178. 鶴見俊輔さんの「テロとアメリカ」についての 続編「テロと日本」(転載)(01/12/17掲載)
次に掲載するのは、『市民の意見30の会・東京ニュース』の第69号(2001年12月1日)号に載った鶴見俊輔さんの談話『テロと 日本』の全文です。これは No.164 に転載した『朝日新聞』掲載の鶴見さんの談話『テロとアメリカ』の続編に当たります。
!テロと日本 |
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殺すな!」から「殺されたくない!」へ 「摩天楼崩落」はミレニアム的大転換の象徴
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鶴 見 俊 輔 |
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――10月17日に『朝日』の大阪本社版に載った鶴見さんのインタービュー「!テロとアメリカ」は、4日ほど遅れて東京本社版にも載りました。歴史的・地理的に長いスパンをもった考察が少ないだけに感銘深く拝見しました。
アメリカ人の20パーセントは信頼できるが、日本は危ない
――今日は、民衆の側の運動、それも日米両国の民衆の側の問題について話していただけますか。事件直後に出たアメリカ非暴力行動委のR・レイノルズさんらの声明は感動的でしたが、圧倒的少数派なんでしょうね。
「しかし、ベトナム反戦派で今生き残っているアメリカ国民の20パーセントほどは信頼できます。元ベ平連の活動家で、最近アメリカ国籍をとったMさんからは、向こうの情報がよく送られてきますが、それによると、この20パーセントはしっかりしているようです」
「日本はダメですね。危ない。ベトナム戦争のとき、反戦の意見は50パーセントを超えたと言われていましたが、しかし、この部分はあまり信用できません。歴史的経過が違うんですよ」
「1930年代にフランスの作家、アンリ・バルビュスらの反戦の呼びかけに応えて、東京に『クラルテ』というグループが出来たんです。知識人を中心に30人ほどが集まっていたんですが、戦争が始まったとき、はっきりと反戦の立場に立てたのは一人だけでした。誰だか知っていますか。宮本百合子ただ一人だったんですね。日本の知識人なんてのは当てになりません」
――東大出はダメというのが鶴見さんの持論でしたね。ハーバードならいいんですか(笑い)。
「ハーバードだってダメですよ。日本人の場合、東大出てから行くんですから……」
――あ、そうか、小学校だけ出てハーバードへ行くのならいいんだ(笑い)。
「その前があります。私が生まれついての不良だということを忘れては困ります。だから国家に(日本にもアメリカにもソ連にも)回収されないんです」
――でも、ベ平連のときには、東大出の小田実さんをはじめ、ずいぶん知識人が運動に参加したでしょう。
「いや、小田さんは偉大な人でした。例外的と言っていいほどです。今、そういう人がいないかと期待しているんですが、なかなかむつかしいようです」
今後の反戦運動の見通し
――今は各地域で自発的な行動が次々と展開されており、その模様は、ちょっと1965年の2〜4月、ベ平連の登場直前の時期を髣髴とさせる感もあるのですが、今度の「戦争」は、ベトナムのときのように血みどろなイメージが茶の間に持ち込まれることもあまりなく、また、アフガニスタンの地上戦ともなれば、ずいぶん長期化するでしょうから、運動の持続も問題だと思います。
「そう、見通しはかなり厳しいと思います。全体が戦争の準備に向かって大きく流れてゆくとき、私たちは、個人の立場、自分の基準をしっかり、はっきりと定めて、そこに不動の姿勢を保つということが大事になります」
――個人の市民的不服従が重要だということですね。
「私は歳ですし、吉川さん同様、考えなければならない病気の家族をかかえて、動くのは容易ではないんですが、しかし、地域的規模で行なわれる少数のデモ、たとえば、20〜30人の行動というようなものでしたら、参加して、行進に入るのはムリとしても、出発地点で見送るぐらいのことはやりますよ」
楽観的な「消費者主権」の見方は変わったか
――ところで、今年の参議院選挙の直前、鶴見さんは、やはり大阪版の『朝日』に出されたインタービュー記事で、「消費者主権――いわゆる『ジコチュー』(自己中心)」を大きく評価され、「私はいまの『小泉バブル』が続くことを願っている。消費者主権の定着が政治を変え、平和憲法はより強固に支持されると信じる」と言われ、今後の見通しについては、かなり楽観的な印象を受けました (注1)。それと今のお話とはかなり矛盾するように思うのですが……。
「ああ、そうですね。あれは9月11日の『摩天楼崩落』以前の意見でした。あれで状況が大きく変わりました。あの事件はまさに状況の大転換を象徴するミレニアムの区切りに起こった大事件と言えます。日本人の状況感覚が大きく変わりましたね。30年代でも、柳条構事件の後、一辺に国論が戦争へと雪崩をうちます。12月8日の事件もそうでした。それまで中国侵略に批判的だった竹内好のような知識人までが、戦争賛成になっちゃったんですから。今度の『摩天楼崩落』はそれになぞらえられます」
