220. ベトナム訪問の報告文章、感想、論文など(その5)(02/06/14 掲載)(02/06/15 追加)
本欄の前号に続き、その後発表されたものを以下に掲載いたします。 (14)『市民の意見30の会・東京ニュース』72号に載った大木茂さんの「二つの黒い墓碑」です。(15)『週刊 読書人』6月21日号に載った吉川勇一さんの「再びベトナムを訪ねて」です。
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二 つ の 黒 い 墓 碑
大 木 茂 (写真と文)
▼ベトナム・メモリアル。ワシントンDC。
▲ソンミ資料館。クァンガイ省ソンミ村。
ベトナム北緯15度、東経109度
ベトナム中部ソンミ村の資料館の片隅に黒い墓碑が有った。一九六八年三月一六日、アメリカ軍によって虐殺された五〇四人の村人たちの名前が記された簡素な木製の一枚の板だ。
これを見て、僕は十数年前にアメリカで見た「ベトナム・メモリアル」を思い出していた。
首都ワシントンDCの中心部に有るこの記念碑は、立派な分厚い黒御影石にベトナム戦争で死亡した五万八二六六名の「軍人」の名前を刻んだものだ。一人一人の名前が手厚く克明に刻まれ、別名〈The
Wall〉と呼ばれるこの長く黒い壁は、立派で重厚であるだけに、逆に短かった「生」を生きた若者たち(戦争で死んでゆく兵隊は常に若者たちだ)のはかなさと悲しさを感じさせてしまう。そして、若者たちの死ななくても良かった「死」を、残酷なことにもう一度ここで演じさせられているように僕には思えた。
リンカーン・メモリアル、ワシントン・メモリアルに挟まれ、有名観光名所でもあり訪れる人は多い。中には死者の友人家族であろうか、紙をあてがって拓本をとる人、壁の前にたたずみ涙する人の姿も絶えない。「軍人」とは言えほとんどが徴兵された若者のはずだ、死者の生年月日を見ると僕とほぼ同じ年代だったことにまた別のショックを覚えた。
ソンミの墓碑を訪れる友人家族は少ないはずだ。なぜなら、身内の者はことごとく殺されてしまったからだ。粗末な、と言っても良いほどのこちらの墓碑に記された五〇四人の名前を見ると、抵抗もできず突然断ち切られる「生」の絶望と悲しみを思い、胸が締めつけられるばかりだ。緑豊かな明るい日差しと吹き抜ける風の心地よさだけがかすかな救いになった。
二つの墓碑の間には地球の反対側に存在するばかりでなく深くて大きな溝がある。五万八二六六に対するものは正確に言えば五〇四ではなく約三〇〇万人のベトナム側の死者数だろう。五〇倍の数に驚くだけでなく、〈約〉としか表現できないところに、この戦争の本質が語られてはいまいか。片や一人の単位まで把握しながら、一方はその数十倍、数を把握できない死者を出しながらの戦いとはいったいどんな〈正義の戦争)だったつもりなのだろうか。
現在のアフガンで、中東での一方的な戦闘にベトナムでの姿が二重写しになる。
(おおきしげる/フリーカメラマン)
(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.72 2002年6月1日号)
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再びベトナムを訪ねて
率 直 で 個 性 的 な 人 び と
吉 川 勇 一
東南アジアへは何度も足を運んでいながら、一度もベトナムへ行ったことのなかった私だったが、なんと今年になって三月、四月と立て続けにこの国を訪れることになった。最初の旅は本紙四月一二日号で報告したように、ホーチミン市の戦争証跡博物館にベ平連など日本の反戦市民運動の資料を届けるというのが目的だった。
帰国した途端に、同国の友好団体連合会と平和委員会から、四月三〇日のサイゴン解放記念日を中心に、旧ベ平連の活動家など二〇名を招待したいという連絡が来た(招待とはいっても滞在費だけで、航空運賃などはこちらもちだったが)。団長格の小田実さんと私ほか一名は前回との継続性の関係で再訪。新たなメンバーは、作家の小中陽太郎さん、TVプロデューサーの坂元良江さんら元ベ平連や脱走兵援助の活動家、それに、相模原「ただの市民が戦車を止める会」の山口幸夫さん(現原子力資料情報室代表)や「武蔵野・三鷹ちょうちんデモの会」、「大泉市民の集い」など、ベトナム反戦運動で活躍したグループのメンバー、それに鎌田慧さん、加納実紀代さんなど、多彩な顔ぶれだった。
今度の旅にも驚いたことはあったのだが、前の文章で、最初の旅で驚いたことがまだあると書いたので、まずそれから報告しよう。
それはベトナム側の率直さだった。これまで、旧ソ連や中国など、社会主義国には何度か行き、それぞれの指導者や団体幹部と議論する機会は何度もあったし、訪日してくるそれらの国の代表団と接する機会も少なくはなかったが、程度の違いはあれ、その発言内容は硬く、みなほぼ似たようなもので、社会主義国の団体幹部との議論はそういうものという先入観もあった。だが、今度会ったグエン・チ・ビン副大統領をはじめ各団体の幹部との議論では、私には意外と思えるほど、人びとは率直、個性的だった。かつて中ソの谷間で苦労した社会主義小国ベトナムだからなのか、それともドイモイ以後そうなったのか、私には判断する材料はないが、とにかくそれが大きな印象だった。
前回、戦争証跡博物館への資料寄贈の際、ビン副大統領がわざわざハノイからホーチミン市まで来て同席する(しかも江沢民氏ら中国指導部がハノイを訪問中の時にだ)という知らせを受けた私たちは、無理を承知で、折角の機会だから形式的な場だけではなく、もっと率直に副大統領らと懇談する場が設けられないかという申し入れを送った。着いてみると、贈呈式の翌日、予定を急遽変更して私たちとの懇談の場が設定されたのだった。その日、一行はクチの地下壕を見学する予定だったが、小田実、高橋武智、吉岡忍、和田春樹、それに東京外語大の川口健一さんと私などがそれから外れて、それに出席することにした。
「予定のなかった急な会合だから、ベトナム側にはとくに発言の用意はない、日本側からまずご意見を」ビン副大統領はそう口火を切った。そこで、私たちは、やはり何の打ち合わせもないままに、それぞれ勝手にしゃべった。私は、失礼に当たるのを承知の上でと前置きしながら、現在のベトナムがアメリカや日本との経済関係を重視しなければならない事情は十分理解しているつもりだが、しかしそれと政治の舞台での発言は別のはずだ。日本にいると、アフガン攻撃にせよ、イスラエルの横暴にせよ、北の世界の大国の発言と僅かのイスラム諸国の声しか聞こえてこず、国際舞台で東南アジア諸国、ベトナムの声がほとんど聞かれないのは残念だという趣旨のことを述べた。(この稿つづく)
【写真:ジャングルクルーズの小船で。前から二人目が筆者】