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8. 鈴木道彦「越境の時――一九六〇年代私記」(『青春と読書』2006年2月)(2006/06/10記載)集英社発行の月刊誌『青春と読書』に連載中 の鈴木道彦さんの回想記の第10回目に、1967年10月の羽田闘争における山崎博昭の死をめぐる報道への批判、そしてベ平連の脱走兵援助活動への参加、韓国軍からの脱走兵、金東希 問題などに触れた部分が含まれている。以下に、脱走兵問題と関連した部分だけを引用、ご紹介する。
第三章のためのノート
……第二回目の羽田デモの翌日である一一月一三日、小田実を代表とする「ベトナムに平和を! 市民・文化団体連合」(略して「べ平連」)は、空母「イントレピッド号」から脱走した四人のアメリカ兵を密かに日本から出国させたと発表して、世論に大きな衝撃を与えた。その後「ベ平連」は次の脱走兵に備えて、具体的に彼らを匿い国外に逃す組織の「ジャテック」とともに、資金集めや宣伝のために「イントレピッド四人の会」を作り、数学者の福富節男、仏文学者の高橋武智とともに、私にもその世話人になってくれと依頼してきたのである。
私はそれまで「べ平連」と直接の関わりがなかったし、一九六八年三月末からは一年間日本を離れてフランスでの研究生活にはいることが決まっていた。しかし「べ平連」の重要メンバーである栗原幸夫や武藤一羊とは前からつきあいがあり、またアルジェリア戦争以来の脱走兵援助の問題でもあるので、六八年三月までという条件で承知した。こうして短期間であるが、この仕事に目まぐるしく追われる日々が始まったのである。
この組織は、ヴェトナム戦争に反対する集会を開催したり、記者会見を開いたり、反戦のための刊行物を出したりするとともに、何よりも資金を集めてそれを「ジャテック」にまわす役割を持っていた。つまりは表と裏の活動の接点である。それと同時に私がこれを引き受けたのは、このとき長崎県の大村収容所に入れられていたもう一人の脱走兵である金東希のことを、少しでも多くの人に知ってもらいたいと考えたためだった。
当時の韓国は、現在のイラク戦争におけると同様に、ヴェトナムに軍隊を派遣していた。金東希は、そのヴェトナム行きを嫌って六五年七月に軍を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。しかも一九三五年に済州道で生まれた彼は、小学三年まで良民化教育を受けて日本語を守んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、いずれも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らしていた。要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。しかも彼の亡命願には、次のように書かれていた。
「私が亡命地を日本に選択したのは勿論地理的条件もありますが特に私は日本国憲法前文ならびに(第九条)戦争の放棄を規定し平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのでります」(ママ)
ところが日本政府は頑なに彼の亡命を拒否し、韓国への退去強制命令を出して、大村収容所に収監した。しかし脱走兵が独裁政権下の韓国に送り返されれば、極刑も覚悟しなければならない。藤島宇内はいち早く「現代の眼」一九六六年五月号でこの
問題を取り上げたし、金東希を救わなければならないという動きは、福岡、大阪、長野などに広がり、東京でも「べ平連」などいくつかのグルーブがその声を上げた。これら東京の支援者たちを結ぶ「金東希・東京連絡会議」も作られて、署名や請願を通して彼の亡命実現につとめていたが、そこには二、三の大学の学生グループに混じって、一橋大学の私のゼミ生たちも参加していた。六七年一二月一二日には、その鈴木ゼミの主催で、学内で「イントレピッドから金東希へ」というテーマのシンポジウムも開かれている。これには「べ平連」から武藤一羊、「金東希を救う会」から玉城素、学内からは中国思想史の西順蔵が参加し、他大学や地区の運動家も加わって、約四時間にわたり熱心な討議が行われた。
今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から六八年一月三日付で送られてきた手紙がある。当時写しが出回っていた彼の北朝鮮への「帰国先希望書」なるものについて、私が手紙で質問したのに答えたものだが、そこには、「私はまがいなく日本に亡命をねがっているものであります、それいがいなにものもありません」(ママ)と明記されている。おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への「帰国」を「希望」させられたのであろう。
その北朝鮮に彼がとつぜん送り出されたのは、六八年一月二六日の朝だった。もちろん、朴正煕の韓国に送還されなかったことは喜ぶべきことだが、この妥協的な措置に私は釈然としなかった。その後の彼の情報は分からない。小田実は七六年一〇月に金日成主席に会ったときに、金東希のことを訊ねたが、そんな人は知らないと言われ、また後に、調査したがそのような人はいない、という返事をもらったという(『となりに脱走兵がいた時代』思想の科学社)。ここにもまた、戦後日本の酷薄な対応のために、空しく希望をつみ取られて消えて行った人の運命がある。
これが一九六〇年代、とくに六七年から八年にかけての日本を覆っている空気だった。すなわち過去の反省はなおざりにされ、戦争への協力は露骨になってゆくが、なおかつそれに抵抗しようとする人々が懸命な努力を惜しまなかった時代である。またそのような流れの中で、大学では諸セクトや全共闘の運動が激しく燃え上がった時代でもある。
金嬉老事件は、このような空気のなかで起こった。
(つづく)……
(集英社発行の月刊誌『青春と読書』2006年2月号より)