174 中川六平『ほびっと 戦争をとめた喫茶店――ベ平連 1970-1975 in イワクニ』(講談社刊)についての書評( 各全文) (10/02/22掲載)
中川六平さんの著書『ほびっと 戦争をとめた喫茶店――ベ平連 1970-1975 in イワクニ』(講談社刊)については、「(1) べ平連関連のニュース 」のNo.548にお知らせしてありますが、この書籍について、多くの好評な書評などが出されています。以下にそれを紹介します。
@ 反戦運動を映し出す伝説 (『共同通信』配信、『山梨日日新聞』09年12月6日号ほか、『信濃毎日新聞』『新潟日報』などにも)
評者:海老坂 武
1970年代文化の伝説の一つに、反戦喫茶「ほびっと」の存在があった。山口県・岩国の米軍基地のすぐ近くに、米兵に反戦を呼び掛けるコーヒーハウスが堂々と開かれたのだ。
ベトナム戦争たけなわのころ、岩国基地から次々に、米兵がベトナムに送り込まれていたころであった。
このコーヒーハウスは同志社大の学生だった20歳の六平クンが、学業をなげうって(?)、仲間たちと一緒に開いたもの。いま還暦に近づいた六平さんが、古い日記をめくりながら、伝説を物語イコール歴史として、同時代人、また現代の人々に差し出してくれた。
日記についての次の数行の言葉に、じーんとくるものがある。
「青春が、ぼくにあったとするなら、日記のなかの姿そのものだった。ここから、ぼくは始まった。大げさではない」
基地の兵士たちのたまり場にして、彼らに反戦のビラを渡す、基地の秘密を聞き出す。あるいはタコを空にあげて戦闘機の出撃の邪魔をする。
こうした活動が警察の目を惹かぬわけがない。警察のいやがらせ、脅し、手入れ、さらには「でっちあげ裁判」も経験する。米軍の司令官は「ほびっと」への立ち入り禁止の命令を出した。運動が成果を上げた何よりの証拠である。
いい話がたくさん盛り込まれている。手提げ袋から財布を出して200円カンパするおばあさん。やってきて泣きだしたり、わめきだしたりする米兵。みんな戦争にうんざりしていたのだ。
「生活か運動か」。著者たちの議論もなつかしい。コーヒー100円、コーラ80円、ヤキメシ150円で、1日の売り上げ1万円前後。数字がこまかく記さ
れているので楽しめる。
公認の歴史にはなかなか記されないのだが、反戦運動は日本文化の誇るべき伝統ではないか、そんな気がする一冊だった。
(海老坂武・フランス文学者)
A マスターはベ平連の著者だった (『サンデー毎日』2009年11月15日号「サンデーらいぶらりぃ」)
評者 岡崎武志
「ほびっと」とは、一九七二年から足掛け四年間、岩国市で営業を続けた喫茶店の名前だ。それだけなら何でもない。岩国には当時、米軍基地があった。時代はべトナム戦争の真っ最中で、しかも泥沼化していた。そこで「ベトナムに平和を!」と立ち上がった市民連合が「べ平連」。「ほびっと」は岩国における、その活動の拠点となり「反戦喫茶」と呼ばれたのだ。
古い病院だった建物を改築して、「ほびっと」は一九七二年二月二十五日にオープン。三畳の読書室が作られ、店の中ではボブ・ディランやビートルズ、岡林信康が流れていた。コーヒー百円、カレー百五十円。基地から立ち入り禁止命令が出るまで、
GIであふれていた。
本書は、準備段階から喫茶店運営にかかわり、オープンしてからはマスターとして中心人物となった本名・中川文男の当時つけていた日記と回想から成る。彼はみんなに親しみを込めて「六平」と呼ばれた。同志社大学の学生だった。
海の向うの戦争のために、学生が立ち上がり縁も所縁(ゆかり)もなかった土地で働き、暮らし、活動をする。平和ボケした今からは考えられないようなことが七〇年代前半に起きていた。そのことがまず、戦争を知らない読者の胸を射抜くだろう。
