223. ベトナム訪問の報告文章、感想、論文など(その6)02/06/22 掲載)

 本欄の前号に続き、その後発表されたものを以下に掲載いたします。 (16)『週刊 読書人』6月28日号に載った吉川勇一さん「再びベトナムを訪ねて」(中)、および(17)『週刊金曜日』2002年6月21号掲載の「栗原達男・吉川勇一が見た 聞いた 撮った!  ベトナム 2002」です。

再びベトナムを訪ねて(中) (『週刊読書人』2002年6月28日号)
新 た な 創 意 が 必 要 に
予想しなかったビン副大統領の発言

吉 川 勇 一戦争証跡博物館で吉岡忍氏と

 驚いたというのは、これらに対するベトナム側の発言だった。出席していた元国連大使や、元パリ和平会談代表といった人びとがつぎつぎと発言した。国際舞台の場では聞けなかったような話が、それぞれの人から語られた。憲法を無視しての小泉政権のインド洋軍艦派遣への驚きや鋭い批判も語られた。
 かつて南ベトナム臨時革命政府代表としてパリ和平会談代表の一人だったグエン・ゴック・ドゥアン女史はこう発言した。
 ――今皆さんが言われたことこそ、私たちが最も悩んでいる点なのです。かつては人びとの立場ははっきりしていた。侵略する帝国主義の側に立つのか、抑圧されている側に立つのか。最近もよく国際会議の場に出るが、そこでは経済問題しか話題にならず、政治の話をすると遅れた人間のように思われてしまう。話はせいぜい環境問題だ。かつて私たちとともに闘った団体のあるものは存在しなくなり、あるものは不活発になっている。個人も、ある人びとはすでになくなり、ある人びとは意見を変えた。新しい国際関係をどう作り直してゆくのか、とても難しい問題だと痛感しているのです――。
 これらの発言のあと、ビン副大統領はこう言った。
――21世紀を希望の世紀と期待した。だが、その希望は実現していない。最初の年に911事件が起き、つづいてアフガン戦争が起こった。アメリカの今の好戦的な態度を抑えなければ、今後何が起こるかわからない。「グローバリゼーション」の問題もある。豊かな国はこれでもっともっと豊かになり、貧しい国はもっともっと貧しくなる。この二つの問題が世界を強く支配している。このなかに日本とベトナムの関係もある。ベトナム戦争時、日本政府はアメリカに追随していたが、いま日越関係は、経済面ではよくなってきており、その積極面を私たちは認める。だが、今後の日本の対ベトナム政策はどうなり、両国の関係がどう変わるのか、注目している。……昔は社会主義陣営というものがあり、アメリカが独善的、特権的に動くことはできなかった。国際的な民主的団体もあった。いま、そういうものはない。われわれには、あらたな創意が必要なのだ。
 きょうは新しい「始まり」だ。これから大いにみなさんと交流し、新しい方策を考え出していきたい――
 ほとんど初対面と言ってもいい私たちに、こういう話がされるとは、少なくとも私の予想していなかったことだった。
(この項続く)(よしかわ・ゆういち氏=「市民の意見30の会・東京」会員、元ベ平連事務局長)
◇写真は戦争証跡博物館のベ平連資料の展示の前で吉岡忍氏(左)と筆者(新聞に掲載されたのは白黒写真)

 
(『週刊 読書人』2002年6月28日号)
 

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トナム 2002
栗原達男・吉川勇一が
見た 聞いた 撮った!


元ベ平連(ベトナムにに平和を!市民連合)メンバーらがこの2月と4月に
ベトナムを訪問し、ホーチミンの戦争証跡博物館にベトナム反戦運動の記録を寄贈
ベトナム友好組織連合からは運動に対する感謝の勲章がメンバーに授与された。
2月に同行した写真家・栗原達男氏と、2度にわたりベトナムを訪問した
元ベ平連・吉川勇一氏から、ベトナムヘの思いなどを語ってもらった。

