新自由主義の始まりと違憲外交の場となったサミット
政治化するサミット
経済サミットとしてはじまった先進国サミットも80年代に入り、米ソ冷戦の対立が深刻になるにつれて、政治や安全保障の重要な討議の場へと変質してきた。80年代は、いくつかの大きな特徴をもつ時代だ。国内的には新自由主義が大きな潮流となり、レーガン、サッチャー、中曽根という保守・右派政権がサミットの主導権を握り、同じことがIMFや世銀による第三世界諸国への構造調整政策の押し付けとして、深刻な債務問題をもたらしていた。他方で、冷戦体制に大きな変動が生じる。東側諸国は国内に民主化や反体制運動の昂揚をみる一方で、ソ連のアフガン侵略にみられるような新たな武力紛争が生まれる。他方で、イランでは1979年にホメイニによるイスラム復古革命が成功し、イラン・イラク戦争が80年代後半までつづく。米国は、アフガンではタリバンを支援し、イラン・イラク戦争ではフセインのイラクを支援する。中東地域における民衆の解放闘争の主軸が左翼政治・軍事組織からイスラム革命勢力へと移動し始め、「テロリズム」の様相も徐々に変化する時期でもある。
こうした政治経済の問題に加えて、86年にはチェルノブイリ原発事故が発生し、また国連では開発と環境問題が議論になるにつれてサミットにおいても環境問題が議題として浮上するようになる。こうして、サミットは多様な課題に対応する必要に迫られるようになる。東西冷戦という枠組が徐々に揺らぎ、現在につらなうような、貧困と債務、宗教原理主義とナショナリズム、紛争の多様化が表面化し、サミットはますます政治化することになる。
1983年のウィリアムズバーグ・サミットはレーガン、サッチャー、中曽根の右派政権がそろい踏みした最初のサミットとなった。このサミットで出された「経済宣言」では、「小さな政府」が強調されるなかで拡予算の強化が主張され、貿易の自由化が主張される一方で社会主義圏との貿易規制強化や自国産業保護の主張が目立ち、市場開放・規制緩和と民営化が積極的に打ち出されるなど、その後の新自由主義と呼ばれるようになる政策の基本的な骨格がはっきりと示された。
このような新自由主義的な宣言の基本的な方向性が80年代の日本に与えた影響ははかり知れない。市場開放・規制緩和・民営化は、国鉄や電電公社の民営化、派遣業法改悪などの労働市場の規制緩和、ビッグバンなどと呼ばれた金融規制緩和、そして牛肉・オレンジなど農産物輸入規制撤廃の圧力として次々に日本の市場と経済システムの解体的な再編が進められた。中曽根は愛国主義者を標榜する一方で、日本の市場を米国や外国の多国籍資本に売り渡してきた、そしてアジア諸国の市場開放圧力の尖兵となることのよって、この自由化と規制緩和のツケをさらにアジアに回すという経済帝国主義の役割をになった。
集団安全保障に巻き込まれる日本
ウィリアムズバーグでは「安全保障に関する宣言」(外務省訳では単に「ウィリアムズバーグにおけるステートメント」とされている)が出される。この政治宣言の冒頭はつぎのような文言ではじめられている。
サミット参加7ヵ国の指導者として、我々の民主主義の基盤となっている自由と正義を守ることが、我々の第一の任務である。この目的のために我々は、いかなる攻撃をも抑制し、いかなる脅威にも対抗し、更に平和を確保するために十分な軍事力を維持する。我々の軍備は侵略に対抗する以外には決して使用されないであろう。
この宣言の主語は「われわれ」ではじまっていること、そしていうまでもなくこの「われわれ」には日本も含まれているということを見逃すわけにはいかない。とりわけ後段では「平和を維持するために十分な軍事力を維持する」とあり、さらに「我々の軍備は」で始まる文が最後を締めくくる。「我々の軍備は侵略に対抗する以外には決して使用されない」という言い回しは、政府が主張する自衛のための武力行使を指しているのだとして憲法には抵触しないという解釈がなりたつように見える。しかし、国際法上自衛のための武力行使以外の武力行使は原則禁じられているのであって、それでもなおかつサミット参加諸国は明らかに日本とは異なる憲法上の位置づけを与えられた軍隊をもち、集団的な自衛権を校正いているNATO諸国と同じテーブルで安全保障に関して討議することがなぜゆるされるのだろうか。
この83年のステートメントにはさらに次のような欧州の中距離核ミサイル(INF)配備をめぐる問題への立ち入った言及がある。
