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10. 早野透「ニッポン人脈記 市民と非戦F デモつくった「普通の人」「声なき声」たち 今も献花」(『 朝日新聞』2006.02.28夕刊)(2006/03/14搭載)ニッポン 人・脈・記 市民と非戦 F
デモつくった「普通の人」 「声なき声」たち今も献花
安保反対の国会包囲デモで揺れる1960年6月4日、ひとりの若い女性が仲間と2人、他の大きなデモ隊の最後尾について、「誰デモ入れる声なき声の会」と書かれた横幕を手に歩き始めた。
すると、まず5、6人、ほどなく30人ほどが加わる。「じっとしていられなくて息子と来たんだけど、入れてください」という主婦。いつのまにか300人にもなってしまった。
この女性は小林トミ。当時30歳。デモの参加者は住所を教えあって、トミを代表に「声なき声の会」ができた。トミは03年1月、72歳でがんと潰瘍で世を去るが、いつも明るい太陽のようだった彼女をみんな忘れられない。
「ふだんは黙っている私たちもんなときは声をあげなくちゃ」とトミが言い出したときのことを、京都に住む哲学者鶴見俊輔(83)は次のように話す。
トミは東京芸大を出て子どもたちに絵を教えていた。芸術家岡本太郎についてきて、鶴見らが集う「思想の科学研究会」に入る。
60年5月、東京都下の少年院を訪ねた帰りのこと。みんな安保条約の強行採決に怒っていた。
「トミさんが『私、生まれてから一度もデモに行ったことない』というから『じゃ自分でつくってデモにいけば』と言ったんだ」
ふつうの人々が自分の意思で参加する、そんな市民運動が芽生えた瞬間だった。
千葉・柏に住む小林やす(78)は、トミの姉である。母、見、トミと4人で住んでいたのに、次々と世を去っていまはひとり。
若き日、やすは洋服店に勤めながら、トミが「会」の仕事に1人でこつこつと取り組むのを手伝った。60年7月から、トミは「声なき声のたより」という投稿誌を始めた。やすがポストに出しに行く。「1カ所ではいっぱいになるので、あっちこっちのポストを探しましたよ」
安保のデモの中で東大生樺美智子が亡くなった6月15日には毎年、国会の南通用門へ献花に通った。市民運動は熟しやすく冷めやすい。参加者が減る。しかしトミはやめなかった。
小林一家は戦時中、千葉・浦安にいた。45年3月10日、西の空が真っ赤に燃えていた。東京空襲の行き帰り、浦安にも時々爆弾が落ち、お風呂屋のおかみさんの腕がちぎれたのを覚えている。「私は勤労動員で特攻機をつくった。でも、木の飛行機なんですよ。兵隊さんが可哀想で」とやす。二度と戦争はいやだというのはトミと共通した思いだった。
「声なき声の会」をずっと支えた鶴見。「ぼくは不良少年だった」と言う。父は政治家で作家鶴見祐輔、母の父は有名な政治家後藤新平、姉は評論家鶴見和子(87)という名門ながら、「厳しいおふくろにばんばん殴られ、和子に助けてもらった。小学校をでるときはビリから6番」。
退学や休学、病気などでアメリカに出され、ハーバード大学に進む。が、アナーキストの容疑で警察に捕まり、日米開戦で交換船で帰国した。そんな青春を送ったせいか、ふつうの人々とともにすぐ動く自由さがある。
もうひとり、トミを助けたのは立教大学教授だった政治学者高畠通敏である。一時期は会の事務局も引き受けた。トミの死の翌年に70歳で亡くなる。
トミは、「声なき声のたより」の表紙の絵を死ぬまで自分で描き続け、98号まで発行した。そのあと会は、トミの追悼号を出した。トミの葬儀で鶴見が語った弔辞が載っている。
「会の中から、死を決して権力と対決しようという声があがったときでした。トミさんは、自分ひとりになっても、普通にできることを守ると言ってさっさと家に帰ってしまいました。戦争はいやだ、それを誰にでもできる形であらわしつづけた。43年間、トミさん、ありがとう」
「声なき声の会」は、トミが亡くなったあとも毎年、6月15日に献花を続けている。 (早野透)
写真右: 小林やすさん。後ろは、やすさんが描いたトミさん 写真左 上:勉強会で顔をそろえた若き日の鶴見俊輔さん(左奥)と小林トミさん(右から2人目)=やすさん提供 写真左下:「声なき声のたより」の創刊号(中央左)と最新の101号