9.『日本20世紀館』 小学館 1999年

 以下は同書 p.772-3 の「ベトナム戦争と反戦運動」の記述。これ以外に、多くの写真などが掲載されている。発行は99年2月20日付け、定価は 99年6月までは \9,500 プラス税

軋轢と反発の時代(5)  ベトナム戦争と反戦運動
<ベトナム戦争の激化とともに、日本でも全世界で反戦運動が活発化する。>

  一九六五(昭和40)年2月7日、米軍が全面的な北ベトナム爆撃(北爆)を開始すると、全世界では大規模な抗議の反戦運動が展開された。アメリカをはじめ、主要西欧諸国、社会主義国などでは、数万、数十万のデモとなった。日本でも反戦運動は大きく盛り上がってゆく。これはベトナム民衆の抵抗とともに、アメリカの政策に実質的な影響を与え、米軍の撤退につながってゆく。

ベトナム戦争の拡大

  旧宗主国フランスの退潮のあとを受け継いでインドシナ半島を支配し、共産主義勢力の拡大を阻止しようとしていたアメリカは、一九五五年のジュネーブ協定に調印せず、ベトナムの南部にゴー・ジン・ジェム政権を擁立した。そして一九六五年2月には、トンキン湾事件を口実に、大規模な北爆を開始して、ベトナム戦争は一挙に全面的なものとなった。(この事件の直後に議会で採択された「トンキン湾決議」がまったくの誤りであったと、当時の国防長官マクナマラがのちに『回顧録』で明らかにしている。)北爆の開始とともに、当のアメリカをはじめ、全世界各国で大規模な抗議、反戦の行動が展開され、それは、七五年に米軍が全面的にベトナムから撤退し、戦争が終結するうえでの大きな要因となった。

日本はアメリカに加担

  沖縄をはじめ、佐世保、横須賀、横田、岩国、三沢、相模原など、日本各地にある軍事施設は、アメリカがこの戦争を遂行する上で不可欠なものであり、日本の産業力が供給する資材や技術なども、米軍の攻撃を支える大きな要因だった。日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立ではありえない(椎名悦三郎外相)として、アメリカの政策を一貫して支持しつづけた。
  日本の軍隊を直接派遣することはなかったものの、日本はベトナムの民衆を相手とするこの戦争に、深く関わったのだった。また、ベトナム特需により日本経済が潤ったものであった。

反戦運動の展開

  アメリカでの反戦運動は、大学から開始され、次第にその規模を広げて、数十万、全米で数百万人が参加する反戦デモまでが組織された。六〇年代の終わりには、黒人運動の指導者でノーベル賞受賞者のマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが反戦デモに参加するなど、広範な黒人の公民権闘争とも結びつき、政府部内や軍部にも実質的な影響を与えるに至った。大きな衝撃を与えた米国防省の『ベトナム秘密文書』の暴露も、逮捕されてゆく反戦デモの参加者を国防総省の窓から見ていたダニエル・エルズバーグの決意によるものだった。
  日本でも当時、有力だった労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキをする(一九六六年10月21目)など、各分野で反戦の声と行動が高まったが、とくに無党派の市民運動の幅広い登場が特徴的だった。その代表的なものが一九六五年4月に発足した「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)だった。

ベ平連の運動

  べ平連の代表は作家の小田実(当時31歳)だったが、それまでの既成の平和団体と違い、規約も会員制度も役員選挙もなく、参加する市民の自発性と自律性に依拠して、ユニークな活動を展開した。この組織のあり方は、同じころ、公害や原発問題に取り組む運動とともに、その後のいわゆる市民運動、NGOなどのありようの原型を築いたともいえる。
  べ平連の展開した主な行動としては、六五年夏の「反戦徹夜ティーチイン」、作家の開高健が中心になって努力した『ニユーヨーク・タイムズ』紙への反戦意見広告、米脱走兵への援助(公表されたものだけで、六七年から六八年にかけて、一八人の反戦米兵を日本漁船などを利用してひそかにソ連経由で中立国、スウェーデンへ脱出させた)、在日米軍兵士への反戦工作(岩国、嘉手納、横須賀、横田、三沢など主要な在日米軍基地内には、兵士による反戦グループが結成され、とくに岩国海兵隊基地での組織は、世界でももっとも強力、長期にわたるものとなった)、東京・新宿駅西口地下広場での「フォーク・ゲリラ集会」(六九年一春から夏にかけて、毎週土曜の夜、新宿駅地下広場に三〇〇〇〜五〇〇〇人の若者が集まって反戦フォークソングなどを歌った)、『週刊アンポ』の発行、毎月の「定例反戦デモ」の継続などがあげられる。
  広範な知識人がこれを支持、参加したほか、賛同する市民、とくに青年層(いわゆる団塊の世代)によって、各都市、大学、地域などにべ平連のグループがつくられ、最盛期にはその数は三五〇を超えた。これらの市民運動は、それぞれ、独自の行動を展開するとともに、ときには全共闘など学生運動、反戦青年委員会など労働者、それに新左翼党派などとも連携して反戦の共同行動を行ない、六九年6月15日のそれは、東京で七万人のデモとなって、政府や既成左翼にも衝撃を与えた。
  この運動の中心にいた小田実は、早くから「被害者=加害者」の論理や、個人を国家の戦争加担から切り離すという立場を唱道し、日本の加害者性への認識、現在に至る戦争責任論への道を開いたといえるし、また、鶴見俊輔らの非暴力の方法論もそれとあわせて、運動に大きな影響を与えた。べ平連は一九七四年1月に解散した。(吉川勇一)

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