著者とは七つ違いながら、私はまるで明治維新の志士の話のようにこれを読んだ。中川は理論武装をして、意気軒昂と岩国に乗り込んだわけではなかった。岩国に反戦米兵がいると聞き、かの地へ乗り込んだ時、初めて黒人兵を見て、その体臭を嗅いだ。有刺鉄線の向うにアメリカを見た。強烈な時代の洗礼を浴びながら、著者は残してきた恋人のことが気になる、どこにでもいそうな「お人好し」の二十歳だった。そこがいい。
凧揚げでファントムを阻止し、デモを繰り返し、「べ平連」の理論的支柱・鶴見俊輔とともに反戦兵士の裁判に加担する。中川は官憲に脅迫され、店は家宅捜索を受け、新聞は連日のように「反戦喫茶のマスター」として中川の名を報道する。
「ぼくを見たことのない人は、勇気にあふれ正義感に満ちた若い男を連想するかもしれないなあ。実際はちがうのに」と、思わず著者は日記に書く。本書が書かれなければ、「ほびっと」マスターは、永遠に反戦の英雄だったろう。
しかし、日記が伝えるのは、本名・文男より、「井伏鱒二の描く小説に登場する人物を思わせた」(鶴見俊輔)、「六平」と呼ばれる若者の姿なのだ。二十二歳の著者は「『ほびっと』が、人と人が出会う『交差点』になればいいなあ」と日記に書く。
この柔らかく、やや甘い感受性は、本書が声高に反戦を叫ぶだけの硬直した記録になることから救っている。事実、市内の若者や、家出してきた少年の受け入れ場所として「ほびっと」は機能するようになるのだ。
七三年にベトナム和平協定が調印され、若き闘士も大学へ戻っていく。七五年十一月、「ほぴっと」は店を閉じた。
なかがわ・ろっぺい 1950年新潟生まれ。同志社大学卒。著書に『「歩く学問」の達人』(晶文社)などがある。また編集者として坪内祐三、石田千などの著作を手がける。 |
B 若さがまぶしい反戦記 (『北海道新聞』2009年12月20日号)
評・土肥寿郎(編集者)
「どうしてべ平連なの?」。彼女の問いに20歳の「ぼく」は答える。「ヒューマニズムかな。やっぱり戦争はよくないよ」
ベ平連−「ベトナムに平和を!市民連合」は1965年に発足した誰でも参加できる無党派のべトナム反戦運動だ。戦争が終結に向かう74年まで続き、その間に米軍基地のある青森県三沢市に「反戦スナック」が、山口県岩国市に「反戦喫茶」が開かれた。
本書は同志社大学在学中に岩国の反戦喫茶「ほびっと」のマスターとなった若者の、70年春から74年夏までの日記やメモを再構成したノンフイクションである。
先輩に誘われイワクニに赴いた70年春。「ぼく」はビラをまき、デモに加わり、反戦米兵を支援する。こどもの日には、「殺す!」と書いた凧(たこ)をあげて戦闘機を止めてしまう。「この町に住めないようにしてやるぞ」と脅す警察の妨害にもめげずに72年、仲間と共に開業した喫茶店は、物語「ホビットの冒険」から命名。一日1万円の売り上げを目標に、米兵や市民を相手に素人商売が始まる。
ときには家出した娘の親に会い、客の恋の悩みを聞き、「戦争に反対しているのだから相談にのっつてくれるだろう」と言うおでん屋のおばさんの水漏れの相談にのる。デモだけではない24時間町と人に向き合う「生活まるごとの運動」。しかしやがて赤軍派の事件に巻き込まれて家宅捜索が入り、米兵の立ち入り禁止令も出てほびっとは窮地に立つ。
全編を通じて当時の著者の活力と、ベトナムで殺される子供や殺す側の米兵をむ含む他者への真摯(しんし)な思いが伝わって
くる。「ヒューマニズム」が死語となった時代から見ればとても健全で、応援したくなる日々の記録だ。その価値を今どう受け止めればよいのだろう。
巻末にベ平連を立ち上げた鶴見俊輔の解説とも総括ともとれる文章がある。そこで鶴見は「新しい反戦運動がおこるのを待つ」と書く。そう、マスターには少し休んでもらおう。
C 反戦の体験を次世代へ 著者に聞く「ほびっと 戦争を止めた喫茶店」中川六平さん (『中国新聞』09年11月22日号「読書」欄
ベトナム戦争が泥沼化する1970年代初め。米軍基地を抱える岩国市で、手作りの喫茶店を拠点に反戦運動を繰り広げた仲間たちとの体験を記した。「歴史というほど大げさじゃないけど、点としてね、人々の記憶に残したかった」
