17. 鶴見俊輔 対談「未完の世紀 第4回 アメリカ

聞き手 西島建男

『論座』1999年5月号

 

鶴見  ……ベトナム戦争というのは、まだ二百年しかないアメリカの歴史のなかで、いちばん長い戦争なんですよ。しかも、侵略してくるおそれがない相手に襲いかかっていった。全く無茶な、アメリカ国家の歴史のなかの、最も醜い部分なんです。アメリカ史というのは短くて、中国の五千年の歴史などとは違う。だから、この二百年のなかの、大変、輝かしい部分と、最も醜い部分を見たことになりますね。 ベトナム戦争のときの、私の気分は、ホワイトハウスの前で焼身自殺した人がいたけれど、あれにとても近いんですよ。だから、ベトナム反戦は私としては自然なことなんです。イデオロギー的なものじゃない。私は、マルクス主義者でも共産党員でもないんですから。
 私は脱走兵を助けるときに、いちばん生き甲斐を感じました。自分自身が脱走したいと思ってたんですから。だから、自分の望みを実現してる人たちを助けることになるわけ。ただ、日本人で脱走したのが一人いるんですよ。その一人だけは、私の家の二階に泊めたんです。アメリカの政府は、「捕まえに行く」と声明したでしょ。来てほしい、と思ったんですよ。脱走兵援助活動にどこからか大金をもらっているわけじゃないから、パブリシティーがなければ、脱走兵援助の金が入ってこない。足をひっぱるまでは、ガンジーのいう意味での非暴力直接行動に入ります。私がそれをやって報道されれば、アメリカに不利、私には有利になる、と思った。大使館は何度も、「諦めていない」と声明を出しましたが、結局来なかった。計算したんですよ。

西島 自分たちに不利だということがわかったんですね。

鶴見 そうそう。そのとき、ライシャワーが大使だったら、もっとおもしろかったんですが、もう退いていた。ライシャワーは、私の日本語の先生なんです。

西島 あ、そうなんですか。これも皮肉な話ですね。

鶴見 ライシャワーが同志社に来たときに、彼は私を向こうに回して、ベトナム戦争の弁護をしたんですから。私はライシャワーが私をある程度、信頼してることがわかったんです。というのは、自分よりはるかに下手な日本語の通訳を大使館員として連れて来たわけですから。それを間において、私の話を聞くふりをしている。つまり、二倍の時間、考えることができるからです。そのとき、私は「この人はずるいんですよ。この人は私の日本語の先生なんですよ。それなのに通訳を使ってるのは、私の二倍考えられるからなんですよ」と。(笑い)

西島 やっぱり、それは阿吽の呼吸ですね。

鶴見 そうそう。弁慶と富樫なんだ。そもそも、ライシャワーがベトナム戦争をいいと思ってないことを、私は知ってるんですよ。その意味で、非常にいい男なんですよ。ライシャワーは大使でいた間はずっと、私を招いてくれていたんですが、私は一度も行ったことがない。ものすごくいらだたしかっただろうと思う。だから、ライシャワーの自伝で、私は非常に悪く扱われているんですが、私は彼の気分、わかるね。(笑い)

西島 結局、どうしてアメリカはベトナム戦争なんて、やってしまったんでしょうね。長い歴史があるんでしょうけど。やっぱり冷戦の影響ですか。

鶴見 そうですね。ドミノ理論ですね。ソ連を総体として敵にした。ソ連側が内側から割れてくるということ、それは予測できなかったんでしょう。

西島 まだ、あの時代はね。鶴見さんがどこかで、ニクソンが、アメリカの大統領のなかではいちばんすごいということをおっしゃってたと思うんですが。

鶴見 それは五十嵐武士・東大教授から教わったんです。たしかに、結果だけから見れば、戦後の大統領のなかでいちばん仕事をしている人なんですよ。つまり、中国にキッシンジャーをやったでしょ。ほかの人は、アイゼンハワーとかケネディとか、人間として偉い人はいるけれど、業績からいうと、ニクソンほどのことはしていない。ニクソンっていうのは演説もたいしたことないし、人間もね……。

西島 あまりいいと思えませんからね。しかし、ベトナム戦争も、終結の方向にもっていったし、米中国交回復も……。

鶴見 米中ですよ、いちばんすごいのは。政治って、そういうものでしょ。いい人間がいいことをするとは限らない。

西島 そうですね。いい人間が、かえって悪いことをする場合もありますね、政治の場合。

鶴見 ライシャワーの話に戻ると、ライシャワーは大使を辞めたら、すぐにマサチューセッツで演説して、「このベトナム戦争が続いていて、どんどん日本におけるアメリカの評価が下がっている。早くやめなきゃいけない」と演説してるでしょ。大使の間は、言えないんですよ。

