これはかつて「週刊アンポ社」(ベ平連が作った有限会社)が発行していた『週刊アンポ』に掲載された支持者からの小説です。すべて、原稿料無料で『週刊アンポ』のために提供されたものです。
(『週刊アンポ』 第4号 1969年12月29日号)
大将と侍たち
城山 三郎 (挿絵:辰巳四郎)
大将と侍たちが来るまでは、島は平和そのものであった。
平家の落人の末裔という島人たちは、武具というものを知らず、手にするのは鋤・鍬・釣竿それに琵琶ぐらい。汐の速い海にとりまかれた島には、外部からの交渉や干渉も少なく、村の若者たちのたのしみは、琵琶を弾いて語ることであった。
島にきびしいのは、西風であった。だが、西風の強い日は、きまって美しい夕焼けがあって、島人の心を赤々と燃え立たせた。
島の土地は肥沃とはいえず、麦や甘藷などがわずかにできるだけで、草原とも砂地ともつかぬ中に、小さな畠が点在していた。もっとも、海からは魚や貝、海藻などがふんだんにとれ、島の人々が自活して行く上に不自由はなかった。
そうした平和で、平和なだけでとりえのない島には、永い間、外敵の攻めこんてくることもなかった。島の人は、もはやく合戦の何であったかも知らず、また、島には永久に合戦の起るはずはないと信じていた。
ひとにぎりの小さな島である。合戦など起ったら、逃げ場がなく、全島を血で染める他はない。それでは折角戦いのない地を探し求めて落ちのびてきた祖先の気持にも背くことになる。
島の人々は、合戦のことなど考えることもなく、永い歴史を過してきた。そこへある年の夏、いきなり、見知らぬ大将が多勢の部下をひきつれ、軍船に乗って押し寄せてきたのだ。
大将の言い分は、彼等の力で島を守ってやるということであった。島の人はとまどった。島はそれまででも十分に平和であったし、争う気なども毛頭ない島人にとって、合戦が起って勝つの負けるのなどということは、考えても見なかったからである。
だが、大将と侍たちは、容赦なく島の中央に陣取り、仔細らしく、あちこちの岬に物見を置き、さらに、馬を徴発して練兵にかかった。どこの国の軍勢が攻めてくるというのか知らぬが、攻めてくるとしても、馬まで運んでくるわけには行かない。そうした敵を蹴散らすには、騎馬武者の部隊が最も恰好と判断したためであった。
のどかな農耕しか知らなかった馬たちは、荒々しい鞭を当てられ、悲鳴のような高いいななきをあげて駈け廻る。その調教の進むさまを、大将は陣屋の前に床几を出して、そこで眼を細めて眺めているのであった。
島人たちは、この侍と大将には、できる限り触れないように、ひっそり暮していた。侍たちのために、麦や廿藷、魚などを献上させられ、馬も召し上げられて、生活は苦しくなったが、争いごとを好まず、また争う力も持たぬため、ただおとなしく振舞っていた。島の若者たちも、鬱憤を抱いたが、その鬱憤を琵琶の弾き語りで慰めた。その文句には、戦いの愚かしさや悲しさを伝えたものが多く、それをうたうことで、自分たちの生き方の心の支えとしていた。
やがて、大将がこのうたの文句に気づいた。調べの悲しさもあって、侍たちの気持にも悪い影響を与えかねない。一切の弾き語りを禁止するという命令を出した。
だが、若者たちにしてみれば、弾き語りこそ、唯一つの生甲斐であった。あちこちで隠れるようにしてうたっていたのが見つかって、次々に捕えられた。
大将は、そうした若者たちを、大将の陣屋の近くの畠で働かせた。そこはまた練兵場にも使われるところで、騎馬武者たちが疾走し、その蹄にかけられて殺される若者も出た。
大将はそのころ、ふと思いついて、ときどき騎馬武者たちを集めて競走させ、それを島人にも見物させることにした。訓練をかねての人心収攬を考えたのだ。
武者たちは、砂ぼこりを巻いて駈けた。勇壮であった。大将は、それをさらに重々しいものにするため、二頭立ての馬に箱型の車をひかせて競争させることにした。合戦のときには、そこへ弓組や鉄砲組を乗せて、敵を踏みにじるというのだ。
箱馬車が重い地ひびきと大きな砂煙を上げて疾走するさまは、島人に畏怖の心を起させた。どんな敵でも叶わないように思わせた。
大将が箱馬車競走を催すのは、夕焼けの美しいときであった。風が強く、砂ほこりがはげしく舞い立って、勇壮な気分をそそるためである。
ところが、その砂ぼこりにまぎれて、麦畠で働かされていた捕われの若者が、箱馬車のためひき殺された。
すると、大将はそれにこりるどころか、その後はわざと捕われ人を、競走の場に近い畠へひき出して働かせることにした。改悛の情のない若者は、ひきずり出すようにして箱馬革に轢き殺させた。厚い砂ぼこりに遮られているため、見物している島人たちの眼には届かぬ巧妙な殺し方であった。こうして、大将の気に入らぬ島の若者たちが何人も殺されて行った。
いまや島人たちにとって、美しい夕焼けは恐怖のしるしになった。島が血で染まりそうに思えた。だからといって、厚い砂ぼこりの彼方の出来事については、抗議の仕様もなかった。
大将は悦に入り、いよいよ箱馬車競争をさかんにした。自分は陣屋の前の床几に腰を下し、酒をくみながらの見物である。
ある日、あかね色に空も岬も染まった鮮かな夕焼けどき、ひときわはげしい西風の中で、箱馬車競争がはじめられた。数十頭の馬と馬車の立てる濛々たる砂煙。その砂煙が陣屋の方角にまでなびいてきた。
だが、大将は床几の上でがんばり、眼をみはり、耳をすましていた。その日も、三人ばかりの弾き語りの若者を、その競争の中で殺すことにしてあり、断末魔の悲鳴を聞くのをたのしみにしていたからである。
だが、はげしい風の音に吹き消されたのか、悲鳴は一向に聞えてこない。その中に、大地をふるわせて箱馬車の音が追ってきた。あたりは一面の砂煙。箱馬車の音は、みるみる迫ってくる。それは、いつもは陣屋の前をかすめ過ぎるはずなのに、まっすぐ陣屋へ向かってくる。砂煙のため方向を誤ったのらしかった。
大将は狼狽した。あわてて逃げようとしたが、酔いが回り、砂ぼこりに眼をつぶされて、体が言うことを聞かない。
その瞬間、砂煙の向うから、幾頭もの馬、そして箱馬車がおどり出て、そのまま大将めがけてのしかかってきた。
「ぱかもの。おれが誰だかわからんのか!」
大将は絶叫した。
だが、狂い立った馬には、大将も若者も区別はなかった。馭者の侍が気づいたところで、手綱の間に合う状態ではなかった。
大将はその幕僚たちといっしょに踏み殺された。
侍たちは放心した。まず箱馬車競走がとりやめとなり、ついで、騎馬武者の競走もやめた。
最後に、侍たちは侍であることもやめた。夕焼けは相変らず美しく、刻々変わる海の色を前に、弾き語りに耳を傾ける侍たちの姿が見られるようになった。
(おわり)
(『週刊アンポ』 第4号 1969年12月29日号)