サミット参加国は、均衡のとれたINF合意が近く達成されるよう強い希望を表明する。これが実現される場合には、配備の水準は交渉によって決められることになろう。もしこれが実現されない場合には、良く知られている通り関係諸国は当該米国兵器体系の欧州配備を計画通り1983年末には実施するであろう。
ソ連との軍縮交渉の過程で、納得のいく譲歩がソ連から得られない場合、米国はソ連への圧力として中距離核ミサイルの欧州配備という力による脅しを表明している。この文言には二つの問題がある。ひとつは、日本が欧州の安全保障に他のサミット諸国と同列にあるということである。第二に、非核三原則を掲げている日本が、核兵器の欧州への持ち込みを支持したということである。非核三原則は日本への核持ち込みに限定した原則であるとしても、外交上の理念からいえば、日本に持ち込んでいけない核兵器を他国なら持ち込んでも構わないという理屈は成り立たない。少なくとも外交上の立場として、核の持ち込みを積極的に支持するなどということはあるべきではないことは言うまでもない。
欧州への米核ミサイル持ち込みについての日本の関わりは、もっとストレートなものだった。中曽根首相はサミットにおけるサッチャー英首相との会談で次のように語った。
米中距離ミサイルの欧州年内配備を断行することだ。そうすればソ連は一時的には交渉から引き揚げ、緊張が高まろうが、ソ連は戻ってくる。そういうやり方をしないとソ連は交渉に乗ってこないのではないか」(『日経』、83年5月30日)
中曽根は、ソ連を挑発するかのように米国の欧州核配備を積極的に支持する発言をしている。憲法9条によって軍事力をもつことを禁じられている日本政府が、「軍事力」の保有を積極的に肯定する宣言の主体となることは憲法に抵触するのではないだろうか。さらにサミットのステートメントには次のような文言まで盛り込まれている。
サミット参加国は、軍備削減に向けての努力において結束しており、引続き徹底した緊密な協議を続けるであろう。我々サミット参加国の安全は不可分であり、グローバルな観点から取り組まなければならない。
サミット参加諸国の「安全は不可分」であるというこの文言は、これら諸国の集団的な自衛権を主張していると解釈されたとしても致し方ない踏み込んだ表現である。NATO諸国はこれで何ら構わないだろうが、日本はそうはいかないはずだ。
サミットが議題にする安全保障問題は、グローバルな戦争や軍事戦略に関わる。結果的にサミットは事実上、参加諸国の集団的な安全保障と自衛権行使について非公式に論じる枠組みとならざるをえない宿命を背負っている。日本政府はこのことを承知のうえで、サミットにおける安全保障の議論に参加してきた。その結果が90年代以降、湾岸戦争からアフガン=イラクからグローバルに拡大する「対テロ戦争」のなかでずるずると歯止めなく自衛隊を海外派兵する体制へと引きずり込まれる現状を招いたともいえる。この意味で、サミットの安全保障の議題への関与が、憲法9条に抵触することは明らかであって、この一点をとっても、日本がサミットに参加するこのそれ自体が違憲外交であることを私たちはもっと強く主張すべきであろう。
イデオロギーの突出
レーガン、サッチャー、中曽根の時代のサミットは新自由主義と軍拡とともに、西側のイデオロギーを積極的に打ち出す、ある種のイデオロギー重視のサミットの時代でもあった。これは、新自由主義が復古主義であったり自国中心の価値観を頑なに主張するナショナリズムを伴っていたことが、サミットの場でもはっきり現れたものだといえる。84年のロンドンサミットでは「民主主義の諸価値に関する宣言」という価値観だけを取り上げた宣言が出される。この宣言ではたとえば、次のようなことがうたわれている。
我々は、次のことを信ずる。我々民主主義国の政治的及び経済的体制においては、最大限の選択の幅と自由、及び個人の創意が存在し、社会主義、義務及び権利の理想が追求され、活発な企業活動が行われるとともに、すべての人々に対し雇用の機会がもたらされ、すべての人々が成長の利益を分ち合う平等の機会を有し、かつ苦境ないし貧困状態にある人々に対して支援が与えられ、技術革新、想像力及び科学的発見の成果によりすべての人々の生活が豊かになり、そして通貨の健全性に対する信頼が存在することが出来るような条件づくりをすることは、政府の任務である。
