21.辻井 喬『ユートピアの消滅』集英社新書 p.77〜85(2001/01/09新規搭載)
ベトナム戦争の恩恵
幾つもの流れに分かれていた新左翼思想は、一九五六年のフルシチョフによるスターリン批判によって思想的エネルギーを獲得した。
彼らは思想的にはトロツキーをはじめ、スターリンが思想闘争の結果としてではなく権力の陰謀によって抹殺した理論家の影響を受けていたが、それがひとつの体系に収斂することはなかった。むしろ収斂赦しないのが新左翼の特性であったということもできる。
我が国においては、六〇年代後半から七〇年代を通じて、革マル派、中核派、ブント、ML派、第四インター、社労同、解放派、フロント等の流れがそれぞれに新しい展望を拓こうとして苦労し、脱皮を図っていたのであったが、これら新左翼運動にも、過去の革新的な運動に見られた欠陥が影を落としていた。それは主観主義と結合した観念主義、それがもたらすセクト主義であった。こうした欠陥は、理論の創造性をも覆い隠して、彼らを大衆社会から孤立させる結果をもたらした。
そうしたなかで明らかになった連合赤軍事件、そして中核派と革マル派の死闘的内ゲバの頻発が、新左翼運動の創造的側面を一挙に吹き飛ばしてしまうほどの打撃となったのである。こうした我が国における運動の特徴は、いろいろな論者によって苦渋に満ちた分析が行なわれているが、いわゆる旧左翼との間に生産的な論争が行なわれずに、時間だけが経過したように見えるのはなぜなのだろう。旧左翼も、大衆社会の変貌によって体質と理論の脱皮を求められており、新左翼も福祉と革命を敵対的な政策と捉えたような、過去の戦略の誤りをどのように克服したのであろうか。
こうした新左翼運動と一緒に論じられることもあるが、「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」略称”ベ平連”の運動は、その本質において新左翼運動とは異なっていた。
この組織の発足は六五年四月二十四日のデモの日となっているが、二十七日には阿部知二、小林直樹、中野好夫、野上茂吉郎、日高六郎らの連名で、六月九日を「ベトナム侵略反対、国民行動の日にしよう」というような呼び掛けなどもあり、また八月には自民党の指導者も出席した「ベトナム問題と日本の進む道」という議題の徹夜のティーチインが開催されるという動きなどもあって、はっきりした組織や綱領なしにはじまったという点で、その本質は市民運動であり、その運動を手伝う機構として、事務局が作られたのであった。
ベトナム戦争は一九七五年四月二十九、三十日に南ベトナム政府の無条件降伏、アメリカ関係機関のベトナム撤退と、フォード大統領のベトナム介入の終結宣言で、つまりアメリカ軍の敗北によって終わっている。それよりも二年早く、パリでベトナム停戦仮協定が調印されたのを機に、べ平連は解散の準備をはじめ、一九七四年一月二十六日の「危機の中での出直し」というタイトルでの解散集会を東京で開き、翌日のデモを最終行動としたのであった。
こうした経緯は、この組織が革命を展望した政治的な運動なのではなく、本質的にはボランティア活動であったことを証明している。この事が重要なのは、このべ平連がNPO、NGOと呼ばれているボランティアな市民運動の我が国における、はじめての大規模な運動だったからである。このべ平連についての明確な性格分析と評価は、今後のNPO、NGOの活動にとって貴重な経験の蓄積になるとおもわれるのだが。
外国のジャーナリズムが、このべ平連の運動をどう見ていたかについては、小田実の『「べ平連」・回顧録でない回顧』(第三書舘)に次のような記述がある。
「彼らがして来る質問のなかでウンザリするのがひとつあった。(中略)べ平連の運動はヨーロッパやアメリカのどのような思想に影響を受けて出て釆たものであるかというものだった。いや、ヨーロッパやアメリカ合衆国ダネの思想だけではなかった。あの頃は『毛沢東』や『文革』がはやっていたころでもあったから、当然『毛沢東主義』との関係についても、私はよく訊ねられた」
