1991年9月に成田空港より入国。
来日前は、ペルシャ絨毯の修理技術者としてテヘランで勤務していた。
1995年7月、勤務中に転倒し頭部を強打し、現在も通院中。負傷後、会社はAさんを解雇したが、浦和地裁に解雇無効の申し立てをし勝訴する。
勤務中に負傷した後遺障害がいまだに残っており、相当長期間にわたる日本での経過観察と治療が必要であり、今回の出頭者の代表となっている。APFSのボランティア歴は5年。
イラン・イスラム共和国でペプシコーラの工場に勤務していたが、経済的な問題等で1991年10月に来日、妻と長女が1991年12月に来日した。1994年3月には、長男が日本で出生し、現在4人で生活している。
マンション等の配管設備の技術者であり、日本人とともに作業している。最近では、ゼネコンなどによる外国人排除のキャンペインがあり、現場の仕事も少なくなっている。
長女は小学校6年生となっており、帰国してもイランの生活に適応できないという。
1990年9月にミヤンマー連邦(ビルマ)から就労を目的として来日した。
ビルマに在住していたときは、エアーコンプレッサーの工場を親戚と経営していた。
来日後に就職した会社に今も勤務しており、同じビルマ国籍の妻は1994年8月に入国。日本で知り合って結婚、1997年には長女が生まれた。
すでに10年近くも日本で生活しており、家族も形成している。
1990年12月にFさんが就労を目的としてイランから来日した。
翌年1991年10月には、妻と子どもが来日し、同居するようになった。Fさんの姉も、現在、日本で生活を送っている。
子どもは小学校2年の時から日本で生活をしており、現在高校1年生。国語や社会科が得意科目だという。将来は京都の国立大学に進学したいと考えている。APFSの中では、比較的古いイラン人メンバーである。
Bさんは1990年5月に就労を目的として来日した。
イランでは、バスの運転手などをしていたが、父親が病に倒れ、弟と二人で9人の家族の面倒を見なければならなくなったために日本で働くことを決意した。
1991年4月には妻と長女、次女の3人が来日し、同居するようになった。長女は高校1年生、次女は小学校4年生。
Bさんは就労中に負傷し、片方の目を失明している。会社に対して損害賠償の請求訴訟を起こし、最高裁で勝訴したが会社は未だに賠償金を支払っていない。
現在、日本人と共に配管設備の会社を設立し、安定した生活を営んでいる。
1989年12月に就労を目的としてイランから来日した。
その前にも、2度程日本を訪れて、生活していけるかどうかを確かめた上で、日本に定住することになった。
1990年11月、実母、妻、長女の3人が一緒に来日し、Mさんと同居するようになった。長女は中学1年生、1995年1月に生まれた次女は、今年で4才になった。3世代が仲良く日本で暮らしており、イランにはすでに生活の基盤はない。
農業を営んでいるアパートの大家さんもMさん一家に暖かな眼差しを送っている。APFSの会員歴も長く、毎年開催する移住労働者の集いには、Fさん一家とともに子どもも連れてやって来る。
1994年2月、留学していた韓国のソウルから来日した。
当初は、短期間就労をして帰国しようと考えていたが、1997年9月、勤務先から帰宅する途中で車にはねられ頭部外傷で重症となる。すでに治療やリハビリは終了したものの、重度の障害が残り、就労は不可能となっている。
APFSで相当長い期間、社会復帰に向けたトレーニングを行う必要があると主治医から指示されている。しかし、M.M.A.さんは、いたって明るい性格で、始終駄洒落を言って周囲の人たちを笑わせている。 APFSのボランティア歴は1年余。
ASIAN PEOPLE'S FRIENDSHIP SOCIETY (APFS)