西島 そうですね。今から考えると、べ平連は大変大きな役割をしたと思うんですけども、どう総括なされますか。日本で今までなかった組織だったと思うんですけど。

鶴見 小田実という人は、全く日本の政治に現れてこなかったキャラクターだと思いますね。彼は鉄腕アトムと同じような意味でのキャラクターなんです。彼もマルクス主義者でもないし、共産党員でもないんですよね。
 だいたい、イデオロギーを彼は持っていない。彼の底にあるのは、少年の難民だったという体験なんですよ。だから、『難死の思想』を書いた。あれはすばらしいもので、ほとんど前例がないと思います。それがべ平連の根底にもあったと思う。私は小田がああいう人だとは知らないで、運動に呼び込んじゃったんですよ。そうしたら、アラジンのランプみたいで、ワーツと巨人になっちゃったんだ。その結果、運動が大きくなって、私はそれに押しつぶされそうになって大変に苦しんだ。だけど脱走兵が出て、その受け皿になったのは苦しいなかでの救いです。これが私のやりたいと思った運動なんです。もう、このことのために俺は生きてきたというほどの感激だったですね。

開高健は名文家で
政治文章としては信じがたいから
人を動かす政治ビラは
書けなかつた

西島 岩国での運動がありましたよね。岩国のあれは非常に大きな反響でしたよね、あの当時。凧をあげたんですよね、たしか、飛行機を止めるために。

鶴見 飛行機は止まったんですよ(笑い)。凧あげのうまい学生がいて彼が小舟を借りてきて、海に出た。凧を高くあげて、邪魔をするんですよ。米軍の司令部から「止めてくれ」という要請があって、機動隊がやったけど、止まらない。私のところに来て、「やめるように言ってくれ」と言うんです。でも、べ平連は大将がいて、指令を出してという組織じゃない。偶然、私が、年配の人間としてそこにいるから、全体の指揮をとっているように見えるけれど、そんなものじゃないんだよ。
 海に出ていた人は写真家として今、かなり有名な人ですが、私は彼に「これは命令ではない。やめてくれと、お願いだからと言ってきてる。どうする」って聞いたんですよ。そしたら、その男が「うん」って考えてね。寝ころんで凧あげてる。木枯し紋次郎みたいなんだ。「もう少し考えてみる」って言って、また寝そべって。そのうちたまりかねて、機動隊がもう一隻、でかい船を借りて、十人ぐらい乗ってやってきた。ところが、十人ぐらい乗ってると重くて、浅瀬だから動かなくなっちゃうんですよ。(笑い)
 警察は上意下達ですから、身分の低いやつに「おい、海のなかに入って、船を押せ」って言うわけ。そうすると、言われた彼らがズボンをたくし上げて入って、一生懸命押してるんだよ。ついにそういう奴隷船みたいにして警察がわれわれのほうの船に着いた。一人しか乗ってないんですから、ついに凧が下りた。ずいぶん時間たちましたよ。おもしろかった。

西島 映画になるシーンですね。ちょっと違いますけど、開高健さんの役割をどうお考えですか。

鶴見 開高は本気だったんですよ。開高はただ一人、ベトナムに行った。戦争のなかに入ったでしょ。だから、南ベトナム解放民族戦線に対して非常な肩入れをしたんです。これが、ソ連的な共産主義世界観から自由な、ひとつの突破口になると考えて。それが、北ベトナムによる統一しかなくて、ソ連と同じものになるだろうというのがはっきりしたときに、ガクッと足おって、下りたんですよ。

西島 非常にショックを受けた。

鶴見 開高は、非常によくやったんですよ。ニューヨーク・タイムズの広告なんかは開高の発案。徹夜ティーチインのときもやって、金集めも、終わりまでちゃんとやった。だから、べ平連の飾りだったという人じゃありません。彼は、そのなかでも本を書いてますからね。

西島 『ベトナム戦記』は、いまや古典です。

鶴見 それに開高は名文家なんです。名文であるために政治文章としては、ちょっと信じがたいんだよ。小田のほうが粗削りだから、なんか信頼できるような気がするんだ。開高ほどの名文家だと、人を動かすビラは書けません。

西島 なるほど。一九七〇年、ベトナム戦争あたりに、先生は『北米体験再考』をお書きになって、それまでわからなかった、黒人とかインディアンとか少数派のほうのアメリカの運動について学んでいかれることになりますね。

鶴見 小田が自分で呼んできたユダヤ系が一人と黒人が一人と、北海道から沖縄まで、縦断講演旅行をやった。一方的に演説するんじゃなくて、ティーチインをずっとしたんです。小田はああいう、とんでもないことを考え、状況に合わせて新しい手を打っていったね。だから、べ平連は小田が切り開いた。私は知らないで、小田をひっぱりだした責任上、終わりまで逃げられなかったということなんですよ。だから、べ平連と私との関係はそれだけなんです。
 学問・思想のほうの話に少し戻っていきたいんですが、……

にしじま たけお  1937年、東京都生まれ。朝日新聞学芸部で編集委員として思想・文化などを担当。97年退社。近作に「戦後思想の運命」(窓社)。

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