「あたかも日本には自まえの思想があり得ないものであるかのように今言ったような質問を次から次に私に訊ねて来た」
と彼は書いている。
しかし、こうした欧米のジャーナリズムの思想上のすこぶる軽薄なオリエンタリズムは、国内にも多かったのではないかと思う。欧米の規範や前例に照らしてしかものを見ようとしない国内の”有識者”は、べ平連運動に参加した多くの人々の背後に、西欧的あるいはアメリカ的社会システムとそれを支えている産業社会への絶望、ユートピアのイメージを担う資格を失った、社会主義体制への嫌悪感があったことを認識できなかった。
一方、経済界はベトナム戦争のお蔭で空前の経済成長を遂げつつあり、企業や体制的な組織に較べれば小さなものではあったが、多くの国民がその恩恵を受けつつあった。この現象は一九五〇年にはじまった朝鮮戦争の時と同じであった。
五〇年の六月二十五日、北朝鮮の軍隊が南北の国境である三十八度線を越えて南下したために、アメリカ軍と建国を宣言したばかりの中華人民共和国の義勇兵とが、朝鮮半島で戦うことになり、そのお蔭で敗戦後の日本経済は復興のきっかけを掴んだのである。戦争が勃発したために、インフレを抑えて財政再建を強行するという、教科書風のデフレ政策を主張していたドッジ博士の経済政策は斥けられ、戦時経済政策が容認されるようになり、また日本全体をアメリカ軍に協力させるために、駐留していた連合国軍総司令部(GHQ)は、第二次大戦時の数多くの戦争協力者、戦争遂行者を戦犯、ないし公職追放処分から解除し、「挙国一致体制」を取るための措置を実行したのである。当時、朝鮮戦争のことを、政財界の指導者は”神風”と呼んだのであったが、長期にわたったベトナム戦争は、育ちはじめた日本経済を、世界的な経済力ヘと育て上げてくれる薫風と受け取られていたのであった。
当時、新聞などマスメディアに関心の深い財界人が、アメリカ空軍の北ベトナム爆撃は適切な戦術とは言えず、和平を早める手段でもない、と批判する社説を熱心に掲げた新聞社に押しかけて、
「あなた方の新聞は偏向している、こうした社説が引き続き出るようなら、我々は広告の出稿を考え直さざるを得ない」
と圧力をかけたりしたのであった。
利を求めて動き、利益が増大する戦争であれば、そこの国の人たちがとんな辛くても、その戦争を長びかせようと考えるのは、自由市場経済を原理とする社会のなかで、経営に携わる者の当然の行ないである、という主張は、本当に”自由市場経済的”なのであろうか。こうした問題について経済界で掘り下げた議論が行なわれたという記録を、私は見つけることができないのだが。
現行憲法の前文には、
――われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ――
と書いてある。しかしベトナム戦争に際して、これを恵みの雨、薫風と歓迎し、アジアにおけるアメリカ軍の軍事行動を無条件に支持し続けた態度は「名誉ある地位を占める」のに適切な態度だったと言えるのか。
少なくとも敗戦によって、明治維新以来のユートピア論のひとつを失った我が国は、朝鮮戦争とベトナム戦争の二つの期間に際して、経済大国に成長するという目標以外の、どんな目標をも持とうとしない国として存在することを、内外に示したのであった。
経済的価値以外の判断基準を持たないという我が国の指導者の基本姿勢は、外交問題、国際関係の問題についての判断を、アメリカに一任しているという″政策″によって裏打ちされていたと言うことができる。
アメリカの成功
確かに、七〇年代にあっては、経済大国になることは一種の国家目標であり、敗戦後の我が国にとっては、これ以外に理想はないし、あってはならないことのように思われていたのであった。
ベトナムでの戦争が続いていた間、アメリカと協調して南ベトナムのチユー政権への援助のみを、自分たちの役割としてきた日本の経済界の政治的代表であった政党が、
