サミット前史

サミットは1975年にフランス、ランブイエで第一回が開催され、フランス、アメリカ合州国、イギリス、ドイツ、イタリア、日本の6ヶ国である。カナダは欠席したが翌年からは参加している。以後、ロシアが参加するまで先進国首脳会議は、G7サミットと呼ばれることになる。

なぜ、この時期にサミットが開催されることのなったのだろうか?
サミット開催を誰が目論んだのか、どのような経緯でこの七ヶ国が参加することになったのかについて、公式な文書があるわけではない。しかし、当時の政治経済情勢から、先進国がある種の「結束」を余儀なくされていただろうということは推測できる。端的に言えば、70年代に入って先進国は、冷戦を背景とした第三世界と社会主義ブロックの攻勢で守勢にまわるど同時に、国内にも深刻な政治経済的な危機を抱えていた。1945年の第二次世界大戦終結以降の戦後の資本主義側の世界体制がもっとも深刻な危機に直面していたのがこの時期だった。

戦後体制の変容
戦後の世界体制は、ソ連・東欧の社会主義ブロックと資本主義ブロックの間の「冷戦」体制でもあった。50年代から60年代にかけて、先進国はいわゆる高度成長を享受する一方で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、繰り返される中東やラテンアメリカにおける武力衝突にみられるように、第三世界はいくつもの戦争を経験していた。同時に、50年代から60年代にかけて多くの植民地が多くの犠牲を払いながら独立を勝ち取る時代でもあった。しかし、政治的には独立できた第三世界諸国も、植民地時代に形成された経済的な従属の構造から自立することは必ずしも容易ではなかった。戦後の資本主義経済の世界体制は、国際通貨基金(IMF)世界銀行、関税及び貿易に関する一般協定(GATT、後の世界貿易機関WTO)によって、先進国が主導権を握る構造がすでに作られており、原油に代表される第三世界の資源もその多くが多国籍企業が支配していた。ただし、50年代、60年代の当時が現代と決定的に異なっていたのは、ソ連を中心とする社会主義ブロックがもう一つの強力な体制として存在していた結果として、第三世界諸国にとっては、体制選択の余地があったということである。「後進国」から「先進国」への「進歩」を資本主義として実現するのか、それとも社会主義として実現するのか、という選択である。

バンドン会議、非同盟諸国会議
戦後世界は米ソの二極に収斂する構造をもっていなかった。もう一つの重要な柱が、米ソ冷戦体制に組み込まれることによって再び世界戦争に巻き込まれることを恐れた第三世界諸国のなかから生まれてきた。なかでも1955年にインドネシアのバンドンで開催された第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)には世界人口の過半数を占める29ヵ国の政府代表が参加する大きな会議となった。この会議では「バンドン精神」と呼ばれるようになる領土主権の尊重、相互不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和共存などバンドン10原則が出される。[1]これは「植民地主義、覇権主義、大国中心主義に抵抗する」[2]大きな意義をもっていた。この会議には日本政府も代表を派遣するが米国の干渉もあり「どれだけ真剣に入ろうとしたかはわからない」(前掲、武者小路の発言)といったスタンスだった。このバンドン会議にも現れていた米ソどちらのブロックにも与しない非同盟主義の流れは、さらに60年代に入ると26ヶ国が集まってベオグラード(チェコスロバキア)で開催された非同盟諸国会議[3]として具体化される。(2007年現在で118ヶ国)

1945年に国連に加盟していた国は45ヶ国だったが、56年には80ヶ国、70年には127ヵ国へと急増する。(2007年現在では192ヶ国)[4]このバンドン会議以降、国連はもはや先進国がその政治的な従属国を従えて過半数を獲得できるような国際機関にはならなくなった。国連総会のように一国一票による議決では、第三世界の影響力が強まった。出資比率に応じて投票権を割り当てる(クォータ制度)ブレトンウッズ機関では先進国が主導権を握り続けることことになる結果として、グローバルな経済システムの覇権をめぐって国連とブレトンウッズ機関との間の主導権争いが生まれることになる。

UNCTAD、G77、「資源ナショナリズム」
こうした国連参加国の増加にともなう「数の政治」がもたらした先進国=少数派現象が具体的な先進国の危機としてあらわれたのが、1964年の国連総会で設置された国連の南北問題取り組みのための常設機関、国連貿易開発会議(UNCTAD)(外務省ウエッブ)第一回会議(64年、ジュネーブ)に登場したG77と呼ばれる第三世界諸国77ヶ国の存在である。このG77と呼ばれるグループ(その後、70年代には120ヶ国にまで拡大する)は、74年から75年にかけて国連の資源総会、世界人口会議、世界食糧会議、IMF総会、国連経済総会などで第三世界の利害を代表して統一した行動をとり、「資源ナショナリズムの中心部隊」[5]とみなされる存在となる。またこのG77からさらに開発金融問題などを扱うG24と呼ばれる第三世界諸国のグループが1971年に結成されるなど、第三世界諸国が相互に連携して先進国支配からの離脱を国連の場を通じて展開する動きが70年代には活発になる。