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 週刊金曜日の第1ページ全図

美しいアオザイ姿のデモと国道1号線で会った。
3月3日はベトナムでも「女性解放日」だとか。

「国 道 一 号 線」 へ の 旅

栗 原 達 男

くりはら たつお・1937年生まれ。写真家。
沖縄、炭鉱、海外移住者など、「国家と人間」にこだわり続けている。
 

写真 右】ホーチミンとハノイを結ぶ長距離バス。クアンガイの北で。
【写真下】ホーチミンの南郊外で。ベトナムでは、稲作は三毛作。バス車窓より写す。

国道1号線のバス
 ベトナム戦争の撮影には行かなかったが、いくつもの映像が脳裏に焼きついている。
 黒煙の中からアスファルトの国道を五人の子どもたちが泣きながら逃げてくる写真。中央の女の子は全裸で、ヤケドをしている――。
 こう書いただけで、かなりの人がピュリツァー賞のあの写真を思い起こすと思う。AP通信のベトナム人フォトグラファー、ニック・ウトゥが撮った[戦争の恐怖」と題する写真だ。
 私は一九七六年、米国ロサンゼルスでベトナム戦争の記録映画『ハーツ・アンド・マインズ』のノーカット版を見て、この写真が撮られた状況をくわし国道1号線沿いの水田く知ることができた。
 封鎖された国道に十数人の報道カメラマンが待機し、しきりに腕時計を見ている。
「来た、来た」
 二機の米軍戦闘磯が飛来し、前方の村にナパーム弾を投下する。猛火があがり、やがて死を免れた子どもたちが黒煙の中から逃げてくる。
 もし、私がこの場にいたら……。
 はたして作戦と称するヤラセに「NO!」を言う勇気があったろうか。いや、言ったとしたら自分の身が危険な日に遭っただろう……。
 あれから四半世紀が経つのに、助かった少女がカナダへ移住し、結婚して幸福でいる報道が時々されるが、私は今も同
じことを考え、それも「作戦」の延長のような気がしてしまう。
 私がベトナム戦争に行かなかったのは、自分の性格と、戦争の現場に行く前に戦争という不条理の源である「国家と人間」について、もっと知っておきたいと思ったからだ。
 六七年に新聞社を辞めてフリーになってから、全欧州、中東、アジアなど、かなりの戦跡を見つめ、考え、撮ってきた。
 六八年に初の写真展「ヨーロッパ戦争二三年」を開催した時、ゲルニカ、アウシュヴィッツ、ノルマンディー、いくつもの死の舞台の写真に来訪者の一人は、「戦後でなく戦前の気がしてくる」と言った。
 はたして、それから一年後にルーマニアで流血革命が起き、最近ではユーゴスラビアでの戦争など、この言葉が現実となり、二一世紀になつても、アフリカ、中東、アフガンの流血など、ご存知の通りだ。
 私はそれだけに今回、「行かなかったベトナム」の現在を見つめ、撮りたいと思った。
 この旅の一番の目的は、元ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のベトナム反戦や米軍脱走兵を支援した当時の活動記録をまとめたDVDや、日本のベトナム反戦運動の資料をホーチミンにある戦争証跡博物館に寄贈することだった。
 この博物館には、たくさんのベトナム戦争当時の写真が展示されているが、なかでも戦死したジャーナリスト全員の顔写真が、国家や体制の違いを超えて展示されていることに、ベトナム人の心を感じ、胸が熱くなつた。
 「国道一号線」は、北は首都ハノイの北方の中国との国境から、南はホーチミン市の南方、カーマウ岬まで全土を縦断している。全長は約二〇〇キロメートルもある。
 私たちが走ったのは、ほんの一部だが、どこを走っていても、あの少女たちの写真の道のように思えた。
 約三〇〇万人ものベトナム人が殻された戦争は、「ついこの間」あったのだ。

