125 天野恵一「運動〈経験〉の『相互理解』〈交流〉という方法――栗原幸夫『未来形の過去から――無党の運動論に向かって』をめぐって」『季刊 運動〈経験〉』2007年 No.20)(2007/03/05記載)

 No.124 と同様、以下は、『季刊 運動〈経験〉』2007年 No.20 〈2007年2月の「〈特集〉『無党の運動』をめぐって」のなかに掲載されているものから、ベ平連に触れた部分のみ 一部抜粋。

「運動〈経験〉の『相互理解』〈交流〉という方法――栗原幸夫『未来形の過去から――無党の運動論に向かって』をめぐって」(抄)

〈原文で傍点がある部分は、以下ではゴシック体にしてあります。)          天野 恵一

2 「共労党」と「べ平連」
          
 
秀実は『1968年』(注4)で栗原幸夫や吉川勇一、武藤一羊、いいだももら当時の共産主義労働者党のメンバーがべ平連」をソ連派として裏で操作したと語っている。そして彼らの「フラクション」が存在したとも断言しているのだ。

「しかし、吉川をはじめとする『べ平連』の主要メンバーが少なからず『共産主義労働者党という党派の幹部であった』とするならば、そのかかわりにおいて『党派』的意志が浸透していると見なすのが自然である。また、そうでなければ政治党派ではあるまい」。

 私は、がそのように推測したことは、それなりに不思議ではない。私は「べ平連」について一九八九年の座談会でこのように発言している。

 ――『裏』で党派ともからんでいて、その構造が非常に不可解に見えた(注5)――

 だから、私はベ平連と共労党メンバーとの関係については、『革命幻談』(一九九〇年)に収められたインタビューの時に、具体的に聞いてみた。栗原の答えは明快だった。栗原、吉川、武藤らはみな基本的にそれぞれ個人として参 加していたのだ。
 「それに、われわれはいわゆるフラクション活動みたいなことは一切やりませんでしたから」。栗原はそのようにハッキリと述べている。
は、この本の中で『革命幻談』についてふれているのだから、当然、この栗原証言を眼にしているのだろうに、どうして具体的な根拠を示さずに、フラクション活動があったなどと断言をしてみせるのか。同一の証言をしている吉川の話に依拠した道場親信や小熊英二の判断を「ノンキ」などとどうして決めつけられるのか。当事者の一人である吉川、そう主張していることをは知っているわけなのだろうに。私は武藤一羊にも、直接この問題については聞いてみたことがある。彼もフラクション活動などなかったとスッキリ語っていた。
 栗原は、『未来形の過去から』で、この問題については、より具体的に答えている。栗原はそこで、「共産党除名組」という言葉を使っている。私が「共産党文化で体験したことを反面教師に考えて、ああいうものだけにはしないようにしたいという共同意志みたいなものが被除名組に働いたわけですね、たぶん」と問いかけると、彼は、こう答えている。
 「そうですね」でも、新日文だってほとんど被除名組だったんだけど、そこはやっぱりちょっと違った。それから、そのときは僕も吉川も武藤もいいだももも、共労党の党員だったわけね。そうするとね、共労党の内部で『なんでおまえたちはきちんとフラクションをつくって、べ平連に対して党的な指導をやらないのか』という意見が当然出てくる」。これに私が「党の論理としては、当然出てきますよね」と応ずると、さらに彼は、こう語っている。「それを全部はねのけたんだよ、僕たちは。なんではねのけたのかというとね、五〇年分裂のときも含めて、共産党が党外のいわゆる『大衆団体』をいかに分裂させたか、もうみんな経験者ですから。僕は新日文で、吉川や武藤は平和委員会でそのことを経験している。こういうことはもう絶対にやめよう、ということは、大衆運動の中で、党の指導なんてものはいらないし、フラクション活動は絶対にやらない、ということになる。産別民同の問題からずっとそういう問題はあるわけだよ。党と大衆団体の関係とかフラクションの問題とか、共産党にとって大衆団体は属領なんだね。それを僕たちなりに総括していたので、べ半連の中でフラクション活動はやらないことにした」。栗原は、さらに「吉川・武藤・私」の三人はしょっちゅう会っていたが、「フラクションとか党グループという感覚は僕たちには全然なくて」と語り、それは「はからずも」一致したことだと証言している。その点については、彼らは過去の失敗(マイナス)体験を思想的に〈経験〉化することで教訓化し、それをくりかえさないという方向で運動をすすめたのであろう、と私は判断した。
 長く生きていれば、沈黙しておきたいことは誰でもいくつもかかえこむと思う。運動の人生だって、同じだ。ごく私的な記憶にとどめ公然化したくないことは胸の中にしまっておく権利は誰にでもある。そういう問題で語られていないことは、いくらでもあるだろう。しかし三人とも運動史をめぐるこうした重要な問題で、積極的に事実と違う証言をするようなタイプの人物ではない。私は三人との長い運動の中の交流の体験をふまえて、そう確信している。

