219. ベトナム訪問の報告文章、感想、論文など(その4)02/06/06掲載)(06/11、13に追加)


 本欄 No.215 に掲載したものの続きです。(10)『東京新聞』(夕刊)2002年6月4日号に載った鎌田 慧さん戦争 未来への攻撃です。 全文を鎌田さんのご了解を得て掲載します。また、そのほか、(11)工人社発行の『グローカル』紙 2002年6月10日号に北川靖一郎さんの「解放27年のベトナムへ訪問団 米国一極支配の現代 「民衆協力」はなにができるか」が掲載され 、(12)『毎日新聞』(夕刊)5月23日号には、ベトナムを訪問した小中陽太郎さんの記事が、さらに(13)月刊『信徒の友』7月号に、小中陽太郎さん「『ベトナム』を忘れてはならない」が掲載されました。 続けてその下に転載(追加)します。

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戦  争
未来への攻撃

衝撃受けたベトナム訪問
化学兵器の被害、三世までも

鎌田 慧


 ハノイ市から十一`ほど離れた郊外に、「ヴエトナム友好村」がある。戦争の被害をうけた子どもたちの施設、と聞かされたのだが、ヴェトナム戦争が終結してすでに二十七年たってなお、その被害が子どもたちにあらわれている、というのを奇異に感じていた。
 元「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)のひとたちの訪問団に参加して、わたしも四月下旬、この友好村を見学したのだが、帰途につくころには、みな打ちのめされたように、言葉すくなくなっていた。
 ヴェトナ戦争当時、米軍は密林や田畑に七、二〇〇dもの大量の枯葉剤を散布した。その影響で、ペトちゃん、ドクちゃんなどの二重体児や無脳症児が生まれた悲劇は、日本でもよく知られている。しかし、この施設で出会ったのは、九歳とか十歳の子どもたちだった。二世ばかりか三世にまで、枯葉剤(ダイオキシン)の被害があらわれ、三人の子どもに障害があらわれた一家など、めずらしくないそうだ。
 わたしたちは、ちいさな教室に案内された。年齢のまちまちな子どもたちが、十三、四人ほど、いちおうは机にむかってすわっている。動物のぬいぐるみをしっかり抱いている男の子もいる。
 勉強しているというのではない。プラスチックのブロックを積んだり、それをはずしてプラスチックの笊(ざる)にいれたりしているだけだった。知能に軽い障害のある子どもたちである。
 一九九四年に設立された施設で、百二十人ほどの子どもたちが収容されている。ひろい庭があって、ロッジ風の建物が寄宿舎なのだが、別棟の二階には、書くのをためらわれるような表情の少女たちが壁を背にして一列にすわり、造花をつくっていた。将来、造花の手仕事だけで、はたして自立できるかどうか。
 七、八歳にしかみえないのだが、実際は十七歳、という少女もいた。わたしはそれをきいて強いショックを受けた。成長が止まってしまったようなのだ。といって、時間が止まっているわけではない。
 戦争は二十七年前に、終結したはずだ。そのときまでの数年間、憎悪をこめて散布された猛毒が、じいっと人間の身体に潜んでいて、未来を狙っている。はたして、米軍はそこまで計算していたのかどうか、猛毒は遺伝子の闇を、いまもじりじりと侵攻している。
 ヴェトナム戦争に従軍した米兵の子どもたちにも、ダイオキシンによる催奇性や発ガン性の被害がでている。その事実があっても、米国はまだわたしたちには謝罪していない、と案内していた所長が批判した。
 ホ一チミン市(旧サイゴン)にある、「戦争証跡博物館」には、米軍が犯した残虐な戦争の物的証拠が展示されている。一回の爆発で半径五百bの酸素を消滅させるCBU-55爆弾や直接百b以内を破壊 しつくす「地震爆弾」(重量六・八d)などの新兵器ばかりではない。二重体胎児のホルマリン漬けもあった。枯葉剤の影響だ。
 サイゴン陥落の前、パリでおこなわれていた「和平会談」で解放戦線政府を代表し、「アオザイの闘士」といわれたグエン・ティ・ビン外相は、いま副大統領に就任しているのだが、彼女は枯葉剤の被害とヒロシマ、ナガサキの被害をつなげて語った。ヴェトナムのひとたちは、ヒロシマを自分たちのものと考えていたのだった。
 ともに、過去の戦争の被害が、世代を越え未来の子どもにむかっていく恐怖で共通している。「化学戦争」でもあったヴェトナム戦争で、残虐な戦争に終わりを告げたわけではなかった。湾岸戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アフガニスタンと劣化ウラン弾や新爆弾が投下され、さらに被害を未来にむけている。
 かつてアジアを侵略したわたしたちの非戦や反戦の願いは、ヴェトナム特需以降弱まった。いま戦争を「有事」といい換え、物資の運搬や家屋撤去などに置き換える地上戦の議論が、国会で罷(まか)り通っている。
 戦争の悲惨は、その時だけで終わらない。未来の子どもたちをも侵す。「だからこそ平和を」という広島、長崎、沖縄の悲願を、もっと強く世界にむけて発信すべきだった、とヴェトナムで痛感させられた。
(かまた・さとし=ルポライター)
【写真:ハノイ近郊にある「ヴェトナム友好村」の子どもたち(筆者撮影)】