ソンミ虐殺写真の現場の村道

【写真左下】ソンミ記念館内にある、米軍により村民504人が虐殺された写真。  【写真右上】パンフレットにある農道のソンミ虐殺写真をその場所で撮る。
 

ベトナムで聞かされた三〇年前のデモの効果

吉 川 勇 一

よしかわ ゆういち・1931年生まれ。
「市民の意見30の会・東京」会員。元「ベ平連」事務局長

  ここのところ、デモに参加する機会がまた増えている。
 有事法制に反対する五月二四日の東京・明治公園集会とデモは約四万人の参加者があり、三方向に分かれたコースのうち、市民グループは国会を通って日比谷公園まで五キロメートルという最長コースだった。歳もとったし身障者にもなっているので、歩けるところまで歩ければ、と思って加わった私だったが、どうやら全部を歩きとおせた。
 PKO法にせよ、周辺事態法にせよ、ずいぶんデモもやったが、強引に国会を通過させられた。仲間のうちからもデモの効果への疑問が言われ、徒労感や挫折感も広がる。実際、デモの効果など、目に見える形でなかなか確かめられるものではない。
 しかし、ごくたまにではあるが、それが眼前に現れてくることがある。ただし、長い時間、時には数十年もたってからのことになるのだが……。
 あのベトナム戦争をやめさせる上で決定的な影響を持った事件の一つは、ダニエル・エルズバーグ博士による国防総省の「ベトナム秘密文書」の暴露だったが、当時、マクナマラ国防長官のもとで働いていたエルズバーグ博士にそれを決意させたものが、一九六七年一〇月二一日、国防省を取り巻いた非暴力デモだったことはあまり知られていない。
 彼はそのとき、国防省の建物の窓から外のデモを眺め、デモ隊が殴られ運ばれてゆくのを目にして、「この人たちは自分の良心に従って生きているのだ、彼らは自分の心と理性がある場所に自分の身体を置こうとしている。私だったどうなるのだろう?」と自問自答したのだという(
D・デリンジャー『「アメリカ」が知らないアメリカ』藤原書店、361ページ)。それが明らかにされるのは、ずっと後のことだ。
 私の体験を紹介しよう。
 九八年冬、喜納昌吉さんが主催する反戦運動の記者会見に出たときのことだ。アメリカからデニス・バンクスさんも参加していた。彼は、会員三〇万人、原住民への差別に強い抗議運動を続けている「AIM――アメリカ・インディアン運動」の設立者だ。吉川、小田、高橋
 日本人記者から、いつからこのような運動に関心を持つようになったのかと質問されたバンクスさんはこう答えた。
 「一九歳の時でした。駐留米軍の一兵士として立川基地に配属されていました。そのとき、砂川町の基地拡張反対運動が起こり、私のいたフェンスの目の前で、主婦や学生、労働者たちが機動隊と激突しました。殴られても蹴られてもひるまない主婦や学生、そして棍棒の下で頭を割られ、血を流しながら、なおも非暴力でお経を唱え続ける僧侶たち。
 それを目にして、自分はここでいったい何をやっているのだろうか、と考えさせられました。それがきっかけで、軍隊や戦争、そして政治や差別の問題に関心を持つようになったのです。私をこのような道に進ませる契機は砂川町での日本人の非暴力の闘いでした……」。
 記者会見には、婦人民主クラブの山口泰子さんもいたが、私も山口さんもそれを聞いて驚いた。二人とも、まさにそのフェンスの外で殴られていた中にいたのだったから。
 砂川町での激突は一九五六〜七年の秋だった。四〇年以上も前のデモの一つの結果が、こんな形で国境、人種、そして時代をこえて知らされたのだった。
 今年、私はベトナムを続けて二度訪問したが、その中で、もう一つ、そういう経験が加わった。
 栗原達男さんの文にもあるように、目的は、ホーチミン市の戦争証跡博物館に、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など、日本の反戦市民運動の資料を届けることだったが、その際、私たちは、元サイゴン市の北西にある南ベトナム解放民族戦線の根拠地、クチの地下壕も見学した。
 二度目の旅でそこへ向かうマイクロバスに、ホーチミン市ベトナム日本友好協会の書記長、グエン・コン・タンさんが同乗していた。みちみち、日本語を話す彼から戦争中のクチでの個人的体験を聞いた。長い地下壕生活でのさまざまな困難が語られたが、その中に、米軍による神経戦の話があった。
 米軍は、夜になると解放戦線側に向けてベトナム語の放送をスピーカーで流した。女性や幼い子どもの声で、夫や父親がいなくなったあとの家庭の寂しさや生活の苦しさなどを切々と訴え、早く帰ってほしいと呼びかけてきたのだった。
 毎晩それを聞かされると、さすがの闘士たちの心も動揺してきた。それを彼らはどう克服したか。タンさんは周囲にいる私たちにそう尋ねた。
 「皆さんの闘いなんですよ。放送で、アメリカをはじめ各国の人びとがいかに私たちの戦いを支援する運動を展開しているか、それを毎日聞き、仲間に流したのです。
 日本の人びとが、サイゴン政権軍に送られる戦車を何ヵ月にもわたって止めているというニュースも聞きました。離れている妻子への思いに、ときにたじろぐこともあった私たちを、そのニュースはどんなに勇気付けてくれたことか。絶対に勝てる、そう思えました。皆さんに本当に感謝します……。」

 七〇年代はじめ、米軍相模補給廠からの戦車搬出阻止に、日本の市民や労働者は全力を挙げた。ベ平連の若者たちは輸送車の下にもぐりこんで逮捕され、裁判はベトナム戦争が終わったあとまで続いて、有罪の判決が下った。機動隊の暴力で重傷を負った仲間も多数出た。その時相模原から送り出されたM48戦車の実物にも、今度あちこちの博物館で再会した。米軍の兵員輸送車
 だが、この闘いの影響を、ベトナムの元解放戦士の口から、直接こういう形で聞けるとは、私たちは予想していなかった。
 バスの私のすぐ後ろには、山口幸夫さん(原子力資料情報室代表)、裕衣さん父子が坐っていた。
 山口さんは、当時、相模原「ただの市民が戦車を止める会」の中心的活動家だっただけに、感動もひとしおのように見受けられた。(裕衣さんは、その闘いの中で生まれた。名前の「裕衣」は中部ベトナムの激戦地、フエからとったものだという。この話は、どこでも、ベトナムの人びとから大拍手を浴びていた。)
 今年の夏、相模原の戦車輸送阻止闘争は
30周年を迎え、現地では集会も予定されているという。三〇年たって直接伝えられるデモの効果の話は、あらためて人びとに感銘を与えることだろう。
 明後日には、また、市民運動による有事法制反対のデモがあり、私はまた参加するつもりだ。(
530日)
(ベ平連のホームページ
 http://www.jca.apc.org/beheiren )
【写真上】吉川勇一氏(左)、小田実氏(左から2番目)、高橋武智氏(右)の3人に「各民族の平和と友好のための」勲章が授与された。【写真下】 米軍兵員輸送の装甲車は、死んだ解放戦線兵士をロープでひきずった澤田教一氏の写真を思い出させる。ダナンのホーチミン博物館で。

(『週刊金曜日』2002年6月21日号)

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