3 「全学連スパイ監禁事件」

 は、大島渚監督の映画『日本の夜と霧』で描かれた東大駒場寮での「査問」事件について語り、このように主張している。

 「このような事件は五〇年代中葉に現実に頻発していた。しかし、その中でもこれとそっくりの事件が、吉川勇一、武藤一羊らによって引き起こされた『三・一四事件』(五四年)である。裁判では、吉川、武藤らは無罪となったが、事件のきわめて近傍にあった森田実(政治評論家)によれば、リンチ・監禁は存在したという(『戦後左翼の秘密160年安保世代からの証言』潮文社、一九八〇年)。つまり、べ平連の市民主義者として登場した吉川・武藤らの過去が『日本の夜と霧』で、すでに描かれていたのである。このことは、具体的に指摘されずとも、当時から六〇年代の新左翼活動家には触知される雰囲気であり、べ平連をどこかいかがわしいものに感じさせていた」。 

 このようにが、「べ平連」と「共労党」の関係が「いかがわしいもの」であったという「雰囲気」をかもしだすために使っている「三・一四事件」についても、後の時間でではあるが吉川勇一自身がすでに明快に論じている。
『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』(注6)(一九九一年)で吉川は、この件についての話を、私との偶然のやりとりについてふれることから書き出している。……
 (中略)
 
……絓が使っている『戦後左翼の秘密』で森田は、この査問の「くわしい事情は知らされませんでした」と語っており、場所を変えながらの長期的監禁中の査問が具体的にどのように暴力的であったか、それに被告とされた人たちがどのように関係したのか、しなかったのかについては、吉川のように具体的には自分が関係した範囲のことについてのみであるが)何も書いていない。
  そうした問題より、ここで吉川が以下のように論じている点が、私(たち)にとっては大切である。

「私たちの裁判を支援し、救対(救援対策)の仕事にかかわっていた早稲田大学の女子学生がその後自殺した。この事件が自殺の直接の原因であったかどうかは、確かめられないのだが、事件が多くのものに深い傷を残していることは確かである。/だがその後、べ平連の中で、とくにべ平連がアメリカの反戦脱走兵を援助するという、権力に対してはかなりの秘密を要する運動に取り組むときや、仲間の間でかなりの意見の対立が起こったときなど、この昔の体験はいくらかだろうが生かされた」。

「心に深い傷を残し」た党の政治のマイナスの体験を忘れずに、次の権力と対峠する運動の時間を彼は生きたのである。……

点(注4) 娃秀実『1968年』 (筑摩書房〈新書〉、二〇〇六年)。国富建治は本誌前号〈一九号〉の、この本の書評で、「娃の主張は、共労党=ソ連派=『前衛党としてのフラクション政治』という固定観念的命題に即した整理ではないか」と当然の疑問を提示している。
(注5)加藤一夫、中西昭雄と私の座談会「『あの時代』と現在」(『インバクション』 一九八九年八月〈59〉号)。
(注6)吉川勇一 『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』(思想の科学社、一九九一年)。私は、この本が出版されると、すぐ書評を書いている(それは『「無党派」という党派性――生きなおされた全共闘経験』(インパクト出版会、一九九四年)に収められている。そこで私は、共感した点について、このように書いている。
 「それは、『内ゲバ=リンチ』文化を克服しようという姿勢こそが『べ平連』を『べ平連』たらしめたものではなかったのかと力説している部分である。私は、『べ平連』の運動を、同時代の共通したテーマの運動の渦中にいながら、まるで知らない。だから、鶴見俊輔への異論として主張されている著者の判断が、どれだけ客観的なものであるかを私なりに体験的に判断できるわけではない。しかし、著者が何を大切にして運動を持続しているかは十分に理解できた。あの時代の運動体験の何をプラスのモメントと考えているかという点では実感的に共通するものを感ずる。そして、その体験をこそ現在の運動の中で生きなおそうという姿勢に私は強く共感する」。

(『季刊 運動〈経験〉』2007年 No.20)57〜61ページより)

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