『東京新聞』(夕刊)2002年6月4日号

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解放27年のベトナムへ訪問団
米国一極支配の現代

「民衆協力」は何ができるか

 北川 靖一郎

 ベトナムからの招待

  本年四月、ベトナム友好組織連合会から、二十名の公式招待状が、旧ベ平連代表の小田実さんに届けられた。
 今年二月末から三月初めにかけて、小田実さんや吉川勇一さんら三十名が、ベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館に赴き、ベ平連など日本における市民サイドのベトナム支援の闘いに関する歴史資料を贈呈した。その際、グエン・ティ・ピン副大統領との間で、現下の世界情勢の中、ベトナム人民と日本の市民は協力して何ができるかという討論が行われた。そして、四月三十日解放二十七周年を共に祝うという形で、今何の公式招待につながったのである。
 第二次のベトナム派遣団は、四月末から五月初めにかけて、ハノイ市とホーチミン市でベトナム各組織と意見交換を行った。招待主であるベトナム友好組織連合会だけでなく、大統領府でグエン・ティ・ ビン副大統領、ベトナム共産党対外局、ベトナム祖国戦線委員会、ホーチミン市人民委員会、ベトナム戦争証跡博物館等との交流という公式行事を一つ一つ行う中で、日本とベトナム民衆交流の新たな道筋をどのように作っていったらいいかの模索が始まった。

  注目された訪問団

 招待側の歓迎は盛大であった。そして、国営テレビ、新開等沢山のベトナム・メディアが今回の訪問を大きく取り上げた。国営テレビは、特集の形で訪ベト団の動きをかなりの時間をさいて報じた。ベトナム共産党機関紙『ニャンザン』等各紙も好意的な報道を行った。『ニャンザン』は「ベ平連運動のリーダーと活動的メンバーは、ベトナム友好組織連合会の招待で、小田実氏を団長とする十九人が四月二十六日から五月二日までベトナムを訪問する。同団の訪問目的は、ベトナムの状況を視察し、現在の世界と地域の平和運動についての意見交換を行い、二一世紀の最初の年に平和のための協力活動について相談することにある」と報じていた。
 昨年八月、市民の意見三〇・関西と良心的軍事拒否国家日本実現の会は、「良心的軍事拒否国家実現に向かう日米独市民交流」を持った。アメリカから、七五年四月三十日、サイゴン陥落時、最後まで米大使館で大使等の脱出を指揮した元海兵隊員ジェイムス・キーンさんを招いた。(キーンさんは、この経験以降、ベトナム戦争に反対だとの主張をし続けている。)

