広島平和文化センター編『新訂 平和事典』 勁草書房 1991年 (赤字は最後の注を参照)
(21)ベトナム戦争反対運動
アメリカがベトナム戦争に本格的に乗出したのは1962年であるが、その4月、ポーリング博士らのアメリカ知識人16人は、ケネディ大統領への公開状を出して、ジュネーヴ協定に違反する戦争の中止を要求した。1963年3月、ラッセル卿は『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムス』に書簡を送り、ベトナムでの化学毒物兵器の使用に警告を発し、また世界労連など多くの団体がアメリカの介入を非難した。1964年、米空軍による北ベトナム爆撃が開始されると、浜井信三広島市長や、世界平和アピール7人委員会などが、日本政府に対して、ベトナム戦争に協力しないことを求めた。アメリカではアリス・ハーズ夫人が抗議の焼身自殺をするなど、北爆反対の声は高まった。1965年アメリカは地上部隊をベトナムに投入し、毒ガスや枯葉薬剤を散布し、北爆も強化した。ラッセルはニュールンベルク裁判にならって「国際戦争犯罪裁判」を行うことを決意し、西欧及び東欧各国の妨害を排して、まずベトナムに国際調査団を派遣した後、1967年5月、ストックホルムで第1回法廷を開いた。サルトルが協力し、森川金寿が財政委員長に任した。法廷はアメリが国際法に違反したとの判決を下した。同年8月、末川博・大西良慶らが東京法廷を開き、ベトナム戦争に協力する日本政府をも非難した。11月に第2回ラッセル法廷がデンマークでかれ、平野義太郎・福島要一も参加して、国際法で禁止された兵器の使用、捕虜取扱、ジェノサイド(皆殺し)等についてアメリカの有罪を宣告した。この年、アメリカでも無数の団体が立ち上がり、声明・デモ・座り込み、徴兵拒否などが行われ、大学は反戦集会に包まれた。1968年からも、ベトナム調査団(日本からだけで7回)の派遣、新国際法廷の開催などが相つぎ、アメリカは苦況に立たされた。1972年、ニクソンは中国を訪間して停戦への地ならしを行い、1973年1月パリ協定が調印されてアメリカ軍は撤退し、1975年4月、サイゴンは陥落してベトナム戦争は終わった。この時期、日本ではベ平連の活躍が目立った。べ平連は1965年3月ベトナム戦争に対する市民が、自分自身の責任で参加する運動体として結成された。組織は作らず、規約もなく、連絡はするが指導・命令は一切ないことを主旨としていた。実質的には、鶴見俊輔・小田実・吉川勇一らが働いた。ベ平連には、当初は「声なき声の会」「平和のために手をつなぐ会」など、市民団体が参加したため、「ベトナムに平和を!一市民文化団体連合」と称していたが、京都で同種の団体が生まれた時、サブタイトルを「市民連合」としたため、各地のべ平連がこれにならい、1年後には東京べ平連も同様に改称した。4月24日に行ったデモを皮切りに、やがて月1回、定例の集会とデモを行い、1973年10月まで97回、1度も休まずに継続した。
べ平連の活動は1965−66年は啓蒙運動が中心で、徹夜のティーチ・イン(居残り学習の意)、『ニューヨーク・タイムス』、『ワシント・ポスト』、『信濃毎日』への反戦広告の掲載、『べ平連ニュース』の発行(最終号は100号)などを行った。アメリカでも「民主社会のための学生連盟」(Students for Democra-
tic Society)はじめ、多くの団体がベトナム戦争に反対して100以上の都市で反戦デモが行われ、独仏伊オーストラリアなどでもこの種の団体が活動していた。
1966年からべ平連は運動の強化を積極的に進めた。全国縦断反戦講演会が行われた前後から、各地にべ平連が出来た。都市別・職場別・学校別・世代別に200以上の団体が生まれ、うち独自の機関紙を発行するものだけで100以上に達した。外国人べ平連が生まれ、自衛隊員のべ平連が機関誌『整列ヤスメ』を出すなど、運動はますます広まって行った。
1966年8月、日米市民会議が開かれ、反戦平和市民条約が結ばれて、ベトナム戦争をやめさせるために、スト・坐り込み、ピケを行うと同時に、ベトナムに医療品を送ることが決議された。医療品約1,000万円を積んだ平和の船は、1969年にハイフォンに着いている。在日米軍兵士への反戦リーフレットの配布も繰返し行われたが、1967年11月、空母イントレピット乗組員4名がベトナム戦争に反対して逃亡、これをスウェーデンに送り届けた。やがてJATEC(米脱走兵援助日本技術委員会)が作られ、多くの脱走兵を支持した。この種の組織は独蘭英伊丁などでも作られていた。
1968年以降は反戦の行動が激烈となった。同年8月に「反戦と変革にかんする国際会議」が開かれ、変革を主題とする運動も行われた。新宿の「東京フォークゲリラ」には、毎週2,500人が集まったし、大阪では万国博に反対して「ハンパク」(反戦のための万博)を開いた。ついでエンプラ入港拒否闘争を闘い、デモは警察と衝突をくりかえした。英文の機関誌『アンポ』も発行された。1970年には安保闘争の一環をにない、反戦青年委員会・全共闘・市民団体とも連合して何千人という規模のデモを続けた。しかし、参加団体の立場は相互に尊重し、誹謗中傷はしない立場を堅持して、共産党や一部の新左翼とは一線を画していた。1971年には軍需工業を行う会社を対象に、反戦一株運動を起こし、三里塚空港反対闘争を助け、また同年、アメリカで反戦ショーを続けていたFTA(Free The Army)を招いて三沢・横田・横須賀・岩国・コザなどで公演を行った。1972年には「在日米軍兵士による反戦共同声明」が発表され、8・9月には相模原で兵器補給廠から運び出される戦車を坐り込みで止めている。
1973年1月27日、バリでベトナム和平協定が成立したので、1974年1月26日に最後の講演会を行って解散した。
〔参考文献〕森川金壽『ベトナムにおけるアメリカ戦争犯罪の記録』三一書房、1977;ベトナムに平和を市民連合編『資料べ平連運動』上中下巻、河出書房新社。1974。 (今堀誠二)
-------------------------------------------------------------------------------------
(注)ずいぶん詳しい記述だが、残念ながら内容は不正確で、事実の誤りも多く含んでいる。ベ平連の運動と、他のグループの行なった活動との区別も不正確だ。明確な事実の誤りの部分は、赤字にしてある。(吉川)