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70年代のサミット経済サミットとして始まった理由 70年代の先進国首脳会談が他のさまざまな課題のなかでもとりわけ「経済」に焦点をあてた理由ははっきりしている。それは、つぎのような要因が複合的に絡み合っていた。 これに対してサミットが求めた経済的な安定とは、資源市場の価格決定権の奪回、第三世界の市場開放、国内の労働運動の抑え込み、経済システムの側からの社会主義封じ込め戦略である。インフレ問題の責任を第三世界の資源ナショナリズムと国内労働運動に転嫁し、他方で自由貿易を自由と民主主義の経済的な土台であると主張することによって市場開放の要求を正当化しようというものだった。そしてとりわけ第三世界諸国がグローバルな経済ガバナンス構築の舞台として国連総会およびその傘下にある国連専門機関を通じて先進国支配に挑戦してきたのに対して、先進国側は、サミットを通じて国連の経済機能を奪い、ブレトンウッズ機関によるる経済ガバナンスの確立を目指すという目的をもっていたといっていい。この筋書きは大筋で現在に至るまでその基本線は崩れていない。 サミットが経済的危機への対応として出発したことから七〇年代のサミットの議題は、国内不況の回復を先進国の共同作業として実現しようとするものだといえた。当時の日本もまた石油危機とドルの変動相場制移行による影響によって円高と石油依存の産業構造の打撃によって、インフレと景気後退が同時に生じるスタグフレーションに陥っていた。 サミット諸国内部の対立 先進国はこうした争点を巧みにかわしながら、共通の「敵」を第三世界の「保護主義」と社会主義圏に照準を合わせて共同戦線をはった。とりわけ国連総会の下に置かれた国連貿易開発会議(UNCTAD)を足がかりとしてG77など第三世界諸国が提起する先進国と途上国の所得分配それ自体の修正をせまる「新経済秩序」への対抗としての先進国の共同戦線作りがサミットの事実上の役割だった。 サミット宣言の読み方 サミットを「理解」するうえで大切なことは以下の点である。 サミットで出された「ランブイエ宣言」は、冒頭で参加国が共通に有している理念に言及している。 我々がここに集うこととなったのは、共通の信念と責任とを分ち合っているからである。我々は、各々個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的かつ民主的な社会の政府に責任を有する。そして、我々がこれに成功することは、あらゆる地域の民主主義社会を強化し、かつ、これらの社会にとり真に緊要である。我々は、それぞれ、主要工業経済の繁栄を確保する責任を有する。我々の経済の成長と安定は、工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長することとなる。[1] ここに述べられている「個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的かつ民主的な社会の政府」とか「あらゆる地域の民主主義社会を強化し」といった文言は、社会主義ブロックを意識して資本主義ブロックを指す場合のメタファであって、資本主義ブロックの擁護・防衛を宣言している。いうまでもなく、資本主義ブロックに自由と民主主義が文字通り存在するというわけではなく、みずからの体制を正当化する際のイデオロギー的な言い回しである。さらにその後に述べられている「主要工業経済の繁栄を確保する責任」とは、先進諸国を指し、「我々の経済の成長と安定は、工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長する」とは、いうまでもなく先進国の成長と安定と第三世界諸国の繁栄が一蓮托生であるという自己中心的な理解が示されている。 もうひとつ、ランブイエ宣言のなかの自由貿易を主張する部分をみてみよう。
「国内的回復及び経済の拡大の進行に伴い、我々は、世界貿易の量的増大の回復に努力しなければならない」とは、先進国が国内の景気を回復するには、世界の貿易が拡大しなければならない、言い換えれば、この世界貿易の拡大を阻害する要因を排除しなければならないと論じている。貿易の拡大は「開放された貿易体制」の維持、促進であるという。国際競争力で優位にたつ先進国は第三世界の保護主義を撤廃させることによって自国資本の市場の拡大を意図していることが露骨に表明されている。では、「他国の犠牲において自国の問題の解決をはかり得るような措置に訴えること」とは、何を指しているのだろうか。「他国の犠牲」と述べられているが、これは「自由貿易を推進しようとする諸国に対して保護主義を採用することは、自由貿易諸国の利益を害することだ」という意味であり、さらに具体的にいえば「保護主義的に原油などの資源価格をつり上げることは、先進国に犠牲を強いることだ」という意味に他ならない。そして「国際収支において強い立場にある諸国及び経常収支上の赤字国は、互恵的世界貿易の拡大のための政策を推進する責任を有する」とは、貿易赤字国はより一層の貿易拡大が必要であり、貿易黒字国は自国の国内市場をこうした赤字国に快方することが必要だと言っているわけであって、要するに市場開放を主張するものだ。 ここでは意図的に UNCTADへの言及が避けられているが、基本的な立場は、国連の経済機能強化を暗黙のうちに拒否して出資比率で議決権が配分されるブレトンウッズ機関を通じた世界経済の再編に全面的に支持を与えることなのである。 日本のスタンス 当時の首相三木武夫は、日本のサミット参加をアジアの代表としての参加と位置づけ、先進国日本を印象づける日本国内向けの宣伝を行う。三木はサミットで「これからの世界最大の課題は南北の格差の是正」であり、このことは「アジアにとって、最も緊急な問題」だと述べたと報じられているが[3]、『日本経済新聞』すらその社説で「発展途上国ないし第三世界の求める新国際経済秩序への『改革』には、予想以上に冷淡」と報じたように、先進国はこのサミットを足がかりとして新国際経済秩序を潰すための統一戦線の構築に着手することに成功し、日本もこれに予想を上回って加担する。ランブイエ宣言では新国際経済秩序(NIEO)には一言も言及しないことによって、その改革路線を否定した。NIEOは「全国家間の平等の基礎の上にたった完全かつ効果的な参加」原則に基づく国際経済機関の改革を主張し「国際通貨基金は開発途上国が意思決定過程に効果的に参加できることを確実にするために関連規定を見直すべきである」[4]といったガバナンスの改革を無視したことを意味している。むしろ「われわれの経済の持続的成長は発展途上国の成長にとってもなくてはならないもの」という枠組を利害の対立する先進国が合意したことによって「世界経済が縮小均衡という"ジリ貧"に陥ることに区切りをつけた」[5]という評価に落ち着くものだった。 他方で、当時の社会党はサミットが途上国に対決し社会主義国との緊張緩和に逆行する「新たな政治経済同盟」だと批判し、行き詰まった大企業救済作でありアジアの代表を僭称することは大国主義であってアジア諸国の不信と批判を買うと厳しく批判した。(『日経』、75年11月18日。)しかし、「この会議が資本主義世界の経済危機に対応するアメリカ主導の体制擁護の会議であった」という評価は正しくない。むしろ会議はフランス主導で開催され、米仏の妥協と調整がはかられたということである。経済システムとしては、米国は欧州諸国と日本を不可欠なパートナーとして必要とするようになったということであり、それは欧州諸国にとっても日本にとっても同様であった。日本がそのなかで資本主義の国際的な体制に対して主体的に責任をもって関与することになったという点を軽視してはならないのである。 いずれにせよ、70年代のサミットにおける日本の存在感は極めて薄い。むしろサミットが政治化しはじめる80年代以降、日本は日米同盟の一方のパートナーとして米国にとって不可欠な脇役としての役回りを演じるようになる。 [1]http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/rambouillet75/j01_a.html 関連サイト |
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