月刊『社会運動』(市民セクター政策機構発行) 第28号 1999年3月15日

「べ平連」の私が
「埼玉NPO連絡会」に熱心なわけ

                                    東  一 邦         

埼玉NPO連絡会世話人/
「さいたまNPOニュース」編集担当

 

もっともふさわしくない
語り手としての私

 私は、おそらく埼玉のNPOの動きについて語るのにふさわしくはないと思う。もしかしたら、最もふさわしくないかもしれない。

 1997年10月にいくつかの市民団体が集まって作られた「埼玉NPO連絡会」の代表は、当時埼玉YMCAの代表で、国際協力の運動を続けて来られた二子石章(ふたごいしあきら)さんだし、副代表は、子どもたちによい演劇を見せることを通じて、ともに子どもを育む地域づくりをと20年も活動を続けてきた「埼玉県親子劇場子ども劇場協議会」事務局長の越河澄子(こすごうすみこ)さんと、痴呆性高齢者のためのデイサービス施設やグループホームを市民の手で作り運営している「生活介護ネットワーク」世話人の堀越栄子さんである。さらに、この連絡会の世話人には、NPO推進フォーラムの山岸秀雄さんもいれば、中村陽一さんもいる。

 いかにもNPOという感じのこうした活動を担っている方々やNPO法の成立に貢献された方々のほうが、まちがいなくこのレポートの書き手としてはふさわしい。たしかに私も世話人の一人なのだが、何がふさわしくないといって、実は私は「べ平連」なのである。

 ついこの間、「べ平連の『べ』は何だか知ってる?」と若い学生に聞いたら「ベルリン?」といわれてひっくり返ったのだが、もちろん彼女をせめられない。べ平連は、彼女の生まれる前の1973年に解散しているのだから。

 ところが、埼玉では続いているのである。名前は、ベトナム戦争の終結した1975年に「埼玉べ平連」から「浦和市民連合」と変えた。しかし、団体も運動も続いていて、昨98年秋にも、浦和の隣町の朝霞自衛隊基地で行なわれた自衛隊中央観閲式に反対するデモを主催したばかりである。埼玉のゼネコン談合事件の損害賠償裁判の事務局もずっとひきうけていて、つまり、市民の活動の中でも、いまやもっとも流行らない、もしかしたら市民団体の中でもNPOとは最も遠い「反戦」「反権力」の旗を、いまだに掲げている、古典芸能保存会みたいな存在なのである。もちろんNPO法人格を収得するつもりはまったくない。

 そして私は、その浦和市民連合のメンバーとして、「埼玉NPO連絡会」に参加しているのだが、悪いことに「べ平連こそ市民運動の原点」と信じている。しかも、それを隠そうともしないで、ことあるごとに「べ平連」を持ち出すから、たぶん、まわりはうんざりしているのではないかと思う。

 というわけなので、こういうメンバーもいる「埼玉のNPOの動き」ということにしていただきたい。

このところの「市民運動」に
感じていた違和感

 話のはじまりの1997年の10月の会合は、間に2人ぐらい人が入って、私にも呼びかけ文が届いたのだが、この呼びかけ人のほとんどの人を私は知らなかった。代表のニ子石さんも、越河さんも、山岸さんも知らなかった。彼らも、たぶん私を知らなかっただろう。

 「私が行ってもいいのだろうか」と思った覚えがある。

 そもそも、埼玉は市民運動が盛んである。かつて(私たちが「埼玉べ平連」として浦和の中山道をベトナム戦争に反対するデモしていたころは)、ほとんどの人が東京都内で仕事もし、都内が運動の場でもあって、東京に近い県南部の浦和や大宮は、静かなベッドタウンであり、大宮から北は穏やかな田園風景がひろがる農村だった。いまでも、大方の人には、埼玉県は東北の始まりのようなイメージだろうが、実は東京の後背地としての性格は年を追って強くなり、首都圏に組み込まれていく地域がじわじわと拡大している。ということは、「埼玉都民」といわれる東京勤めの新興住民が、ついこの間まで農村だった住宅地に次々と住み始めているわけで、そこに発生する矛盾は、県内のあらゆる地域で噴出している。所沢のダイオキシン騒動は、その象徴的なできごとである。

 しかし、私は、最近の市民運動には肌が合わない思いがあった。

 たとえば「市民運動」と、NPO関係者は、あまり言わない。「市民活動」と言うらしい、そこからして、かつての(つまりべ平連のような)市民運動とは一線を画そうという意思がうかがえるように思うのは、うがちすぎというものだろうか。

