一つの原理には、直接民主主義あるいは「参加する民主主義」participatory democracy がある。ピラミッド型の組織をもたないべ平連の意志形成は、東京での場合、一つには毎月の定例デモの場で行なわれた。そこに参加したものは、資格や経歴、職業などによる区別なく、平等な立場で提案、意見、批判を出すことが保証された。提案がされても賛成が少なく、多くの人が加わってこなければ運動として成立しない。提案が人びとの共感を呼び、賛同する人が多ければ、それはべ平連の運動として展開されてゆくことになる。リーダーシップは、役員としての地位や社会的肩書きで保証されるのではなく、提案される行動への人びとの同意、そしてその行動の中での、その人の資質、実践によって成立した。運動の中で知識人とそれ以外の職業の反戦活動家との区別は、原則として否定された。
この小田の「序文」に描かれているべ平連の組織の形態は、べ平連と同じく、六〇年代後半から七〇年代初期にかけて、反戦運動の中でも重要な役割を果たした学生による「全共闘」(全学共闘会議)および労働者による「反戦青年委員会」の組織原則と極めて通ずるものをもっている。東大全共闘の村尾行一のつぎのような記述は小田の文とほとんど重なるではないか。(もっとも、その記述は全共闘運動初期のありようを理念化したものであって、後期においては、それは崩れていったのだが。)
決定の非拘束性もこのことと密接な関係がある。既成の左翼運動の場合なら、自己の意志や心情に反する決定にも、できうるかぎりの克己や“学習”=自己欺瞞をもって服従する。そして耐忍限界を突破したとき、決定の拘束力というタガがはずれて、「ツイテユケナイ」とか「ヒキマワサレタ」とか泣言をいいだす。だからこの場合、ある活動への不参加はぎりぎりの服従の果てのそれだから、運動からの全面的な脱落となる。だが「全共闘」にはこのような陰湿さは微塵もない。カンパニアに向けての“ビラマキ”や”タテ看書き〃のみをおこなう、という参加の仕方や、集会には参加せずにその後のデモだけには加わる、という行動様式もよく見られる。さらには“時計台放送”がいかにその重要性を怒号するカンパニアでも、当人が意義を認めがたければ彼は遠慮なく参加しない。それでもなお彼は「全共闘」から離れていないのである。
さらにまた、反戦青年委員会の組織原則、(1)個人の創意を運動に反映し、(2)運動の自立性をかちとり、(3)青年学生の広範な統一を実現する、という「創意」「自立」「統一」の三原則も、これらと共通するものであった。
べ平連、全共闘、反戦青年委員会は、ベトナム反戦運動の中で中心的に活動したグループだったが、もちろん、それが覆い切れない無数の運動グループが存在し、それぞれ独自のユニークな活動を展開した。そしてそれらの間では、幾度か大規模な共同の行動が組織された。最初の一九六五年六月九日のいわゆる「6・9統一行動」は、六〇年安保闘争の枠組みをかなり踏襲したものだったが、六八年以降の何度かの大きな統一行動は、戦後五〇年の反戦運動の中で前例のなかったようなまったく新しい形式が生みだされ、それはつぎのように明文化された。
(2)その場合、参加する団体、グループ、個人の政治的見解、思想、活動の流儀などの相違を認め、相互の立場を尊重する。差別、選別をしない。
(3)各グループが責任をもって選択する行動形態の自主性を尊重する、それらの行動が両立しうるように、各グループ、個人の意に反して特定の行動形態を強要したり、他のグループの行動に介入、妨害をしない。
(4)団体、個人相互の批判は自由、しかし誹謗、中傷をしない。まして意見の相違を暴力、脅迫によって解決しようとするやり方を認めない。
福富節男が書いているように、これらの原則は今となっては実に当たり前のルールのようであるが、共産党系の大衆団体の受入れるところとはついにならなかったし、また、内ゲバをもいとわぬとする新左翼党派をふくむ統一行動も大変な苦労だった。七〇年代に入ると内ゲバは次第に激化した。内ゲバ、リンチ、粛清――マルクス主義政党の中で、戦前から引き継がれ、戦後も払拭できなかったこれらの問題は、思想の相違を除名といった組織的処分や全戦線
からの追放、さらに極端な場合には肉体的な抹殺によって解決しようとする方法であり、市民運動の到底認め得るところではなく、市民運動はそれを阻止しようと努力を重ねたが、ついに成功しえていない。
久野収・鶴見俊輔・藤田省三の『戦後日本の思想』は、五〇年代の終わりに行なわれた討論の記録だが、その中に、「限定つきの賛成のほうが、考えて賛成してる場合が多」く、「限定なしの賛成は、思考抜きの賛成である場合がある」(鶴見)という指摘があり、「保留とか、条件づきとか、探究とかを積極的論理価値として、多値論理的に考えていくことが必要」(久野)というやりとりがある、内ゲバに至るような敵対的対立を阻止する上での重要な示唆であった。内ゲバの論理は最後には一九七一〜七二年の連合赤軍事件を生み