「停戦協定が成立したその翌日、自民党本部のビルの上に『祝ベトナム停戦・つぎは復興と開発に協力しよう』という恥知らずな看板が大きく掲げられたことに、私たちはとりわけ憤激した」(吉川勇一著『市民運動の宿題』思想の科学社)
というのは、あたりまえのなりゆきであった。当時の政財界の指導者たちにすれば、戦争の慈雨が降りやんだのだから、次は復興と開発の慈雨、薫風を期待し、そのために努力するのは、当然の行動なのであった。それなのに、なぜ”べ平連″の人たちは憤るのかという怪訝な感じしか、持てなかったのではないかと思われる。ここにはどう説明しても問題意識の擦り合わせすら不可能な思考の質、人間のタイプの絶対的な断絶が認められる。二十一世紀が近づいている今日、国についての意識も理想も若者たちが持っていないと歎く″指導者”が多いようだが、昨今の若者たちの没理想的物質主義の源の多くは、経済界の先輩によって培われたのではないだろうか。
そうしてその頃から、大衆社会の前途にはっきり見えるようになったのは、アメリカンドリームと呼ばれる、繁栄を誇るアメリカ合衆国の姿であった。
このドリームは、ベトナム戦争でのアメリカの敗北、ウォータ−ゲート事件と呼ばれるニクソン大統領のスキャンダルが世界に報道されても(一九七四年八月八日、ニクソン大統額はこの事件の結果辞任した)それほどに色褪せなかったように思われる。
アメリカ人にとっては、今まで世界的な規範と信じて疑わなかった、アメリカンデモクラシーという考えが通用しない国があるという発見は、自己確信への深刻な動揺をもたらした。それは、アメリカ人がはじめて、異文化を考える目を持ったことを意味してもいたのである。アメリカとはどういう国なのか、我々の″ルーツ”はどこにあるのか、というような問題意識を主題にした出版物や映画が市場に現われたのはこの頃である。
しかし日本人は、アメリカの人たちが悩んだ深さの半分ほども悩まなかった。ことにビジネスに携わる人たちは「復興と開発」に参加すればいいのだと考えていた。「どういう国なのか」とか「自分たちのよって来たるところ」を考えるというような、理念や哲学に関連する事柄はビジネスの守備範囲外の事なのだ。日本のビジネスマンが″エコノミック・アニマル”という侮蔑的な名で呼ばれるようになったのは、この七〇年代の頃からであった。
ウォーターゲート事件についても、これをアメリカンデモクラシーが今なお生きて、大衆社会に根を張っているという側面を指摘する論評は、意外に少なかった。それは政治家のスキャンダルは我が国ではそれほど珍しいことではなかったからでもあろう。しかし、同時に、人権、知る権利、デモクラシーの原則に反した人物は、日本の総理よりも遥かに権力が集中している大統領であっても、辞めなければならないのだという事実はビジネスマンたちにはあまり意識されなかった。それはウォーターゲート事件の少し思想的な分野に路み込んだ側面だったのである。……(以下略)
(集英社新書 『ユートピアの消滅』より)
(吉川注)上記に引用した部分以外にも、「ベ平連」についての論及は、p.21、p.56などにもあり、また、ベトナム戦争との関連の文章は本書のほかの部分にも多くある。
なお、上記に引用した文中、「二十七日には阿部知二、小林直樹、中野好夫、野上茂吉郎、日高六郎らの連名で、六月九日を「ベトナム侵略反対、国民行動の日にしよう」というような呼び掛けなどもあり」とあり、この「二十七日」は4月27日のように読みとれるが、5氏による「一日共同行動」の「要請」文が最初に出されたのは、1965年の5月11日であり、ついで5月27日付のその後の経過報告の「手紙」の中で、6月9日を「ベトナム侵略反対・国民行動の日」とすることが報告されている。
また、ベ平連の正式名称が「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」となっているが、これは発足当初の名称で、その後「ベトナムに平和を!市民連合」と改められ、一般にはそう呼称されてきた。