  四・三○の光景

 その歴史的場所、南ベトナム傀儡政権の大統領官邸や米大使館前に立てるとの話を聞いた時、歴史的偶然を感じた。「この塹壕はベトナムに通じている」と直感したように、三里塚闘争とベトナム反戦闘争の連帯を強く意識した時代を生き、七五年四月三十日、テレビの前に釘付けになって、「最後の一兵がヘリコプターで大使館から去り、大統領官邸に突入する戦車と一星紅旗の旗が屋上やベランダで振られる」光景を見ながら、最大強国のアメリカを遂に人民戦争によって打倒したという興奮を、つい昨日の如く、思い出した。
 そして、今回、旧大統額官邸のみならず今は跡形もなくなっていた旧米大使館の場所にも足を運んだ(旧米大使館の前には六八年のテト攻勢で犠牲になった人々を追悼する記念碑が建造されており、しばし、黙祷を捧げた)。
 訪問時、ベトナムは乾季から雨季に変わる季節の変わり目を迎えていたが、雨に遭わなかった分、連日三五度前後の猛暑に見舞われた。道路という道路はオートバイが右からも左からも、道幅一杯になって、しかも家族三〜四人が一台に乗って飛ばしているのが目についた。
 公式行事の連続で、民衆から直接聞く機会がなかったにもかかわらず(但し、あったとしても言葉の壁で難しかったと思う)、「ベトナム戦争」を受け持ったベトナム人民の犠牲が、言葉に言い尽くせないほどの巨大なものであることが直ちに判った。枯葉剤の影響は、解放後、三十年近く経っても依然ベトナム全土に傷跡を残している。(アメリカ政府は、枯葉剤散布の責任を一切とらず、何らの公的援助も行っていない。私たちは訪れた「友好の家」で言菓では到底言い尽くせないほどの凄い一端を見せつけられた。)

  ベトナム民衆の 莫大な犠牲 

  何十万という行方不明者の消息は依然としてつかめない。招待側の一員との話の過程で、「クラスの半数が戦場に出かけたが、そのほとんどは戻ってこなかった」と聞かされた。クチ・トンネルという激戦地になった地域を訪問した。この地域は、解放側と米軍の血みどろの激戦になった場所で、五万人近 くの人々が犠牲となった。ベトナム全体では、総数三百万人、戦士と住民の犠牲者はほぼ半々である、と言われた(この他に、何百万人という負傷者も出している)。
 英雄的に戦ったベトナム解放闘争は、作家バオ・ニンさんが小説『戦争の悲しみ』で記したように、その裏側で大変な犠牲をベトナム人民が引き受けたことによって成り立っている。この事実を直接見聞することになった。「平和主義」を主張する場合、どのような心構えが必要であるかということを、今一度しっかりと肝に命じさせられた旅ともなった。
 ベトナム人民は、長きにわたりベトナム革命を領導したホーチミン元大統領が採用した統一戦線戦術の巧みさなどで、世界民衆の圧倒的支持を集め、世界の民族・民衆解放闘争の最前線の位置を占めていた。

  政府のねらい

  しかしながら、四・三〇解放後のカンボジア侵攻、中・ベト戦争によって、国際的孤立を余儀なくされた。このことの痛手は想像するにあまりある。これ以降は、全くの個人的独断であるが、孤立などで失われた十年の後に採用されたドイモイ政策の展開の中で、ベトナムの政治・経済等の立て直しが始まり、本年で十年余が過ぎ、一定の回復基調の中で、ベトナムが占めるべき国際的地位の検討が始まったのではないか。
 そして、プッシュ政権の誕生と戦争政策の遂行という事態の中で、再び世界民衆との連帯を回復できる好機を迎えたとの判断から、その一環として、日本の市民に対し、二回にわたり、グエン・ティ・ ビン副大統領が時間をさいて、会見にのぞんだのではないか。このように想像しても、あながち見当外れでないと思う。
 

 ベトナムガら アフガンヘ 

 現在のアフガニスタン攻撃の原基形態は、既にベトナム戦争にあった。ナパーム爆弾や枯葉剤しかり、一発で直径百メートルを破壊し尽くし、三・二キロ以内で地震をおこす地震爆弾、半径五百メートルを酸欠状態にするCBU-55爆弾など、ベトナム全土を容赦なく爆撃したのである。アメリカ軍部はベトナム戦争敗北の責任を一切とらず、逆に武器の近代化に邁進したのである。
 現在のベトナム政府が、アメリカの政権のあり様を批判し、ベトナム戦争時の責任を取らせるだけでなく、自らの歴史的体験をもう一度全世界に問い、活用しようとしているのであれば、日本の市民も、かつてベトナム戦争に加担し、今も有事法制を制定し米軍に協力しようとする日本政府等にもう一度痛打を 浴びせるためにも、日ベト民衆友好の動きを創り出すことが求められている。
【写真:ベトナム反戦闘争(六九年)】