脱走兵援助援運動、反軍・叛軍闘争
さまざまなユニークな活動形態をうみだしたべ平連だが、その中で特筆すべきものに、米軍からの反戦脱走兵への援助と、その国外への脱出支援、そして米軍基地内での米兵による反戦運動の組織がある。
べ平連がはじめて米脱走兵を受入れたのは、一九六七年十月で、横須賀に入港した米空母「イントレピッド」号からの四水兵をソ連を経由して中立国スウェーデンに送りだした。この事件の発表は衝撃的で、その一ヵ月前の全学連による羽田デモ(十月八日、京大生山崎博昭が死亡)、首相訪米直前、首相官邸前でのエスペランティスト由比忠之進による抗議焼身自殺、さらに翌六八年一月の佐世保における米原子力空母「エンタープライズ」号の入港阻止闘争などと連動して、六八年以降のベトナム反戦の運動の全国的高揚の契機となった。
氏名が発表された者だけで一八名の米兵が、べ平連の脱走兵援助機関であった「JATEC(脱走兵援助日本技術委員会)」の手で国外に脱出した、それまで、「脱走兵」という言葉は、日本では裏切、卑怯、臆病、国賊、非国民などというイメージをともなっていた。しかし、ベトナム反戦の強い世論の中で、それは平和、不戦、人道、良心、勇気、真の愛国などのプラス・イメージとともに受入れられるように逆転した。また、庶民出身の米兵を日本の庶民の生活の中で匿うという経験を通じて、それにかかわった市民は、アメリカ文化とアメリカ人に対する対等な視点を獲得した。本書に収めた鶴見俊輔の「国家の言うままにならぬという記憶」は、この活動から四半世紀を経たあとでの総括である。
脱走兵援助活動は、その後、在日米軍基地の中での反戦米兵による反戦運動の組織へと方針を転換する。三沢、横田、横須賀、板付、嘉手納等々、日本の主要基地のほとんどにその組織はつくられ、英文のアングラ機関紙も発行されるようになる。和田春樹、清水知久を中心とする東京の「大泉市民のつどい」は、朝霞の米野戦病院の横でマイクスピーカーを使った英語による「朝霞反戦放送」を開始し、その形式は全国の米軍基地周辺の運動に拡がったし、また、三沢、岩国にはべ平連の若者たちによる米兵の反戦運動の拠点となる「反戦スナック」も開店した。岩国の米海兵隊基地内での活動は、その活動の質、規模、継続期間において、世界の中でも際立ったものであり、それだけにまた、これへの弾圧はアメリカ国防省までからみ、日本のマスコミを総動員する執拗なものがあった。
一九六九年三月六日、米上院軍事小委員会(委員長=ダニエル・イノウエ議員)は、『米脱走兵実態報告』を発表、米軍脱走兵の人数が一九六八会計年度に五万三三五七人にのぼり、前年度より一万三〇〇〇人以上も増加したことを明らかにするとともに、国防省当局がこの深刻な問題を理解していないと警告した。この報告書は、「世界七ヵ国に一三の米脱走兵援助機関があり、そのなかで精力的で効果的な活動をしているのは、日本に根拠地を持つ機関である」としている。
本書に序文を再録した清水知久・古山洋三・和田春樹編『米国軍隊は解体する』は、全世界で展開されたこうした米軍内部での反戦行動が具体的に紹介されている。
全国で高揚するベトナム反戦運動は、日本自衛隊内にも影響を与えた。一九六九年秋、自衛隊佐渡基地の中で、小西誠三書はみずから作成した「アンチ安保」というビラをまき、公然と反戦の姿勢を明らかにした。その後、小西は自衛隊法違反で逮捕され、新潟地裁、さらに東京高裁で裁判が続く。小西を支持する活動が拡がり、自衛隊の沖縄への派遣などが進むにつれ、市ヶ谷駐屯地ほかから反戦自衛官が小西につづいて登場してきた。当初、べ平連など市民グループおよび新左翼諸党派は小西裁判の支援に力を注いだ。
市民運動の立場から、小西誠の行動の政治的、思想的意味を積極的にさぐろうとしたものとしては、前田俊彦の重要な考察がある。
その後、小西は特定の新左翼党派に急速に接近するとともに、その主張は人民武装路線に収斂してゆく、そして小西裁判の支援に参加するものたちに「革マル粉砕を叫ばぬようなものに自分を支援する資格はない」と要求するようになるにおよんで、べ平連など市民運動の大半は小西支援活動から去った。一九七〇年七月から始まった小西裁判は、新潟での一審が無罪、検察側の控訴による東京高裁での二審も無罪判決となり、確定した。
……〈中略〉……
べ平連はパリ停戦協定が締結されて以後、一九七四年に解散する。全共闘、反戦青年委員会は、後期においては新左翼党派による系列化が進み、内ゲバの激化とともに急速にその影響力は後退し、連合赤軍による浅間山荘事件によって思想的打撃を受け、運動としては消滅する。
ベトナム反戦行動に加わった人びとは、その後、反原発運動、反公害闘争、差別撤廃運動、環境保全運動、生活協同組合運動、地域での政治運動(自治体選挙への参加)、第三世界との連帯運動など、さまざまな分野に拡散して行動を続けてゆくことになる。