著者の中川六平さんは反戦喫茶店「ほびっと」の初代マスター。70年春、同志社大2年で20歳のときに岩国での反戦米兵支援に加わった。72年2月に喫茶店を開き、翌春離れるまでの出来事を日記風につづる。
京都、福岡や広島の学生に地元の若者が加わり、米国人活動家や米兵も多数登場する。べ平連の支柱で、ほぴっとを応援した評論家鶴見俊輔氏や作家の故小田実氏らの存在も大きい。
「ベトナム戦争を止めるために寄せ集まった未知数の若者」。暮らしに根ざす運動を目指し、基地と戦地が直結するリアリティーと向き合った。その記録は、「こんなかたちの反戦もあるんだという、次世代へのメッセージ」と話す。
基地北側の堤防にずらりと並んでたこを揚げ、米軍戦闘機の離陸を阻止。基地内の反戦米兵と協力して機関誌を発行した。デモ行進では、北門付近からフェンスを隔てた兵舎に反戦放送を流し、投石の返礼も受けた。確信はあった。「米兵はベトナム戦争にうんざりしていた」と振り返る。
ログハウス風の喫茶店はボブ・ディランやサンタナの曲が流れ、若者と米兵が語り合った。「効果があればこそ、圧倒的な圧力を受けた」。警察に家宅捜索され、基地司令官は米兵立ち入り禁止令を出した。客足は遠のき、店のやりくりは厳しさを増していく。
「結局、落下傘部隊だったけれど、近所の人は優しく見守ってくれた」。開店の際には季節はずれの七夕飾りで祝い、来店しては励ましてくれた近隣住民との交流も描かれている。
長髪、ジーパン姿だった当時から40年近い歳月が流れた。「べ平連の中でだれかが書かないといけない空気があって、その役割が僕だった。肩の荷が下りたね」と笑顔を見せる。74年の閉店から35年になる今月、岩国で仲間と再会した。「いい友達がいれば、生きていける。その出会いの場だった。ぜひ、今の若者にも伝えたい」 (広田恭祥)
(本サイト担当者:この記事は「ベ平連」がすべて「ベ兵連」となってありましたが、そこは訂正しておきました。)
D ほびっと戦争をとめた喫茶店 べ平連1970−197 in イワクニ 中川六平〈著〉(『朝日新聞』09年11月22日号)
1970年代前半。20歳の大学生がベトナム反戦連動に足を踏み入れ、山口県の岩国基地前で米兵も市民も出入りする反戦喫茶「ほびっと」のマスターとなる。政治性を出すべきだ、いや暮らし重視でと、仲間の思いもさまざまで、1日1万円の売り上げを達成できるか一喜一憂しながら地元に根を張る。そんな若者らの喫茶店を恐れ、米軍は「米兵オフリミット」(出入り禁止)とし、日本の警察は赤軍派との関連を疑い家宅捜索に。「ほびっと」は『指輪物語』の小人の名前から。大きな相手に挑む冒険の旅に出た5年間の記録には不思議なみずみずしさがあふれている。
E 独特の反戦活動支援した人々 (『京都新聞』2009年11月8日号)
評者 甲斐扶佐義
本書は、「歩く学問の達人」などの著書もあるフリーの編集著の回想録である。
回想されるのは、山口県岩国市に1970年代初めに誕生した喫茶店「ほびっと」の活動である。
筆者は、京都で大学生を続けながら、この喫茶店のマスターになった。
当時、岩国には日本最大の米軍海兵隊基地があった。ここから兵士はベトナムに送られ、しばらくして、ここに戻って元気を回復して、またベトナムへ出撃した。これを変だと思う、筆者と同世代の公務員の青年がいた。彼を応援しに行くところから本書は始まる。
地元の青年は、兵士たちと接触して「ラブイン」なるコンサートを開いては、独特な反戦活動を展開していた。
それは、ベトナム戦争末期にあたり、兵士も時代の空気を察知し、脱走よりも軍隊内に厭戦(えんせん)気分を醸成させることだった。
この青年や兵士の運動への支援に、日本各地から、実にさまざまな人物がやってきた。この運動のなかから拠点「ほびっと」が誕生した。大工手伝いに評者らと同行した「フォークの神様」岡林信康も、この経験を題材に愉快に時代をうたう長編「ホビット」をつくり共感を示した。美空ひばり用に歌をつくる直前のことだ。
