32. 吉岡忍「ベ平連から9.11以後へ――雑踏で見た「殺すな!』の意味――(『AERA』2002年4月15日号) (2002/04/09搭載)
 

ベ平連から
9.11以後へ

雑踏で見た「殺すな!」の意味

ベトナム反戦の市民運動資料が、ホーチミン市に渡った。
ともに訪問した元メンバーらが出会った人たちは、「国の
成長」に伴う現実と闘う。

ノンフィクション作家  吉岡 忍

photo 写真家・大木 茂

ソンミ村に残る虐殺当時の大樹。虐殺後の「証拠隠滅」
工作で一帯は焼き払われ、この大樹だけが残った


 気がつくと、バイクの海に溺れかかっていた。ホーチミン市の夜だ。まだここはクルマがいばり散らす街ではない。バイクは前後左右、どこからも迫ってくる。後部シートにまたがった私は排気ガスとエネルギーに煽られ、「行けーッ」と叫んでいた。
 ハンドルを握ったD君は、
「この街を舞台にドキュメンタリー映画を作っているんです」
 と言った。
 どんな?
「あそこを見てっ。ストリートチルドレンがいる。田舎から出てきて、家族がばらばら。助けてくれる人も制度もない。路上で、1人で生きてる。その子が質問してまわる。商店主、軍人、労働者、観光客、役人、老人、若者、物売りなどに手当たり次第に。そこを、カメラがずっとついてまわる」
 何を聞いてまわる?
「あなたに神様はいますか、と」
 神って、救済のことか?

あの戦いと運動の経験

 D君はアクセルグリップをひねった。私はうしろにぶっ飛んで、バイクの海に落ちていく。排気ガスとヘッドライトとネオンが渦巻くなかを、落ちていく……。
 世の中のもっとも深い底から見なければ、理解できない現実がある。そのことに若い世代が気づきはじめるとき、その社会は成熟期に入っていく。目の前の悲惨や調子っぱずれを戦争のせいにも他人や他国のせいにもできない、いまいましい段階に。
 ベトナム戦争が終わって27年が過ぎた。
 2月つから3月にかけて、首都ハノイでは、ファン・バン・カイ首相ら政府首脳が中国の江沢民国家主席と会い、友好関係強化を話し合っている。中越戦争の敵同士が恩讐を越え、9・11とその後の報復戦争に猛り狂ったアメリカを牽制しようというのか。アジアの一角が動き出している。そう見える。だが、それはまだアジアの声、人間の声としては響いてこない。
 その同じとき、ホーチミン市にいた私たちはグエン・チ・ビン副大統領と会っていた。私たちというのは、日本で最初の市民運動としてベトナム反戦運動(「ベトナムに平和を!市民連合」)を立ち上げ、活動してきた市民の有志だ。私たちは追憶のためにやってきたのではない、あのときも猛り狂っていたアメリカを退散に追い込んだあの戦いと運動の経験をいまどう活かせるのか、そこを議論したい、と私たちは言った。

社会主義のないなかで


 かつて南ベトナム臨時革命政府代表としてパリ和平会談に臨み、アメリカと渡り合った彼女の目もとから儀礼的な笑みが消えた。彼女は9・11以後の世界とグローバリズムについて語りはじめた。
「テロ根絶を叫んでアメリカが拡大している戦争を、世界各国が懸念している。もし私たちがこの好戦的な態度を抑えなければ、これから何が起こるかわからない」
 一方、グローバリズムは「ベトナムのような発展途上国を窮地に追い込むだけでなく、先進国内部の若者や労働者一人ひとりに対しても、自己の権利をどう守るのかという問題に直面させている」。
 そして、社会主義市場経済下のベトナムもまた例外ではない。貧富の格差の広がりと、官僚などの腐敗と不正。こうしたすべてに対する新しい闘いは、率直に言って――と副大統領はつづけた。
「過去のあの戦争よりもっとむずかしいものになると思う。陣営としての社会主義も国際的な民主運動もないなかで、一からはじめなければならないからだ」
 何を、どこからはじめることが救済につながるのか。若いD君と路上暮らしの少年たちが発する問いが、また頭をもたげてくる。
 ソンミ村に行った。ホーチミン市から中部のダナンへ飛び、国道一号線を120キロ南下すると、小さな村に着く。1968年3月16日早朝、9機のヘリコプターで飛来したアメリカ軍は、数時間のうちに村民504人を虐殺した。生き延びた村民は十数人。ソンミ事件はあの戦争中に無数にあった残虐行為のシンボルとなった。
 村の入口に資料館がある。ファン・タァン・コン館長自身が生存者の一人だった。米兵らは彼の家族6人に庭先の防空壕に入れ、と命じた。みなが駆け込んだ穴に、米兵は手榴弾を放り込んだ。彼以外の家族は肉片となり、ファン・タァン・コンはその肉片と崩れ落ちた土の下で意識を失った。
 77歳になるハ・ティ・クィは、あのとき42歳。他の170人の村人とともに小川のほとりに連れていかれた彼女は、いきなり2発の銃弾を撃ち込まれた。2人の子どもも殺された。数時間後、ひどく寒さを感じて目を覚ました。まわりは死体だらけだった。内臓や脳みそが飛び出した死体もあった。脳みそがうすいピンク色だったことを覚えている。
 老婆は椅子に浅くかけ、つぶやくように話していた。痩せた膝の上で組んだ、太く節くれ立った指先が身もだえするように動く。黒い衣服の袖口からのぞく腕のしわが、いまもけっして豊かとは言えない村の暮らしの難儀と、刻まれてしまった記憶の辛酸を表わしているようだ。

かき消せぬ人間の声

 生きることは単純な業ではない。人間と現実の複雑さを引き受け、それでも生きていくことが人生の核心だ。
 それはソンミ村でもホーチミン市でも、カブールやパレスチナ、東京やニューヨークでも変わらない。そういう生をある日突然、残酷に断ち落としてしまう暴力は、戦争だろうがテロだろうが、だから許せない。その暴力的な単純さに、私は耐えられない。
 強い日射しが降りそそぐ田んぼのなかの道を歩いた。虐殺の一年後、事件の発覚をおそれた米軍がブルドーザーとともに再びやってきて、そこから海までつづく3キロメートル内の田畑も森も家々もつぶし、均してしまった。
 整地、消毒、浄化、聖戦。敵や邪魔者と見なした人間や民族や社会に対する蛮行を糊塗する口当たりのいい言葉がある。しかし、ここにくれば、そのメッキがあっさり剥がれ落ちていくのがわかる。
 世界を単純に見よ、と叫ぶ者はあのころも現在もいる。敵か味方か、共産主義か資本主義か、悪の枢軸か自由の連合か、ショー・ザ・フラッグと迫ってくる。ワシントンDCから吹きつけるその突風が、いままた人間の声をかき消していないか。どちらでもないという複雑さを引き受ける人間の能力を奪っていないか。
 きみがドキュメンタリー映画を作りたい理由が少しわかったよ、とホーチミン市にもどったらD君に言おうと思った。それは、きみ自身が生々しい人間を発見し、その可能性を感じ取りたいということなんだ。ベトナムでも見えにくくなったそいつを、手探りしながら探しているのはきみ自身なんだと。ちがうだろうか?

グエン・チ・ビン副大統領

(『AERA』2002年4月15日号)

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