このような第三世界諸国の結束に対して、先進国側にはこれに対抗するような国家間の集合は、NATOのような軍事同盟を別にして、経済に関するある種の同盟的な機能を果たす機関は存在しなかった。むしろ先進国は軍事的な同盟とは裏腹に経済的には相互に市場を奪い合う競争相手であった。サミットは、まさにこうした第三世界諸国と社会主義ブロックによる先進国が主導権を握る資本主義ブロックへの挑戦のなかで、経済をめぐる帝国主義諸国の世界市場争奪を帝国主義戦争に転化しないための初めての対抗手段だった。

先進国は数の上で少数派となっただけでなく、政治的経済的な覇権を握るだけの力そのものが大きく揺らいだのも60年代から70年代にかけての時期だった。とくにベトナム戦争の泥沼化のなかで、71年に米国ニクソン政権にょるドルと金との交換停止をはじめとする一連のドル防衛策は、ドルを基軸通貨としてシステム設計されていた戦後の資本主義世界体制の根底を覆しかねない危機として捉えられた。そして73年の第四次中東戦争の開始とともに、石油輸出国機構(OPEC)が原油価格の70%引き上げ、対米原油輸出停止、イスラエル支援国家への供給削減を決定し、いわゆる「第一次石油危機」が先進国を襲うことになる。[6]こうして原油市場の主導権は植民地時代から一貫して先進国(植民地宗主国)が握っていたのだが、この時期にその権力関係が大きく逆転した。同様のことは他の資源にも及び、いわゆる「資源ナショナリズム」とよばれる動き明確になる。

先進国国内の大衆反乱
他方で、先進国は国内にも大きな矛盾と社会的な問題を抱えていた。それは、経済的な「豊さ」によっては飼い慣らせない大衆の大きな反乱である。60年代は先進諸国内部に新たな反体制運動や異議申し立て運動が生まれた時代でもあった。米国では人種差別に反対する公民権運動とベトナム反戦運動、女性解放運動など一連の多様な社会運動が生まれた。欧州においても、68年のパリ5月革命、69年イタリアの「暑い秋」など若者の反乱が続く。日本も例外ではなく、60年安保闘争から60年代末の全共闘運動や反戦青年委員会などが登場する。先進各国は、既成左翼組織に加えてこうした新しい社会運動が提起した資本主義的な「豊さ」の神話への拒否に的確に対応できなかった。

サミットは危機管理のための先進国ブロック
70年代はこうした国内の大きな亀裂をかかえながら、先にも述べたように、ドル危機、石油危機、インドシナ半島の社会主義化、国連における主導権の後退といった国際関係における複合的な危機にたいする先進国からの反撃のための国境を越えた体制作りの一環だといえる。

多国籍企業と先進国首脳が集まることで知られている世界経済フォーラム(ダボス会議)もその創設は1971年である。まさに欧州がその内部に大きな危機を抱えていた時期に発足したこのフォーラムは、資本家の側からのグローバルな危機への対抗ネットワーク作りであったとすれば、サミットはそれを政府の側から試みるものだったといってもいいだろう。毎年1月に開かれるダボス会議とほぼその半年後に開かれるサミットは、いわば車の両輪のような存在であって、資本の投資の自由を確保することと先進国の利害を擁護するグローバルな体制の維持とこうした体制を脅かすさまざまな脅威を排除するための非公式だが実効性をもつ危機管理システムとして今現在に至るまで世界60億人の人々の不幸の源泉となってきたのである。(小倉利丸)

[1]柳沢英二郎、加藤正男、細井保『危機の国際政治史』、亜紀書房、1993年
[2]武者小路公秀、「民衆による反植民地主義をめざして」、越田清和との対談、『インパクション』148号、2005年
[3]非同盟諸国会議の公式サイトは存在しないようだが、下記のサイトに最新の動向が掲載さえている。
http://canada.cubanoal.cu/ingles/index.html
以下のwikiも参考になる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Non-Aligned_Movement
[4]国連広報センターの加盟国一覧を参照。
http://www.unic.or.jp/know/listm.htm
[5]古野雅美「南北問題の基本用語」、『経済セミナー』増刊号、「今日の南北問題」、1976年。
[6]前掲、柳沢他著、p.294。