 実は、私の違和感は、80年代の半ばごろ、反原発の市民運動が盛りあがり始めたころから始まっている。「原発を原子力発電所のこととは知らなかった」という、無知を売りものにした主婦の登場が象徴的だった。「こういう『普通の主婦』が立ちあがることが、原発を止める」という見え透いたやりくちが、実は人々をも自分たちをもバカにしているのに過ぎないということに気づかない鈍感さがいやだった。「命が大事」という、実は何ごとにもつながらない呪文のようなスローガンを、いい若い者が叫び続けるという退廃にも辟易させられた。

 しかも、この新しい「市民運動」には、「ネットワーク」という、批判を受けつけない論理があらかじめ用意されていた。「連帯」という言葉さえ重いものと感じられはじめた時代の風潮に乗って、「お互いに、できるところだけでいっしょにやればいい」という希薄なつながり方への指向は、グループ間だけでなく、グループのなかの個々の関係にも持ち込まれ、世の中にあふれる希薄な人間関係を写し出したままの、実に薄っぺらな人間関係を市民運動にも持ち込むものとしか、私には。思えなかった。

 「行政とのパートナーシップ」など、考えたこともなかった。長い間、私が相手にしてきた行政はデモの警備にでてくる埼玉県警だったし、彼らは市民運動を敵視することしかなかったし、パートナーシップなんて薬にしたくともあるはずもなかった。

「おもしろい」メンバーが
集まった「連絡会」

 それでも、私は10月の会合に出かけていった。20人ほどの人が集まっていただろうか。私の顔見知りは2〜3人だった。熱心に誘ってくれたのは、ドイツの市民グループとの交流を10年にわたって続けてきた日独平和フォーラムという運動を担ってきた隣町の大宮市の加藤久美子さんだった。そういえば、彼女とは、この運動の過程で「NPO法(という言葉ではなかったが)ができたら、私たちも」という話をしたことがあった。私たちの交流してきたドイツの市民団体には法人格を取得していたグループもあったのだ。

 最初の2〜3回の会合では、私は比較的静かにしていたつもりだが、そのうち埼玉県との共催で大きな集会をやろうという話になってきた。いや、どうやら呼びかけられたときには、すでにこの話は進んでいて、もうひとまわり広げようということで、私のところにも呼びかけ文がまわってきたというのが実際のところだったらしい。「来年2月の初めに。すでに場所もとってある」という話を聞いたときには、もう年末だった。

 「そんな話は聞いてないぞ!」とは、言わなかった。「これはおもしろいかもしれない」と思ってしまったのだ。ほかの人たちも「そういうことなら、なんとかしなくちゃ」という受けとめ方だったように思う。

 これは、集まったメンバーがみんなお人好しだったということではない。多かれ少なかれ、この集まりに、私が感じたような「おもしろさ」を感じていたからだったのではないかと思う。

最初の会合ではほとんど初対面どうしだった会議の参加者も、次第に正体がわかってくると、これはかなりのメンバーが、それも各分野にまたがって集まっていることがわかってきた。環境、福祉、国際協力、教育、災害救援、女性問題、そして反戦運動まであるのである。まだ自民党案の段階だったが、その後の「12項目」のほとんどがカバーされている。それも、それぞれの分野では、県内を横断した連合体がすでにあり、その中心的グループの、その中心的メンバーが集まっていた。分野を超えてこれだけのメンバーが集まったのは埼玉の市民運動のシーンでは初めてのことだったのである。「何か新しいことが始められるかもしれない」という感じがこの集まりにはあったのだ。

 さて、そういうメンバーが集まったこともあって、1998年2月1日に開かれた、埼玉県との共催の「さいたまNPOフォーラム」は、短い準備期間にもかかわらず250人もの人々があつまって大成功だった。NPOに対する若干バブル気味の関心と、各分野にまたがった「連絡会」のメンバーの呼びかけが功を奏したのだろう。しかし、反戦市民運動からの参加者は少なかった。ちなみに、反戦運動の分野でも自衛隊の海外派遣に反対した埼玉共同行動という県内を横断した連合体がある。ここに集まった人々にも、ずいぶんていねいな手紙を添えて案内を出したのだが、ほとんど反応はなかった。「フォーラム」への参加者が少なかっただけではない。郵送したこのフォーラムの報告書を送り返してきた人までいたのだ。

 このことが、私を「埼玉NPO連絡会」に熱心にさせた大きなきっかけになった。

市民が自ら分岐を作り出すことの
不幸を避けたいhigasi-npo.jpg (6065 バイト)

 NPO法が作られた背景には、市民運動サイドの「さらに活動を拡大し進めていくためには、法律にもとづいた社会的認知が必要である」という意向のほかに、行政が災害対策や高齢化社会への対応など市民運動とタイアップしていかなければならないテーマを抱えてアップアップし始めたということ、そして、企業の一部の、環境間題など市民運動の追及してきたテーマを企業戦略の中に取り入れなければ、これから存続していけなくなるという危機意識があると、私は思っている。