ここでは、兵士の軍隊内での待遇に対する不満を聞いたり、地元の若者の悩みにも耳を傾けた。さまざまな脅迫にもめげず、兵士のために、日米の法律の隘路(あいろ)をついて軍事法廷に立つこともあった。
日米政府は、この喫茶店の活動を危険視し、ここを舞台に米兵士から赤軍に銃が流れえいるというデマまで流した。このデマをもとに米軍は、兵士の「ほびっと」へのオフ・リミット(立ち入り禁止)令を出した。この国家の不当と新聞の不当報道を訴える裁判を起こしたが、負けた。
教養小説の趣のある本書を読んで、多くの発見があった。評者が筆者の活動へのあこがれの気持ちを抱いていたことや、評者の岩国行き直前に、万一に備えてと、多額の金を託した人の存在などを思い出した。
以下は、書評ではないが、関連してこの著書について書かれたり、触れてある記事
F 反戦喫茶店の日常・交流記す
脱走米兵支援 たこ揚げ軍機離陸阻止 警察の捜索
72年開店岩国の「ほびっと」初代マスター中川さん出版
「若者ぜひ読んで」 (『中国新聞』岩国版 09年10月21日号)
ベトナム反戦運動を繰り広げた「べ平連」の若者たちが1970年代初め、米 海兵隊岩国基地のある岩国市に構えた反戦喫茶店「ほびっと」。その日常と 人々の交流を描いたノンフィクション本が15日、講談社から出版された。著者で初代マスターの中川六平(本名・文男)さん(59)=東京=は「若い人に読んでほしい」と語る。 (広田恭祥)
「ほびっと 戦争をとめた喫茶店」(B5判、285n)。70年春、同志社大2年で20歳だった中川さんは、岩国での「反戦米兵支援にかかわる。72年2月、仲間5人で喫茶店を開き、店を去るまでの1年余りの日々を軸に日記風につづる。
当時、ベトナム戦争は泥沼化。岩国でも脱走米兵の軍事裁判支援や、基地そばでたこ場げをして米軍機の離陸を阻止したエピソードを盛り込んでいる。山積みの資料整理も兼ね、記録ノ−ト10冊を基に昨年初めから書き上げた。
開店前の心境を「人と人が出会う『交差点』になればいいなあ」と記す。「ここはまるごと24時間、町と人と向き合う。デモで歩くだけではすまない」。暮らしに根ざす運動を目指したことがうかがえる。
ログハウス風の店に洋楽が流れ、若者や米兵が集まった。一方、警察の家宅捜索や基地司令官による米兵立ち入り禁止令など「圧力」にさらされたことにも触れた。
73年1月のパリ和平協定で米軍はベトナムから撤退。ただ、中川さんは「限界を超えました」と打ち明け、翌月の開店1周年を経て復学する。
今、中川さんは「みんな友情で送り出してくれた」と感謝する。仲間が続けた「ほびっと」は、戦争終結後の76年1月に閉店。中川さんは「あの時代の受け皿だった。今の若者にも可能性を見つけてほしい」と期待を込める。
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G 望楼 (『キリスト新聞』09年11月28日号「望楼」欄)
この秋、講談社から『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』という本か出版された。著者は中川六平さん。副題に「べ平連 1970−1975 in イワクニ」とある。中川さんは1950年生れのライター・編集者。この本は若い日の日誌をもとに一気に書いたらしい▼「ぼくは20歳になったばかりだった。海の向こうに戦争があった。人が人を殺すことなんてゆるされない。ぼくになにかができるか? コーヒーで米兵のこころを掴もう。青春がぼくにあったとすればそれは岩国だった!」彼が店のマスターに担がれた、いわゆる「反戦喫茶ほびっと」の記録だ。この街の2つの教会の2人の「おとなの」牧師たちが影に日向に支えてくれたことか随所に記されている。心に染みる話だ。牧師たちのさらに前にはこの街では高倉徹
