「同志」の市民の対話

小田  実   

 
私とデイブ・デリンジャー
 
 私とデイブ・デリンジャーとのつきあいは、ベトナム反戦運動を通じて始まっている。私がキモイリのひとりとなって始めた反戦運動、「ベ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)が一九六六年八月に東京で開催した「ベトナムに平和を!日米市民会議」に彼はやって来てくれて、そのときはじめて私はデリンジャーに会った。そのときから三十年以上にも及ぶ彼との長いつきあいが始まっている。
 彼か会議に来たとき、私は彼について彼が長年の反戦平和運動の活動家であること以外にはほとんど何も知らなかった。これは「ベ平連」の仲間にとっても同じことだったので、私を私たちと言いなおしてもよいが、ハワード・ジンを除けば、アメリカ合州国からの参加者について、ただひとつのことを除いてほとんど何も知らなかった。ただひとつのことと言うのは、彼らがすべて、私たち同様、ベトナム戦争に反対し、なんとかして戦争をやめさせようと懸命に努力している市民、つまり、私たちと反戦の志を同しくする「同志」の市民であること――そのことだった。それで十分だった。
 ジンについて私たちが多少なりとも知っていたのは、同じ年の六月に、彼と、のちに車に爆弾をしかけられて暗殺された黒人活動家のラルフ・フェザーストンを「ベ平連」か招いて、北海道から沖縄に至る二週間がかりの「日米反戦講演集会旅行」を行なったからだが、そのときまで私たちは、ジンがすぐれた歴史家であることも黒人解放運動の強力な支援者であることもほとんど知らなかった。その「講演集会旅行」を考えついたのも彼を招ぶことにしたのも私だが(フェザーストンはジンが彼の旅費の面倒をみて連れて来た)、反戦運動の連帯形成をもくろんでアメりカ合州国に出かけているあいだに考えついたその計画を人づてに聞いたと言って、友人宅にころがり込んでいた私にジンは自分から計画に参加したいと電話をかけて来た。実を言うと、私は彼のことは名前さえ知らなかったのだが、電話でしばらく話したあと、彼を招くことに決めた。それは電話で話しただけで、彼がベトナム反戦の志においてなみなみならぬ「同志」の市民であることが納得できたからだ。それで十分だった。それからジンとのデリンジャーとのつきあい以上に長いつきあいが始まっている。
 
デリンジャーの「人間と思想」
 
 その長いつきあいのなかで、私はジンの本を読み、彼がいかにすぐれた歴史家であるかを知ったが、つきあいの土台に、いつも、反戦平和の問題であれ、抑圧、支配への抵抗、人権の問題であれ、ジンが問題解決に真摯に努力しようとする市民――そこにおいて私と「同志」の市民であるという認識、また、その事実があった。
 デリンジャーとのつきあいも同じだった。つきあいのなかで判ったのは、彼の「人間と思想」(二つをまとめて引用符に入れて書くのは、彼ほど「人間」と「思想」がみごとに結びついた人間を私が知らないからだ)のかけ値なしの偉大だった。この偉大は、今度、藤原書店から訳書が出版された自伝、『「アメリカ」が知らないアメリカ』(吉川勇一訳)を読めば、たちどころに判ることだが、ノーム・チョムスキーがこの自伝について次のように書いていた。「この本を読むまえから、私はデイブ・デリンジャーを知っていたし、大いに尊敬していた。このすばらしい物語〈ストオリイ〉を読んだあと,私の尊敬はより以上に畏敬に似たものになった。自分の人生を真に魂を鼓舞させるものにつくり上げた人間は世界に稀れにしかいないが、この自伝はその稀れな人生のひとつに導いてくれる。」
 このチョムスキーのことばに何ひとつつけ加えるつもりは私にはない。彼とつきあって来て、また、自伝を読んで、私もまさにそう思った。
 ただ私は、彼が「人間と思想」において偉大だから、彼の人生が私の魂を鼓舞するから、彼とつきあって来たのではない。つきあいの基本に、いつも変らず「同志」の市民の意識があり事実があったこと――これはここで強調しておきたい。これはジンとのつきあいについても、ついでに述べておけばチョムスキーとの私のつきあいについても言えることで、私はジンがすぐれた歴史家だから、チョムスキーが世界的な言語学者だから、そこから教えを得ようとしてつきあって来たのではない。彼らが何よりも「同志」の市民であったから、つきあって来た。
 
