10  朝日新聞社『週刊20世紀 1965』

インタビュー   (『週刊20世紀 1965』 1999.7. 11.)

 ベトナム戦争反対を掲げた市民団体「ベ平連」の元事務局長吉川勇一さんに聞く

さまざまな組織・団体がベトナム戦争に反対して広範な活動を展開した。
わけても「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)は、組織のあり様、活動の多彩さで際立ってユニークな存在だった。
事務局を支えた吉川勇一さんに当時の話を伺った。

――べ平連発足は1965年でした。
吉川 2月に米軍の北爆があって、世界中で米軍への抗議行動が起こった。日本にも平和団体は多くあったけれど、この事態への対応は鈍かった。そんな折、鶴見俊輔さんと高畠通敏さんが絵の展覧会で顔を合わせ、「何かやろうよ」という話になった。4月になって、鶴見さんから大阪にいる『何でも見てやろう』の小田実の名前が出た。その場で彼に電話をかけ、承知した小田が上京してくるところから始まったんですね。

――4月24日の初デモにつながるわけですね。以来小田さんとコンビで? 
吉川 いや、私はもっとあと。事務局長は映画プロデューサーの久保圭之介さんがやっていた。私は当時、部分的核実験禁止条約をめぐって共産党を除名されたばかり。関心はあったけど、迷惑をかけてはと、遠慮していた。8月の徹夜ティーチイン(→24ぺージ 注)に使う地図づくりを頼まれたのが最初のかかわり。そのうち、仕事を放り出して開高健とカンパ集めに専念していた久保さんが経済的に行き詰まって映画の仕事に戻るというんで、私にお鉢が回ってきた。65年の11月でした。

――既成組織とは全く違う運動で。
吉川 綱領も規約も会費もない。会員名簿もなかった。デモに参加した人、機関紙を買ってくれた人が、べ平連なのだ、としていた。正式な役員もいない。なんとなく小田が代表で私が事務局長ということになった。私自身既成組織の活動家だったから、こんな世界があるのか、と驚いた。

――個人の自主性を最大限尊重した。
吉川 それも大きな特徴。目的は、ベトナム戦争反対だけ。スローガンは「ベトナムに平和を」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本政府は戦争に加担するな」の3点。方法論としては、言いだしっぺがやる、人の批判はしない、文句があるなら自分でやれ、の3点を確認した。

――思想的にくくるとどうなるのでしょうか。
吉川 これは私の個人的見解ですが、鶴見さんの良質なプラグマチズムと非暴力や市民的不服従の考え方。それと小田の、被害者は一方で加害者になるという視点。個人を国家から切り離すことで、一人間として良心に恥じることは拒否しよう、という考え方。それともうひとつ、共産党除名組のマルクス主義の流れでしょうか。これらが混然一体となって、納まるところへ納まった。

――文化人の参加もたいへん話題になりました。
吉川 久野収さん、鶴見さんの功績が大きい。政治学者の丸山真男さんも募金の箱をぶらさげて有楽町の街頭に立った。

――活動ぶりも、ユニークでした。
吉川 毎月1回、清水谷公園に集まっての定例デモ。これは97回続いた。35日連続など臨時デモもいっぱいやった。さっき話した徹夜ティーチインやニューヨーク・タイムズヘの意見広告、米軍基地での凧上げ行動や新宿西口広場でのフォークゲリラなども諸題になった。早い時期からアメリカの市民・学者とも連携して、講演会を開いたりしました。

――米軍といえば、脱走兵の援助もありました。
吉川 「ジャテック」(脱走米兵支援組織)が中心の活動だけど、メンバーはほとんどべ平連の仲間。20人の脱走を手助けしたが、必死でした。

――どんどん横にも広がりました。
吉川 そう、正確には分からないが、68年ごろには北海道から沖縄まで、350組織を超えた。例えば68年のエンタープライズ寄港阻止闘争では、私と小田のふたりで横断幕を持って佐世保の街を歩いたら、100人くらいの集団になった。その人たちが、佐世保べ平連をつくった。

――相互の連携はどんな形で?
吉川 66年から、年に1、2回、情報交換や交流を兼ねて、全国懇談会を開くようになった。運動体として一体感を保つ意味で、重要な役割を果たしました。

――それが74年、突然解散しました。
吉川 無責任だとか、いい加減だとか批判されましたが、決してそうじゃない。停戦協定が結ばれて、一応の目的を達成した。既成の運動だと、組織維持のために新たな目標を設定したりする。その意味で、解散自体に意味がありました。

――そのあと、市民運動は低迷期に入ります。
吉川 内ゲバの影響と大状況を語ることへのアレルギーがある。が、地域限定・小規模化の一方で、顔の見える運動になった。

――べ平連は何を残したんでしょう。
吉川 こんな話があります。90年に「京都べ平連」の昔の仲間が集まったとき、ある女性が「べ平連の経験なしに私の人生はなかった」という話をしていた。べ平連が生活の中に生きていて、日の丸の問題、ダイオキシンの問題などがあると、すぐ反応する。たねは蒔かれた、と思っています。              (本誌・長沼石根)20seikijpg.jpg (11117 バイト)

綱領も規約も会員名簿もない。
目標を達成したら解散する。
既成組織では考えられない運動でした。

 

1931年、東京生まれ。東京大学文学部中退。日本平和委員会常任書記などを経て、べ平連運動へ。98年まで予備校講師。「市民の意見30の会・東京」会員。「個人的にいえば、わが人生失敗だった。しかし面白かった」

写真 大木茂

(注 同誌24ページの「クロニクル」欄には、1965年8月14-15日の「徹夜ティーチイン」の写真とともに、以下のような記事がある。

 「べ平連」などが呼びかけた日本で初めての徹夜討論会「戦争と平和を考える集会」が8月14日夜10時半から東京・赤坂のホテルでスタート。第1部の司会は桑原武夫・京都大教授。壇上には日高六郎・東京大教授、作家の開高健、政治家の宮沢喜一、中曽ね康弘、上田耕一郎ら21人がズラリ。ホットな議論が翌15日朝6時ころまで続いた。

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