(工人社発行『グローカル』紙 2002年6月10日号)

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ベ平連、ベトナムに招かれる
小中さんら、感慨新た

 ベトナム戦争が終わって27年目の今年、作家の小中陽太郎さん=写頁奄ェベトナムを訪れた。ベトナム戦争に反対する活動が評価されて、元「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」のメンパーらがベトナム友好団体連合会(VUF0)に招待され、その1人として参加したのだ。
 一行はかつてベ平連代表を務めた作家、小田実さんを団長とした19人。解放戦線軍がサイゴン(現ホーチミン)に入った4月30日をはさんで1週間滞在した。この間に、ベ平連の活動に対して、VUFOから「諸民族間の平和と友好」のメダルを授与された。また、枯葉剤の後遺症に苦しむ人々の施設や、ベ平連のことも紹介している戦争資料を集めた戦争証跡博物館などを回った。
 小中さんは「戦争跡を見ていると、ベトナムの人の抵抗の強さがわかる。1虫劉矧渕昇 にはなかなかいい旅でした」と振り返る。けれど今回の旅行は感傷だけでなかった。戦争証跡博物館には、戦争当時だででなく、最近のアメリカの9・11の光景を子供たちが描いた絵もあったという。「この絵の日本での展覧会を宿題にされてしまいました」
 また1968年、ベ平連の活動でハノイに来た時会った解放戦線の女性闘士で、今や政府の副主席であるグエン・ティ・ビンさん=同=に再会した。「この人たちと、ともにたたかった。と思うと感慨深かった」と語る。
 世界ではアフガニスタンや中東での紛争、国内でも有事法制が問題になっている。「ロートルもまた勇気を振り絞って発言していこうと思う」と、改めて自身を問う旅となったようだ。

(『毎日新聞』夕刊 2002年5月23日号)【写真は省略】

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世界を見る目 21世紀を読む――4

「ベトナム」を忘れてはならない

小中陽太郎
こなか ようたろう 作家・評論家

この4月、ハノイを訪問し、かつて
南ベトナム解放運動の最前線に立っていた
ビン副大統領と、33年ぶりの再会を果たした。
世界の各地で戦争が続く今この時、べけム戦争の
惨禍、そしてその時代を通して生まれた
平和への団結を、繰り返し伝えたい。