「同志」の市民としての参加
 
 デリンジャーとのこうしたつきあいのなかで、私は何度か彼に私がキモイりをつとめる「同志」の市民の政治的な動きに加わってもらって来た。たとえば、韓国の民主化を支持する集会、イスラエルのレバノン侵略にかかわっての民衆法廷――すべて「同志」の市民として彼は日本にやって来た。昨(一九九七)年十二月のデリンジャーの来日は自伝の出版を機にしたものだが、来日の目的のひとつは、これは私が自伝の訳者吉川勇一氏をふくめて「同志」の市民とともに取り組んで来ている、『日米安保をやめ、日米間に「反戦平和条約」を締結して、目米関係を軍事条約を基本にしたものから平和でまっとうなものにしようとする「同志」の市民の政治の動きに参加することだった。具体的には、日米開戦の日米双方での「記念日」の十二月七、八日の東京、大阪での集会に出席するためで、実際彼はその二つの集会に参加したのだが、十二月六日、アメリカ合州国での「記念日」前日の『ニューヨーク・タイムズ』には、都留重人、久野収、弥永昌吉、宇沢弘文、鶴見俊輔、瀬戸内寂聴、澤地久枝、岡部伊都子、喜納昌吉らとともにデリンジャー、ジン,チョムスキーなど日米の「同志」の市民の名でその主張の意見広告が発表されていた。デリンジャーの「同志」の市民としての日本の市民の動きへの参加はそれだけではなかった。この『機』にもいつか書いたが、自分自身が「阪神・淡路大震災」での被災者である私は、地震後三年、今なお二万五千世帯が仮設住宅という人間の住居ならざる住居に住み、関連死、孤独死、あるいは餓死さえ続出している被災地の悲惨を救うとともに、こうした悲惨を今後日本のどの地域においても起こさせないための法制度を「市民・議員立法」のかたちでつくろうとして被災地内外の「同志」の市民とともに懸命に努力して来ているのだが(子細は、この一月に出版されたばかりの私の著書『これは「人間の国」か』(筑摩書房)を読んでいただきたい)、デリンジャーはこの話を聞くとすぐ国会まえの法制度実現を求める「同志」の市民の坐り込みに参加したいと言い出して、実際坐り込んだ。
 
デリンジャーとの対話
 
 彼が日本に来ることが決まったあと、私は藤原書店に提案して、彼と「対話」の本をつくることにした。彼がえらいからインタビューしてお説拝聴の本をつくろうとしたのではない。「同志」の市民として、おたがいそれぞれの国で直面している問題をぶっつけあい、おたがい何を考えているか、どうしようとしているかを論じあってこれからのことを考えたい――というのがこの本の主旨だが、これからのことのなかにはおたがいそれぞれのこれからのことも入っていれば、おたがいの国の未来、世界の未来のことも入っている。
 なぜ、そう考え出したのかは、はっきりしている。おたがいの国がろくでもないことになっているからである。どんづまりに来ているとさえ思えるからである。デリンジャーは自伝の訳本への序文のなかで、旧ソビエトは「市民的自由と政治的民主主義なしに経済的民主主義が獲得できるか」の「一大実験」に失敗して、経済的民主主義をさえ達成できなかった、「よく言えば、経済的民主主義なしに政治的民主主義が獲得できるか」の「実験」をしたアメリカ合州国は、政治的民主主義の達成に失敗していると述べていた。今日のアメリカ合州国では、アメリカ人口のうちの僅か一パーセントが、底辺にいる人口九五パーセントの人びとよりも多くの冨を支配し」、「アメリカでの医療費は他の主要工業国のそれの二倍以上であり、健康保険を持っていない人の数は四十万人に上り、「株式市場は好調を続けていますが、貧困、栄養不良、医療手当ての不足などによって毎年死亡する児童の数は、ベトナム戦争前期間中の米兵の戦死者数を上回」り、「合州国の平均寿命は世界で第一六位に位置し、乳幼児死亡率では世界で二三位、黒人の死亡率は、乳幼児だと二倍、妊産婦だと三倍にな」る。(デリンジャー)――――
 これがアメリカ合州国だ。
 では、日本は、――!
 私はすでに被災地では餓死者さえ出ていると書いた。私は、私の住居の近くの今なお「阪神・淡路大震災」の被災のあとが歴然とするさら地の一画に彼を連れて行った。その現場で私は、不動産会社、銀行、証券会社のバブル経済につけ込んでの金儲けの失敗による破綻に対してはただちに何十兆円にも上る「公的援助」金を出そうとするのに対して、餓死者さえ出ている被災者に対してはビタ一文も出さない日本の政治のひどさを語ったが、彼は、アメリカ合州国でさえがこういう場合にはすぐ「公的援助」をすると言ったあと、絶句した。その絶句のあと、それを引き継ぐかたちで私とデリンジャー、「同志」の市民の「対話」は行なわれている。
 二人ともに、思ったことは遠慮会釈なく口に出す「野人」の市民だ。「対話」はときには激しく、大声をあげての、そばで聞いていた彼の夫人のことばを借りて言えば、「どなりあう対話」〈シャウティング・ダイアローグ〉にさえなったが、それはそれだけ二人の現状に対する怒りを示していたことだ。(おだ・まこと/作家)
 【『機』 1998年2月号 藤原書店】

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