ここにうたわれているような自由や平等がサミット諸国の現実であるはずもない。あまりに現実離れした理想の宣伝であって、まさに「イデオロギー」の典型といえるような文書がなぜ首脳会談という現実主義に支配されている外交の場に持ち出されたのだろうか。その理由は、冒頭にも述べたように、イスラムの影響力の増大と社会主義ブロックの危機のなかで、資本主義の価値の普遍性を強調することによって、資本主義の自由と民主主義を防衛するための力の行使を正当化することにあったといえよう。事実80年代を通じて何度か出される「東西関係に関する宣言」は、自由と民主主義という資本主義ブロックのイデオロギーの主張とソ連のアフガンからの撤退要求とがいわばセットになって主張されるという構図が繰り返される。
社会主義ブロック解体とサミットの役割
80年代のサミットのもう一つの重要な特徴は、ソ連・東欧の民主化や反体制運動を見据えながら、この東側の体制的危機を東側体制の資本主義への統合の好機とみなして介入する方針をとってきたところにある。
80年代の東側内部の民衆よる反体制運動は、反社会主義=資本主義への体制変革運動に集約されるものではなかった。ソルジェニーツィンのような復古主義的な主張からポーランドの連帯労組による労働者の自主管理運動、さらにはトロツキズムやアナキズムの主張など、体制への批判のスタンスは多様であった。なかでも、社会主義のオルタナティブを模索するポーランドの連帯労組の運動は、西側の労働運動や民衆運動にも大きな影響を与え、既存の資本主義や社会主義の体制的な枠組にかわる新しい労働者を主体とした社会の構築の可能性に、体制の東西を問わず、反体制運動をになう多くの民衆からの支持を得ていた。しかし、社会主義体制の危機が深化するなかで、資本主義と市場経済こそが自由と民主主義を実現する体制であるといった宣伝が西側から積極的に打ち出されるようになる。
80年代末になって、連帯労組の運動が行き詰まり、社会主義のオルタナティブではなく、むしろ資本主義への体制転換の見通しがつくころになるとサミットは積極的に体制転換を促すような宣言を出すようになる。89年のアルシュサミットでは次のような「東西関係に関する宣言」が出される。
我々は、ポーランドとハンガリーで進められている改革の過程を歓迎する。我々は、これら両国において起きている政治的変革が経済的発展なくしては持続し難いものと考える。我々各自は、この過程を支援し、両国の経済を後戻りしない形で変化させ開放させることを目指した経済的支援を適宜かつ調整した形で考慮する用意がある。
同様に、中国天安門事件についても、この民主化運動がもっていた多様な主張や体制批判の文脈を無視して、社会主義を否定し資本主義への体制転換を要求する運動としての側面を積極的に支持する声明を出す。サミット諸国は「中国における人権を無視した激しい抑圧を非難」するとともに、こうした民主化運動を「政治、経済改革と開放へ向けての動きを再開すること」への要求に結びつけたのである。
冷戦末期のサミットは、社会主義ブロックの危機を見据えて、資本主義を美化する宣伝戦の場となった。市場開放、貿易自由化の絶好のチャンスとして、東側の民衆による改革を利用し、現存する資本主義も社会主義に対する民衆によるオルタナティブの芽を摘むことに加担した。(小倉利丸)
ウィリアムズバーグサミット(1983年)
ウイリアムズバーグにおけるステートメント(安全保障に関する宣言)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/williamsburg83/j09_b.html
ロンドンサミット
民主主義の諸価値に関する宣言
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/london84/j10_b.html
アルシュサミット
東西関係に関する宣言
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/arch89/j15_c.html
中国に関する宣言
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/arch89/j15_e.html
(付記)この時期のサミットでもっとも重要な問題である第三世界諸国の債務問題について言及していませんが、追って加筆します。