Q. いつ、どのような理由でサミットは、はじまりましたか?
第一回目のサミットは1975年、フランスのランブイエ城で開催されました。このときの参加国は、アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、日本の6ヶ国、G6サミットとして誕生しました。翌年からは、カナダもふくめてG7サミットとなり、1991年以降ロシアがオブザーバーなどとして参加しはじめ、1998年からはロシアも全面参加しますが、正式メンバーとみなされるのは、2006年のセントペテルスブルグ・サミットとなります。
サミットは先進国中心の経済体制の危機から生まれました。
◆ ブレトンウッズ体制
1944年、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズでひらかれ、強いアメリカのドルを機軸にすえて、安定した自由貿易の世界体制を構築するという趣旨のもとに設立された国際通貨体制のことを〈ブレトンウッズ体制〉といいます。この体制は、豊富な金をもち、金とおなじだけの価値があったアメリカのドルと、各国の通貨を連動させたことから、金・ドル本位制といいかえられることがあります。
〈ブレトンウッズ体制〉のもとでは、あくまで安定的な自由貿易がのぞまれました。世界中の個人や企業をむきだしの自由競争にゆだねるならば、ほとんどの企業が倒産し、大量の失業を生みだされ、社会が混乱におちいることはまちがいありません。そのため、各国政府は自由貿易体制を前提としながらも、国内産業を保護し、ケインズ政策をとることを一般的としていました。こうしたむきだしのままではない、緩やかな自由貿易体制のことを〈管理された自由貿易体制〉といいます。
◆ ブレトンウッズ体制の崩壊
しかし、1970年代、アメリカはベトナム戦争のために莫大な赤字国債を発行し、大量のドルを海外に流出することになりました。1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領はついに自国の金の準備量をはるかにしのぐドルの発行にたえきれなくなり、金とドルの交換停止を宣言しました。これをうけて、金=ドル本位制はなりたたなくなり、為替制度は変動相場制へと移行しました。〈ブレトンウッズ体制〉を崩壊させたこの突然の宣言のことをニクソンショックといいます。このときのアメリカの動きは、ドルの通貨価値を急激に下落させ、世界経済を混乱におとしいれました。
サミットのはじまった理由の一つには、先進国の協調管理によって、不安定になった国際通貨制度を安定化させるということがありました。
また、1973年の石油ショックのあと、先進国は深刻な経済停滞になやまされました。多くの企業は、その原因が労働市場の硬直性にあると考えました。19世紀以来、企業に低賃金の労働力を付与してきたのは、農村からの追加労働力と、産業予備群とよばれる失業者たちです。それが1960年代末になると、工業化の進展にともなって農業人口が10%をきり、ケインズ政策のもとで失業率が減って、完全雇用に達することがみこまれました。そのため、先進国の大きな企業は〈管理された自由貿易体制〉をこえて、国内外において安価で柔軟な労働力を求めるようになりました。
したがって、サミット開催の理由には、〈管理された自由貿易体制〉にかわる自由貿易体制を先進諸国が求めていたこともあげられます。
◆ 南北格差
さいごに、先進国にとって最大の危機だったのは第三世界からの挑戦でした。1960年代後半から、第三世界は南北問題をとりあげ、世界貿易の不平等を是正しようとこころみました。とくに有力だったのは、UNCTAD(国連貿易開発会議)という国連機関を媒介としたこころみでした。数でまさる第三世界はG77を結成し、先進国をつきあげるだけの力をもつようになりました。これに脅威をおぼえた先進国は、国連さえ媒介としなくてよい、先進国だけの私的会合を必要としていたといえます。