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5. あの人・あの事件「『ベ平連』が初のデモ、ユニークな組織のあり方と活動の多彩さで一大ブームに!」(『日刊ゲンダイ』大阪版 2001年4月24日号)(2001/06/23 搭載)(注:大阪版は名古屋から博多までの西日本で発売)
あの人・あの事件 『ベ平連』が初のデモ、ユニークな組織のあり方と活動の多彩さで一大ブームに!
1965年4月24日、東京の清水谷公園は人、人、人でごった返していた。集まった主婦、学生らは「米国は北爆を中止せよ、日本の米国への追随反対」と書かれたプラカードを掲げ新橋までデモ行進した。
これが、以降、9年間にわたゥて日本の反ベトナム戦争運動をリードする「ペ平連」(ベトナムに平和を! 市民・文化団体連合)の初めてのデモである.
その代表を務めたのが、当時32歳、無銭旅行記「何でも見でやろう」(61年)でベストセラー作家となった小田実氏。その他、発起人には作家の開高健氏(34)や元東工大助教授の鶴見俊輔氏(42)、NHKを辞したした作家の小中陽太郎氏(30)ら、そうそうたるメンバーが名を連ねた。
彼らの知名度とざん新な運動論はいつしか、“市民”を巻き込んで一大ブ−ムを引き起こす。綱領も規約も会員名簿もない。あるのは「米国はベトナムか手を引け」という原則だけ。これに賛同すれば、推でも「ペ平連」を名乗ることができた。
この個人の自主性を最大限に尊重する姿勢が共感を呼び、ピーク時の68年ごろには全国で実に350もの「ベ平連」が誕生。最大時には5、6万人規模のデモ集会を行い、政府や既成の革新勢力に衝撃を与えた。
32歳の若者が、流行作家という地位を捨て果敢に問題に立ち向かった。何千、いや何万人をうごかしたそのそのパワーとは一体、何だったのか。小田氏本人が当時せこう振りかえる。
「大きなことをやろうなど、まったく思わなかった。ただ単にベトナム反戦運動をやりたいから、やった。なぜか。限度を超えていたからだ。あの戦争は『ひどすぎる』なんてもんじゃなかかった。『いくら何でもひどすぎる』戦争だった。それで立ち上がった。参加した若い世代もそう。皆、『いくら何でもひどすぎる』と思っていた。だからこそ、あれだけの運動に広がっていった」
活動は定例デモだけにとどまらなかった。徹夜ティーチ・イン(居残り学習)、「週刊アンポ」の刊行、ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙への意見広告、新宿駅西口広場でのフォークゲリラなど、ユニークな活動が話題を呼んだ。さらに、脱走米兵支援組織を結成し、20人の脱走兵を助け、米軍基地内での反戦運動を支援するなど、次々と状況を打破し、戦後平和運動史の一画期を記した。
しかし、皮肉なことに組織の拡大がかえって摩擦を起こすことになる。治安当局の弾圧や、全共闘スタイルを主張する勢力の登場が、ペ平連内部に亀裂を生じさせていった。
そうした中、73年1月、「ベトナム和平協定」が結ばれると「一応の目的を達成した」として、翌年1月26日、「ベ平連」はモの活動に幕を閉じる。9年間で行われた定例デモは97回にも及んだ。
もっとも、小田実というひとりの思想家が示した「市民運動思想」は確実に一時代に種をまき、その後の被差別部落や公害、薬害問題などに引き継がれていったことは、間違いいない。
「行動こそがすべて。『ペ平連』をやったおかげで『市民』を考えた。市民が市民社会を、新しい市民社会をつくる。いろいるな思想を組み立てつ<るのが市民の思想だ」――。
これが、「市民社会のあり方そのもの」を問い続けてきた小田氏の原点である。まさに今、、「いくら何でもひどすぎる」政治を変えるには、大衆がこの原点を自問自答するしかない。
(『日刊ゲンダイ』大阪版 2001年4月24日号)