「自由主義」以後の思想的境界(続)
栗原幸夫●「文学史を読みかえる」研究会
戦後思想のもっとも気骨のある思想家のひとりであり、「思想の科学」という思想運動の文字通りのオルガナイザーであり、なによりもべ平連の中心的な活動家であった鶴見俊輔が、「語る鶴見俊輔の世界」というインタビュー記事(『朝日新聞』一九九八年二月二日〜五日)のなかで、「『べ平連』運動は、あの時期に大きなうねりになりました」という記者の問いに答えてこんなことを言っている。
「宮沢喜一さんがいなかったら、あれだけ大きな運動にはならなかった。一九六五年四月にべ平連が発足した夏に徹夜ティーチインを計画した。小田実さんや開高健さんらが発案したが、自民党につながりがない。そこで私は宮沢さんを訪ねた。〔中略〕宮沢さんは自分の信念で〔出席を〕決断したんだ。ティーチインは大成功した」。宮沢喜一が途中で席を蹴って退場したこともふくめて、鶴見は「大成功」と言っているのだろうか。それともそんなことはすっかり忘れて、保守党の「気骨ある」政治家が参加してくれた喜びだけが記憶に残っているのだろうか。「宮沢喜一さんがいなかったら、あれだけ大きな運動にはならなかった」とは、いったいどこからそんな言葉が出てくるのか。(写真は1965年8月のティーチインでの宮沢喜一氏)
おなじところで鶴見はこんなことも言っている。
「戦争を終らせるのに米軍の力は大きかったが、忘れてならないのは昭和天皇が意志を行使して戦争を止めたことです。天皇に戦争責任があることは確かだけれど、戦争を止めるという決意を表明した事実もまた認めなくてはなりません。自己の責任として戦争を終わらせたこと、戦争防止に個人の意志や行動が力を持つということを示した点に、戦後の民主主義につながる細い道がある。それを天皇が意志の行使をしなかったかのごとく考えるには欺瞞がある」。
これこそ欺瞞というものだ。天皇の終戦が「国体護持」という名の保身でしかなかったこと、その保身のために多くの人命が失われたことは、最近の「終戦史」研究(一例をあげれば、吉田裕著『昭和天皇の終戦史』)や安保条約の研究(豊下楢彦著『安保条約の成立−−吉田外交と天皇外交』、以上いずれも岩波新書)を見るだけでも明らかだ。天皇の保身から発した「終戦」が、戦後の民主主義につながる細い道だとは、いったいどこからそんな言葉が出てくるのか。
自称「不良少年」になにが起ったのだろうか。少年も老いてついに頭脳の生理的限界に至ったのか。もしそうだったら、彼の親しい友人たちが、俊輔さん、もう「発言」はおよしなさいと、こころをこめて言えばいいのだ。人は誰でも肉体の生理的な限界に勝つことはできない。わたしも常日頃、若い友人たちに、そういう忠告を遠慮なくしてくれるように頼んでいる。しかし鶴見俊輔にいま起っているのは単なる生理的な老化現象ではない。むしろ思想的な老化現象だ。わたしは鶴見俊輔のケースを、日本における自由主義者の問題、とくに冷戦終結後の自由主義の問題として考えてみたいという誘惑にかられる。
鶴見俊輔の最近の「語り」には、ふたつの大きな特徴がある。ひとつは自分の出自への繰返しの言及であり、もう一つはマルクス主義者にたいするほとんど怨念とでもいうべきこれまた繰返しの否定的言及である。そしてこれらの言及からはかつてのような緊張感が失われている。それは繰返されるごとに失われ、自己肯定が逆に前面にせり出す。