 二〇〇二年四月、ホーチミン市解放二七周年、ハノイ大統領府で、パリ会談当時、南ベトナム解放戦線を代表して一歩も引かなかったグエン・ティ・ビン女史に再会した。現在の副大統領だ。
 三三年前パリでもらった解放戦線のチラシを手渡すと、ビン副大統領の目が潤(うる)んだと、同行していたK君が囁(ささや)いた。同時にストックホルム空港で一緒になった時に撮影した、花束を持った彼女の写真を渡すと、「若かったわねえ」と通訳に語り、感慨深げだった。
 あの時彼女の随行員は「ジャングルを二か月歩いてきた」と言った。ベトナムがこのように解放され、ハノイで再びあい見(まみ)えるなどとは夢にも思わなかった。一行は小田実、吉川勇一ら一九人だ。歴史の転換点を実感する幸福な一瞬。
 このあと友好組織連合会から記念のバッジをもらった。小田さんらは前回だった。わたしは別に要らない。でも受け取った訳にはこういうことがある。
 一九七二年、相模原で米軍戦車M一一三の前に飛び出して逮捕された0という青年がいる。ふだんはわたしのうちで資料整理を手伝う優しい法律家志望の青年だった。
 ベトナム戦争が終わった時、彼の父親はこれでお前も勲章をもらえるかな、と言った。もちろんもらえず、彼は獄に入った。それとは関係ないが、父親は三陸海岸で遺体で発見された。Oはいまソウル。海の向こうのOに伝えてよ。
 Oちゃん、ブリキの勲章もらってきたよ。親父の墓にかざろうよ。
 ベトナム労働党機関紙『ニャンザン』がこんどの訪問について書いてくれた。
 「小中氏は、よく覚えているべ平連運動に参加した時の二つの思い出について語ってくれた。第一は、一九六七年に一九名のアメリカ兵を援助してベトナム戦争に加わらないよう日本の軍事基地から逃亡させたことである。警察は厳しく捜査したが、彼と仲間は漁船に乗りアメリカ兵を連れて逃亡させた。
 第二は、一九六九年にスウェーデンのストックホルムで、ベトナム平和会議に参加した南ベトナム臨時革命政府代表のグエン・ティ・ビン女史に会ったことである。ベトナム民族の統一団結、ベトナム革命の勝利に自信を示すベトナムの女性革命家の明るい笑顔をまだよく覚えているという」
 初めてハノイをおとずれたのは、北ベトナムが北爆にさらされている間、一九六八年八月だった。前年十一月アメリカの脱走兵をべ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)が苦労して国外に脱出させたあとだった。
 小田実がチェコで交渉して、わたしはまずプノンペンにとび、そこから国際監視団の飛行機でビエンチャンに入り、さらにハノイに出た。夕方離陸し、暗闇のハノイに着いた。着陸の瞬間のみ滑走路に灯がともったのを小田が覚えていた。北爆下のハノイは鉄橋も傾き、そこを軍事物資を満載したトラックが明かりを消して渡っていた。ハノイの市内にも蛸壷(たこつぼ)式の防空壕が掘られ、郊外に出るとサムミサイルが木立の間に見え隠れしていた。
 今回は訪問の三日目ホーチミン市に入った。
 クチの地下壕にむかう車中で、適訳の高齢者がこんな話をした。
 「トンネルは、人一人がやっと入れる大きさ。そこで三か月、日の目も見ずに暮らした。三つの困難があった。毒ガスと軍用犬と心理戦である。毒ガスは幾層にも掘ったトンネルをふさいでとめた。犬は米軍のタバコの吸殻やヤッキョウを集めて別のところに誘導した。
 いちばんつらかったのが心理戦だった。三か月に及ぶ雨季、そこに米軍のヘリコプターから子どもや女の声で『お父さん帰ってきて』と流す。そのときわたしは壕の中で日本語を独学し、NHKをきいた。世界の人がわたしたちを応援していると知って、暗い気分を追い払った」
 その応援のなかには、戦車をとめる戦いもあった。神奈川県の戦車の修理工場からの搬出を三か月とめた原子力資料情報室の山口幸夫氏は、彼の話をきいて涙をとめかねた。
 戦争証跡博物館で巨大な米軍のタンクを見てわたしは山口氏に言った。「あのすわりこみを、ぼくはカンパニアと思っていたが、何百人の命を救ったのだね」。同行している山口氏の娘さんは、ベトナムの古都ユエの名をもった二十八歳。
 ベトナム友好村に行った。そこでは枯葉剤の後遺症で胎内で被害を受けたり、父親の遺伝子が傷つけられて、障害を負った子どもたちが造花を作っていた。十九歳で人形を手ばなさない少年や水頭症の少女。原爆文学の専門家黒古一夫氏が指摘した。
 「広島と同じです」
 第二次大戦以降戦争の被害は、何世代も人を苦しめるものに変わったのだ。
 『ニャンザン』の結び。
 「ベトナムの戦争はもう終わったが、世界ではアフガニスタンや中東などで戦争がまだ残っている。小中氏が言った。『ベトナム戦争の惨禍、破壊された国土、不治の傷病の人々などについて、いつまでも繰り返して言わなければならない。好戦的な侵略者は勝てるはずがないことを世界の人々が信じられるよう、ベトナムの勝利を繰り返して言わなければならない。戦争を阻止するために人々はもっと団結しなければならない』」
 最終日、一人で一九九八年CCA(アジアキリスト教協議会)議長としてたずねたプロテスタントの事務所をたずね、ティー牧師とお会いできた。五月の国会議員総選挙にはプロテスタントから一人立候補するまでに成長したそうだ。教会に行くのに番地がわからず困っていると、トンネルの勇士がフランス語でそっと教えてくれた。優しい民族、不屈の民族だ。

(『信徒の友』2002年7月号)

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