さんや杉原助さんが牧師だった▼11月2日出版記念会かあった。六平さんはこの本を若者に読んで欲しいという。「1人の友達がいれば生きられる」と。この喫茶店を手のかかるわが子のようにいとおしんだのは哲学者の鶴見俊輔さんだ。本書に「エール」を送り、一文を寄せている。「今も、書きなか涙がとまらない」と彼にまつわる感動のエピソードが載っている。是非ご一読を乞う。(健)
H 凧揚げ 戦闘機を止めたパワー (『朝日新聞』09年11月21日号「サザエさんをさがして」欄に)(アンダーラインがある字は、新聞ではルビ点)
掲載は1973年12月。
気持ちよく風に泳ぐ凧(たこ)は、なぜいつ見ても、平和な日常を感じさせるのだろう。
だが、さにあらず。東京・日本橋の「凧の博物館」を訪れてわかった。「凧」は、非日常的で底知れぬパワーをも秘めた遊具なのだった。
同館は、有名洋食店「たいめいけん」ビルの5階にあり、「日本の凧の会」の事務局を兼ねる。店の創業者の故茂出木(もでぎ)心護氏が、69年に会を結成。77年に同じ階にコレクションなど3千点を集め、博物館を創立した。
館内では、80年にギネスブックに認定された世界一の大凧をはじめ、インドネシア、コロンビアなど世界の凧、日本各地の個性的な凧が見られる。そこで、こんな展示を読んだ。〈日本では昔凧を利用して建築作業をしたり、盗賊の道具となったり、多方面に利用されました〉。これは……ルパン三世じゃないか。
人気漫画の「ルパン三世」のテレビアニメで初期に、ルパンが凧に乗って逃げる場面を見た記憶がある。DVDを借りて見直すと、第1シリーズの全員集合トランプ作戦」、71年12月12日放映の第8話だった。
幸運をもたらすトランプカードを持つ暗黒街のボス「ミスターゴールド」。トランプを盗んだルパンらは、アジトから凧に乗って脱出する。大きな赤い凧に張り付くのは次元大介、峰不二子ら3人。ルパンは車を運転して凧を引っ張る役だった。
◎◎
凧に人が乗る――絵空事なのだろうか。だが、歴史には多くの逸話が残る。
源為朝が伊豆の島に流された際、大凧に息子を乗せ、下田に送り返した、盗賊が名古屋城の金のシャチホコを凧に乗って盗もうとした……。
「日本の凧の会」事務局の福岡正巳さんに聞くと、「物語のなかで言い伝えられていることですね」。ではやはり、人間が乗るのは不可能?
「地面から足が離れて浮く『飛翔(ひしょう)』はできても、宙にとどまって飛ぶ『滞空』にはいたらない。無理と断言はできませんが、難しいのでは」
◎◎
そこで更なる凧パワーを探すと、ルパン三世よりある意味、大胆不敵に凧を使った事件が当時、起きていた。
71年5月5日のこどもの日。米軍基地がある山口県岩国市で、反戦喫茶店「ほびっと」を拠点にしていた「べ平連」の若者たちが、基地沿いの川の堤防で制服聾官に囲まれる中、竹と紙で作った凧を次々と揚げた。合言葉は「凧でファントム(戦闘機)をとめよう」。「ニャロメ!」「Don't Kill
In Vietnam」などと書かれた凧が空に舞い、戦闘機の離着陸の間隔は次第に長くなり、ついには止まった。
当時の喫茶店マスター、編集者の中川六平さんがこうした日々を描いた『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』(講談社)をこの10月に発刊した。
「凧は誰の発想だったのか忘れたけど、ほんとにファントムの離着陸が止まって米軍も警察もあわて始めたからびっくりした。パイロットが凧が気になったんだろうね。後で思ったのは、戦闘機のような機械は精密になればなるほど、凧のようなアナログ的なものを嫌がるんだなと」
2ヵ月後、米軍はインドネシアで飛行場周辺の凧揚げを全面的に禁止したという。
「大空へ揚がる不思議なもの、精霊が宿るもの、無限の大空へ直接つながると崇拝されるもの」と、博物館の展示は語る。サザエさんには時折、「脇役」としてのどかに泳ぐ凧。21世紀の今もよく見かける光景だが、凧の隠された非日常パワーもずっと進化しているのかも、そう想像すると楽しい。 (中島鉄郎)