119 小中陽太郎「ベトナムの悲劇 今も訴え――『発掘された不滅の記録』展を見て」(『朝日新聞』2006.02.13夕刊)(2006/06/13記載)

ベトナムの悲劇今も訴え
      「発掘された不滅の記録」展を見て
                           小中陽太郎(作家)

 東京・恵比寿の東京都写真美術館で開かれている「VIET NAM 発掘された不滅の記録 1954−1975 そこは、戦場だった」は、南ベトナム側の記録だけでなく、北で撮られた写真も掘り起こした写真展だ(19日まで)。作家の小中陽太郎さんに原稿を寄せてもらった。

 
「VIET NAM」展で内外のカメラマンが命を賭した記録写真を見た。ベトナムからカメラマンのマイ・フォング氏も参加、貴重な体験談を聞くことができた。
 展示は、1954年ディエンビエンフー包囲戦からはじまる。土塁の前にフランス兵の死体が横たわり、その前を農民兵が駆け技けていく。この兵がド・カストリ将軍の2万の兵を追い詰めた。
 ホーチミン・ルートの記録には釘(くぎ)付けになった。断崖(だんがい)にかぼそい柚木(そまき)で桟道をかけ、蟻(あり)のように降りてくる兵士は、まるで西遊記のようだ。ルートの存在をベトナム側はずっと否定していた。べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)がアメリカの脱走兵を日本からスウェーデンに送ったあと、わたしは68年8月に小田実とハノイに行った。その途中砲煙たなびくビエンチャンで、南ベトナム民族解放戦線代表グエン・バン・ヒユーに、「ラオス国境沿いにあるのでは」とせまった。ヒユーは「そんなところに行ったら虎に食べられます」と否定した。今見ると、虎ならぬ象がいる。米軍も欺かれたのだから文句は言えない。
 写真展の特徴は、等身大の人間が泥と血の中を這(は)い回っていることだった。一見のどかな農村の風景写真とさえ見える。戦場で土を耕し、魚をとる。風景写真でないのは背後の木々は焼けただれていることだ。そこが戦闘シーンをきりとった日本やアメリカのカメラマンのアングルと違う。マイ・フォングのとった大統領官邸に突入する戦車のような決定的な瞬間もあるが。展示される写真のこういう非ドラマ性こそ、スーザン・ソンタグが現代写真についていった「解釈によって、芸術を飼い馴らす」ようなおもいこみを拒んで、この戦争の全体像を見せている。
 同時に岡本太郎の写真展もやっていた。「久高のろ」「首里の石畳」など。これも土の匂(にお)い。わたしのまぶたには、もう一つの岡本の作品がありありと浮かび上がった。67年、わたしたちは「ワシントン・ポスト」紙上に戦争反対を訴える意見広告を掲載した。岡本は、墨痕鮮やかに「殺すな」と書いた。それを和田誠が反戦バッジにデザインした。わたしたちはそれを胸に、10年間歩き続けた。
 戦争が終わり27年たった2002年、小田や吉川勇一(べ平連事務局長)らとわたしは、ホーチミン市をたずねた。戦争証跡博物館でわたしを待っていたのは「殺すな」バッジの写真だった。そのときのうれしさは、わたしが撮影した、空母イントレビッド号から脱走した4人の米兵の写真を戦時下のハノイの軍事博物館で発見したときに似ていた。
 戦争証跡博物館の女性館長から、日本の資料を送ってほしい、とたのまれた。ベトナムも戦後30年たち、戦争を知らない若者が増えたというのだ。それが戦争を知る世代の強い危機感であった。今度の東京での展示にも同じ訴えを感じる。枯葉剤による障害を負った少女たちの姿でおわる写真展はベトナムの人にとって、過去の回顧ではなく、その悲劇を訴えているのである。日本からも市民の記録をもちよりたいとねがった。

【写真(略)説明】ホーチミン・ルートを使い、北ベトナム軍部隊を支援するラオスのゲリラ兵=1971年3月、ラオス国境で、ドアン・コン・ティン撮影
(『朝日新聞』2006.02.13夕刊)

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