――すると、今後の見通しとしては「『消費者主権』が平和を守る」とは言えなくなった、ということですか。
「手放しで、そうは言えなくなりました。状況感覚が変わり、私の立場も少し変わったと言えます。でも、6月に話したこと、たとえば、『消費者主権の立場から戦争と向き合ったらどういう答えが出るだろう。「自分は殺されたくない」。そのひとことにつきるのではないかな』という点などは変わりません。コンシューマー・サヴァレンティ(消費者主権)には、いいところがあるんですよ。女性が中心だということです。これからの運動は、女性が中心でなければならないでしょう。」
「今度の事件直後、京都でいち早く行動に出たのは、YWCAの女性を中心としたもので、街頭に出て『イマジン』を歌いました。150人ほどの参加者のうち、100人が女性でした。『イマジン』は、今の状況にぴったりの歌ですね」
「殺すな!」から「殺されたくない!」へ
――東京のデモの集会では、『死んだ男の残したものは』(注2)が復活しました。
「あれもいいです。もうベ平連初期の『橋のたもとで暮らす人』(注3)ではありません。ですから、小田さんの言う、『殺すな! だけではない、殺されたくない! だ』という説に大賛成なのです。消費者主権の立場にたてば、ベ平連のときの『殺すな!』という他への命令ではなく、『殺されたくない!』という『ジコチュー』の表現なのですよ」
「これはベトナム戦争からの日本人脱走兵、清水徹雄の立場ですね(注4)。自分が殺されたくない、というのが出発点でした。ベトナム戦争参加の途中からやめる、ひどいことになったものだ、と思ったときに、そこから『ジコチュー』そのもので離れられる、それが大事なことです。ですから、全体としては厳しいという状況の中ですが、『消費者主権』がやはり大事だ、という私の見方は、変わっておらず、ま、それが、今後の希望――と言えぬまでも、今後の私の見通しです」
――これからの京都での具体的行動は?
「『自衛官ホットライン』という運動をカンボジア出兵のあと、周辺事態法のときにつくりましたが、あれが発足以来、8年間続いているんですよ。土曜、日曜の午後2〜5時、電話番号は075(761)3174です。第2、第3の清水徹雄さんの受け入れ窓口です。
――ありがとうございました。
(聞き手 市民の意見30の会・東京
吉川勇一)
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(注1)このインタビュー記事は、本ホームページの「ベ平連に関する最近文献」に全文掲載。次をクリックすればそこに跳びます。鶴見俊輔「『消費者主権』が平和守る」(『朝日新聞』 京都版 2001年6月30日号)
(注2)『死んだ男の残したものは』は、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の反戦歌。この歌については、本ホームページの「ベ平連に関するニュース」欄1999年の
No.77 に詳しい解説があります。次をクリックすればそこに跳びます。
谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の『死んだ男の残したものは』の発表は65年4月の市民集会で。
(注3)「橋のたもとで暮らす人」は、ベ平連運動の初期にデモなどでうたわれた歌で、タイトルは『平和賛歌』。岩田宏さん作詞で、曲はアメリカの『リパブリック賛歌』あるいは「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた」の節で歌う。歌詞は以下のとおりだが、没階級的だという批判があった。
一、橋のたもとで暮らす人 きれいな丘の上で暮らす人 でも平和のまんなかで暮らすのが それが一番だ そうだ ほんとにそうだ だれにも異議はない 平和をかちとる それが一番だ |
二、小さなネズミと暮らす人 大きなブルドッグ飼って暮らす人 でも平和といっしょに暮らすのが それが一番だ そうだ ほんとにそうだ だれにも異議はない 平和をかちとる それが一番だ |
三、せっせとお金をためる人 毎日たからものを磨く人 でも平和をめざして生きるのが それが一番だ そうだ ほんとにそうだ だれにも異議はない 平和をかちとる それが一番だ |
(注4)清水徹雄さんの事件 清水さん(1945年生まれ)は、広島市出身の日本人。66年渡米。67年に米国陸軍に徴兵、ベトナム戦争に派遣され、最前線のキャンプ・アヴェンス基地で戦闘に参加。68年9月、帰休で日本に戻ったとき、戦争参加が安易だったことを反省、米軍からの脱走を決意、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の支援を求めた。「清水徹雄君を支持する会」や「支持する弁護団」などが結成され、米国大使館、日本政府などに働きかけ、結局、12月14日、米大使館スポークスマンは、「慎重に検討した結果、清水君の逮捕を日本当局に要求しないことに決定した」と発表、事件は落着。この間、清水さんの行動への賛否両論が、マスコミの投書欄などをにぎわせた。日本政府はこの問題に何の動きも見せなかった。この間、鶴見俊輔さんは、清水さんが逮捕される可能性もあることを覚悟しながら、京都の自宅にかくまった。(吉川)