(写真は昨年2月21日に開かれた「さいたまNPO
フォーラム」。県内の約90団体250人が参加。)

 それだけに、一歩間違えれば、「NPO法」が行政による市民運動の選別の道具になりかねず、また市民運動が行政の下請けにされ、企業に利用されるという危険性も持っている。

 私には、「『NPO』は市民運動の自立性を損ないかねない」とか「行政や企業を甘く見ないほうがいい」、「権力が市民運動を取り込もうとしているにすぎない」などの感想については、その発想の根元から手にとるようにわかる。

そしておそらく、まずNPO法人格取得とは最も関係が遠く、反権力的な色彩の強い反戦市民運動にそうした傾向が強いことも想像がつく。だからといって、私には、NPOの動きが、私とは無縁なものとは思えなかった。そのひとつは、どう考えても「法人格」を取得したほうがいいと思われる市民の自立的なグループが現に数多くあるという事実だ。私の友人たちのたずさわっている老人問題や障害者支援、国際交流などの運動を知るにつけ、その切実な要望に「利用されるぞ」と水をかけることはないと思う。

 もうひとつは、行政によって、一方的に市民運動を選別させるわけにはいかないという思いである。市民どうしのつながりは、行政との距離や、その都合とは無縁である。そのことを、自衛隊に反対し、埼玉県警とすったもんだを繰り返し、埼玉県と裁判をかまえたこともある私たちのようなグループが、福祉や環境のグループといっしょにいることで、身をもって示しているつもりなのである。

 そして何よりも、この法律によって市民運動が自ら分岐を作り出していくことだけは避けたいという思いがある。NPO法への認識をめぐって、かたや「行政にこびるグループ」、かたや「世をすねたはみ出しもの」とレッテルを貼りあうのは不幸なことである。「はみ出しもの」の側にいるほうが自然な私が「NPO連絡会」に熱心なことが、多少でもその不幸を予防することになればとも思っている。

 というわけで、私は「さいたまNPOニュース」の編集役に名乗りをあげ、毎月の世話人会の連絡係と司会役までひきうけ、「NPO」というつもりで、思わず「PKO」と口走ってしまうようなことをくりかえしながら、ガンとして「埼玉NPO連絡会」に腰を据え続けているというわけである。

 それから1年。「埼玉NPO連絡会」は、この1年間、「フォーラム」の呼びかけ人と実行委員を核に、約30人の「呼びかけ人・世話人会議」の体制で、計8回のべ350人の参加者を得て「さいたまNPOセミナー」を実施し、また計5号のニュースを発行して、フォーラム参加者、各セミナー参加者など約500人に送付するなどの活動を続けてきた。

 埼玉県は「市民活動サポートセンター」の設置の計画を進めてきたが、これが結局、私たち「連絡会」の提案や、二子石さんや山岸さんをはじめ大方の審議委員の意思に反して、運営母体を市民団体ではなく県の外郭団体にすることをゆずらず、それならばと、「連絡会」をもう一歩進めて「市民活動を支援するNPO」として発展させようという話になっている。ちょうどその話がスタートしたところに、何と、県のサポートセンター計画の予算化が見送られるという報が届いた。なんともはやだが、ますます、私たちの試みが大きな意味を持つようになってきたということでもある。sai-np01.jpg (13339 バイト)

新しい時代の市民運動の
行く末を見届けたい

 いま必要なのは、「市民運動をとりまくシーンは『NPO法』が作られるほどに、かつてとは変化している」という市民運動サイドの自覚だと、私は思う。法人格の取得いかんに関わらず、世の中からの「期待」と「厳しい目」から、市民運動もまた、のがれられなくなるということである。それは、これまで自分たちだけのものだったそれぞれ「論理と倫理」を「世に問う」ことを求められるということでもある。

 その自覚のうえで、法人格を取得するかしないか、行政や企業と協力するかケンカするかは、それぞれが主体的に決めていけばいいことなのだ。冷戦構造が崩壊し経済成長が終焉して価値観が混迷する時代に、市民運動もまたこれまでと同じ調子ではいられない。何を考え直し、何を大事に守っていくのかが、「NPO状況」下の市民運動には間われている、と私には思えるし、その新たな状況のなかで市民運動がどうなっていくのかをきちんと見届けたいと思うのである。

(上は『埼玉NPO連絡会』機関紙)

 連絡先>〒336-0005 浦和市東仲町12-12/102

Te1&Fax.048-883-5550

ホームページ:http://www.jca.apc.org/sai-npo/

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