111 早野透「ニッポン人脈記 市民と非戦G 参加も自由、発言も自由 ベ平連、地をはう始点で」(『 朝日新聞』2006.03.01夕刊)(2006/03/14搭載)

ニッポン 人・脈・記   市民と非戦 G

 参加も自由、発言も自由  ベ平連、地をはう視点で

ベトナム戦争が激化し、米軍の北爆が始まってまもない19654月上旬。突然、哲学者の鶴見俊輔83)から、大阪にいた作家の小田実73)に電話がかかってきた。「ベトナム戦争反対の行動をしないか」
 
2人はそれまで1度しか会っていない。61年のベストセラー「何でも見てやろう」(講談社)で注目を浴び、まだ32歳の小田に鶴見が目をつけたのだった。
 東京・新橋のフルーツパーラーで鶴見と政治学者の
高島通敏が待っていた。テーブルの上の紙ナプキンに小田は「『ベトナムに平和を!』市民連合」と書いた。「略してべ平連だな」と高畠。
 兵庫・西宮市の海辺のマンションで、小田があの時代を語る。
65424日、べ平連初めてのデモ。小田がビラを書いた。
 「私たちはふつうの市民です。会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて小説を書く男がいて英語を勉強している少年がいて、このパンフレットを読むあなた白身がいて、その私たちが言いたいことは、ただひとつ、『ベトナムに平和を!』」
 鶴見と高畠が支えた「声なき声の会」が市民運動の芽だとすれば、べ平連は緑したたる若木に育った。政党は「米帝国主義の侵略への視点がない」などと批判した。しかし小田は動じなかった。
 「べ平連には過激なことを言う人もマイルドなことを言う人もいた。いいんだよ、それで。ベトナムはベトナム人の手で、という一点でつながって動けばいい。好きなことをやれ、人の言うことに文句をつけるな、言いだしべえが必ずやれ。それが大事なんだよ」
 集会では作家
開高健がベトナム従軍取材体験を報告した。「失業者代表」を名乗って作家小中陽太郎71)が演説した。「有象無象、烏合の衆は歩き出した」と小田は振り返る。勤め帰りの女性が白い風船を持って歩く。

 少年時代の小田は関西リアリズムの中で育った。41128日、日米開戦、大勝利。「学校から帰るとおやじは『あんなのすぐ負ける』と言ったよ。みんなが万歳万歳といったわけじゃない」
 小学校は国民学校に変わった。「陸軍病院に慰問にいくのは喜んだよ。だって子どもは勉強がなければ、もうけじゃないか」
 だが、
45年に入って3回の大阪空襲を体験した。飛行機雲が空を覆って暗闇になる。火炎が渦巻く。一面、黒こげの死体。
 最後の空襲は終戦前日の
814日。B29爆撃機がまいたビラを拾う。「戦争は終わった」とあった。のちに当時の米国紙ニューヨーク・タイムズを調べたら、812日に「連合軍はヒロヒトを残す」と報じている。日本政府が固執した「国体の護持」は既に決まっていた。ならば14日の空襲による死は無意味だったことになる。
 「死にたくない死にたくないと逃げ回っているうちに黒焦げになってしまった、いわば虫けらどもの死、『難死』だった」
 地をはいずり回る人々。それが小田の視点になる。ベトナムの戦火の下の人々につながる。

小田の「戦後」の印象は新憲法より男女共学だった。「ひとつアメリカへ行ってやろう」と留学、帰りに世界中を貧乏旅行して書いたのが.「何でも見てやろう」。
 どの国のユースホステルでも徴兵制が若者の話題だった。
 小田は書く。「私がかぶりをふりながら、われわれはそんな愚劣で野蛮な制度はもうとっくの昔にかなぐり捨てたのだと言うとき、様々の国籍の若者の眼が輝いてくる」
 べ平連は、参加自由、発言自由、言い出しっぺの原則で、すったもんだ議論しながら様々な反戦運動にかかわって、
741月まで9年間続いた。
 鶴見は苦笑する。「海辺でぴんを拾って開けたら、小田実という巨人がでてきた。ご主人様と言うのかと思ったら、こきつかわれる関係になってしまった。こんど(
046月に文化人9人が呼びかけた)『九条の会』に行ったらまたいるんだ。これじゃ死ぬまで小田の家来じゃないか」         (早野透) 

写真上:小田実さん  写真下:1968年、京都市で行われたべ平連のデモの先頭に立つ小田さん(中央)

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