29. 小田 実 「西雷東騒 今、この世界のなかで あらためてベトナム戦争を考える」(『毎日新聞』2002年3月27日号) (2002/03/28搭載)
西雷東騒
小田 実今、この世界の中で
あらためてベトナム戦争を考える
二月末から三月初めにかけて、私はベトナムへ行った。かつての「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の運動の参加者を中心に、私自身をふくめて三十人が出かけた。「ベ平連」は一九六四年、アメリカ合州国が強行した「北」ベトナムへの空爆――「北爆」に抗議して私や鶴見俊輔氏らがキモイリになって始め、そのあと「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本は戦争に協力するな」の三つの目的の下、日本各地に大きくひろがり、一九七四年、前年の「パリ和平会談」での和平協定成立を受けて解散するまで九年半余つづいた市民運動だが、ホーチミン市の戦争証跡博物館が運動の資料を保存、展示したいと申し出て来た。その申し出を受けて集めた資料の贈呈をかねて、三十人はベトナムへ出かけた。
「ベ平連」が解散してからでも三十年近くが経つ。かつての参加者も年をとった。元「代表」の私は六十九歳。贈呈資料の準備、三十人の旅の組織の中心となった元「事務局長」の吉川勇一氏は七十歳。三十人のうちの多くがかつての「ヤングベ平連」の若者だが、今は五十代。面白かったのは、かつては大半がただの学生だったのが今は教師、協同組合の理事、知的障害の児童施設職員、市会議員、作家、弁護士、不動産業、主婦、フィットネス・インストラクターなど.多士サイサイの市民になっていることだ。「ベ平連」はよく「市民運動」の「元祖」と言われるが、この三十人はかつてよりさらに幅広く、また強く「市民」の存在と力をあらわしていた。
博物館での贈呈式にハノイから来て立ち会ったのは、かつての南ベトナム民族解放戦線の副代表、「パリ和平会談」には南ベトナム臨時革命政府の外相として出席して、今は副大統領をつとめるグエンチビン氏だが、彼女も他のベトナム人たちも、私たち三十人の「市民」のありように強く心を動かされたように見えた。ベトナムは今、新しいかたちでの市民の政治参加を必要としている、それを政治の要路の人たちは認識し始めている――翌日、グエンチビン氏らとあらためて話して私はその印象を強くもった。
私たちが博物館からの申し出を受け、資料集めに努力し、ついにベトナムまで出かけたのは、もちろん、ホーチミン市の戦争証跡博物舘というベトナム戦争の記録収集、保存、展示の本拠に日本の市民のベトナム反戦運動の資料が保存、展示されることは日本人、ベトナム人双方にとって、あるいはまた、博物館を訪れる世界各地の人間にとっても必要なことだと考えたからだが、さらにもうひとつ、昨年九月のアメリカ合州国での「同時多発テロ」、それにつづくアメリカ合州国のアフガニスタンに対する「報復戦争」の開始以来、「テロ撲滅」の大義名分の下、戦争を正義の発現とする、なすべきことだとする動きが世界全体でたかまって来ているからだ。今度ベトナム戦争のことを、現地で、現地のベトナム人たちとともに考える必要がある――と、これは三十人がそれぞれに考えたことだ。
証跡博物館には、ベトナム戦争で米軍が投下した「地震爆弾」、
CBU―55B爆弾の残骸が展示されている。私たちはホーチミン市を訪れたあと、米軍の大量虐殺事件で高名になったベトナム中部のソンミまで旅した。一九六八年三月一六日早朝、米軍の大部隊がこの小さな村に襲いかかり、ほとんどが老人、女性、子供、いや、ほんの赤ん坊の住民五百四人をわずかな時間のあいだに殺し、家に火をつけた。私たちはたった四人の生存者のうち二人に会った。ひとりは当時十一歳の男、もうひとりは当時四十二歳の女性だったが、どちらもがそのとき家族全員を失い、「同じ人間なのに、どうしてアメリカ人はあんなおそろしいことをしたのか」と今同じことを言った。
『毎日新聞』2002年3月27日号