128. 澤地久枝「輝け九条の守り手たち」(澤地久枝『 発信する声』 2007年2月 かもがわ出版)(2007/03/16記載)
以下は、澤地久枝著『発信する声』(2007年2月 かもがわ出版刊)のなかの「輝け九条の守り手たち」という文の中の一部、「脱走米兵を匿った人たち」の部分です。これは、2006年11月3日、神戸市でひらかれた「兵庫県・はばたけ! 九条の心』の講演記録に加筆されたものです。
脱走米兵を匿った人たち
ベトナム戦争が嫌になって脱走した兵隊たちを、お上が怖かった時代が長く続いたこの日本の社会で、かくまった組織があります。「ベトナムに平和を! 市民連合」、通称べ平連と言われる組織です。小田実さん、開高健さん、鶴見俊輔さん、その他多くの人たちが中心になってやった、市民運動としては画期的なものだったと思います。募金を集めて、「ニューヨーク・タイムズ」一ページを買い切って、「殺すな」という反戦広告を出したこともあります。
その組織の一部が、脱走米兵をかくまって、中立国に送り出すということをやったのです。これに誰と誰がかかわったか関係者もすべては把握していなかった。それくらい秘密を守って行われたのです。
例えば、作家の中野重治さんの軽井沢の山荘にも米兵が一人隠れていたということを、妻で女優の原泉さんは、一件落着ののちに中野さんから聞いているのです。中野さんは、妻が知れば、わりに神経の細い人だから、いろいろと心配してダメージを受けるかもしれないと思って、知らん顔をしていたのですね。
鶴見俊輔さんの二階にも一人かくまわれていました。この人は日本人で、アメリカに渡って大学に行こうと苦労しているときに、軍隊に行って帰ってくれば大学にただで行けるという話を聞いて、志願してベトナムへ行った人です。その青年が、休暇をもらって日本の親元へ帰ってきたのです。親たちは、いろいろなことが見えていたのですね。それで、脱走した米兵をかくまって逃がしてくれる組織があるから、そこに行きなさい、と息子に言ったのです。息子も、ベトナム戦線がいかに意味のないものかを知っていた。ゲリラ戦というのは泥沼です。モグラたたきと同じで、一人捕まえて殺しても、追い詰められた人はあとからあとからゲリラになるのですね。だから、果てしなき戦いで、そこでどんなに残忍なことが行われているかということを肌身に染みて知っていた。そしてあきらめていたけれども、親元へ帰ってきたときに、親に言われて、鶴見俊輔さんのところへ行ったのだそうです。
それから、俊輔さんのお姉さんの和子さんのところには、黒人の米兵が二人かくまわれました。和子さんは、脳出血で寝たきりになっているお父さんの介護をしながら、上智大学で教えていました。彼女は英語はよくできましたから、どうしてあなたは逃げたのか、軍隊に帰らないのか、と聞いた。そうしたら、自分は最前線にいて、上官が負傷したので、その上官を引きずって逃げた。ジャングルのなかを駆け抜けているときに、ベトコンといわれる、正規軍ではない南ベトナムの兵員とばったり会って、目と目が合った。自分も銃を持ち、相手も銃をこちらに構えていた。撃たれれば終わり。だけど、自分の顔を見た兵士は、たしかに自分を確認したけれども、そのまま方角を変えて行ってしまった。ああいうベトナム人に銃を向けることはできない。だから、自分は脱走した。そういう話をしたということを、和子さんは書いています(この米兵はT・ホイットモア。手記『兄弟よ俺はもう帰らない』第三書館刊がある。)
私は、ベ平連の弱いメンバーではありましたけれども、こんなに警察や公安が強くて、電話盗聴なんかしょっちゅう平気でやっているような国のなかにあって、宗主国みたいなアメリカの脱走兵をかくまうということは、たいへん勇気のいることですよね。だけど、それをやって、かなりの人数の人たちを中立国に無事送り届けた、そうした市民の連帯組織というものがあったのです。また、「声なき民の声」という会は、六〇年安保のときにできた組織ですけれども、いまも続いています。……
(澤地久枝『発信する声』(2007年2月 かもがわ出版刊)228〜232ページより)