彼は回想のなかで繰返し母方の祖父である後藤新平と父・鶴見祐輔に言及する。エリリートの家系だ。彼の精神形成にとってこの家系が、当然にも決定的な意味を持ったことは、それが彼の年少でのアメリカ留学の契機でもあったという一事をもってしても、その言及は至極当然だともいえる。「私は上層の出身です。日本人全体の上位一パーセントの暮らしをして、薄々、まずいなとは感じてたんだ。〔中略〕自分が矢襖(やぶすま)の前に立っているという感情をもった。この恐ろしさは歴史的恐ろしさだ」(『期待と回想』上巻、一二〇頁)と感じる二十歳の鶴見俊輔と、祖父や父との「ケンカ」と自分の敗北を楽しげに語る現在の鶴見との間には、大きな隔りがある。革命という観念の頽落に応じて彼は自分の出自を楽しげに語るようになる。アイデンティティの回復だ。もう二度と再び鬱病になることはあるまい。鶴見のマルクス主義者にたいする怨念をむき出しにした否定的言及は、このことと不可分のようにわたしには思える。鶴見はくりかえしマルクス主義者、とくに「東大新人会系」のインテリ・マルクス主義者の観念的ラディカリズム=最大限綱領主義を批判する。たとえば彼は、従軍慰安婦への「女性のためのアジア平和国民基金」について、またその呼びかけ人になったことについてつぎのように語る。
「私からすると、民間の募金運動に対する批判のやり方は、どうしても『東大新人会』とかさなってくるんです。戦前の東大新人会は、革命政権で国家を倒して、すげ替えるというところまでワーッともっていったでしょ。統帥権(とうすいけん)というものをやめ、衆議院一本にするといった吉野作造という人たちまで叩き、ついに反動の側にまわしてしまった。東大新人会のこうした論理と同じことをくり返すことになると思う。/この人たちは『日本政府は民間募金で済ませようとしている』といっている。私もそうした政府のやり方には反対しています。だが政治的、思想的に一つに凝り固まると、いいことはない。東大新人会が戦前から戦争中にどのような軌跡をたどったのか、その後の五十年を見ればはっきりしているでしょ」(『期待と回想』下巻、二三〇〜一頁)。
東大新人会は一九二九年に解散しているのだから、「戦前から戦争中にどのような軌跡をたどったのか」というのは東大新人会出身者が、と読みかえておく。そのうえで鶴見俊輔の一部インテリ・ラディカリストの観念性にたいする批判は共有することができる。もちろんマルクス主義者のすべてがこのような観念的急進主義者なのではない、ということを自明の前提として。そしてこのような観念的急進主義者がある状況のもとでは、一八〇度の転回をとげることも「転向研究」の鶴見俊輔にとっては自明のことだし、その認識をわたしもまた共有する。
さて、そのうえで、「民間の募金運動に対する批判のやり方は、どうしても『東大新人会』とかさなってくる」というのは本当だろうか。それよりもまえに、国民基金はほんとうに「民間の募金運動」なのだろうか。それは日本国家が自分の責任を回避するための姑息な装置でしかないのではないか。しかしそれにもかかわらず、現に緊急に償い金を必要としている年老いた女性たちがおり、正統な解決を回避し続ける日本政府がある以上、「次善の選択として」国民基金に協力する人が出てくることはありうる。その人たちを等し並に非難攻撃することは正しくない。まして国民基金への賛否をある人間の評価に結びつけることなどあってはならないことだ。
しかしそれにもかかわらず、ここでの鶴見俊輔の選択をわたしは支持できない。なぜなら彼はいままで、「東大新人会」的な道でもなく、国家を補完する官製大衆運動の道でもなく、それらから自立した「市民運動」の道を、運動的にも思想的にも歩んできたとわたしは考えてきたからだ。であるならばなぜ彼は自分(たち)のイニシアチブによって本当の「民間の募金運動」をたちあげ、その運動に依拠して正統な解決へと政府を動かしていくという方向をとらずに安易に官製の運動に加担するのだろうか。ここにはべ平連の鶴見俊輔は影も形もない。
以上、鶴見俊輔の最近の発言についてわたしの考えを述べたが、鶴見個人にたいする批判が目的ではない。これは、湾岸戦争と冷戦以後の世界でおこっている思想的な崩壊を、その根拠にまでさかのぼって解明したいというわたしの関心の、いわば「序説」なのである。