■[ACT新聞社の紹介] |
中村哲医師が語ったアフガニスタン |
「米英軍の空爆被害」 「北部同盟のカブール進駐以降」 「タリバン政権にかんする報道への疑問」 |
アフガンで今、何が…
「終わりの始まり」がやってきた
アフガニスタンとの国境に近いパキスタンのペシャワールやアフガニスタン国内で18年間医療活動に従事し、一昨年からの大干ばつで飢餓に瀕する国内避難民への食糧支援もはじめているペシャワール会・中村哲さんの講演会が、11月、東京都内でおこなわれた。千数百人もの人びとで会場が埋め尽くされたこの講演会で、中村さんは、米英軍による空爆被害の実態やタリバンに代わって北部同盟が進駐したカブールでタリバンやその協力者と疑われた人が虐殺されている様子を現地スタッフの情報をもとに語った。(文責・構成:清水直子)
【※おことわり この文章は、11月17日・社会文化会館でおこなわれた中村哲さんの講演会で話された内容を一人でも多くの方に知っていただくことを願って、お話の一部をまとめたものです。文責は、編集部の清水直子にあり、この文章について講演会の実行委員会、および中村哲さんが責任を負うものではありません(お問い合わせはACT新聞社act@jca.apc.orgまでお願いいたします。講演主催者への問い合わせはご遠慮ください)。
また、当日のお話の一字一句を厳密に再現したものではないことをご理解いただき、引用については、ACT新聞社のWebサイトのアドレスと編集部に文責があることを明記したうえで、参考程度にとどめてください(そのさいも、事前にメールなどでご連絡いただければ幸いです。
ここに書きましたのはお話のなかのほんの一部分です。ぜひ、中村さんの講演会に足を運んでいただいて、直にお話をお聞きいただくか、中村さんの御著書『医者 井戸を掘る』『医は国境を越えて』(ともに石風社)などをお読みになってみてください。ペシャワール会の活動やいのちの基金についてのお問い合わせは、直接ペシャワール会へお願いいたします。詳しくは同会のWebサイト http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/ をご覧ください】
100万人餓死の現実
一昨年、アフガニスタンは大干ばつに見舞われていて、2000年5月のWHO(世界保健機構)は、中央アジア全体(パキスタン、イラン、イラク北部、中国西部、インド北部、モンゴル)で6000万人が被災する、という発表をした。そのなかでもっとも被害がひどいのがアフガニスタンで、1200万人が被災して、400万人が飢餓線上にあり、100万人は餓死するだろうと繰り返し警告しました。 しかし、88年にソ連が撤退した後のアフガン難民の帰還のときはあれだけ騒がれ、NGOの支援が押し寄せたのに、今度は世界的な関心をよばなかったのです。
アフガニスタンの農業は、ヒンズークシュ山脈の雪解け水に頼っていますが、干ばつでカブール川が干上がってしまい、農業用水だけではなく、飲料水となる井戸水も枯れ果てました。家畜が死に、病気が蔓延しました。診療所には、子どもを抱いた若いお母さんの姿が圧倒的に増えました。なかには、何日もかけて診療所にたどり着いても、子どもが弱って、外来で待っている間に体が冷えていくという光景がいたるところでみられました。
餓死線上といってもお腹がすいてばったり倒れるのではなく、末期は体が弱って病死するのです。こういった病死を含めると100万人が餓死したというのは、決して誇張ではありません。家畜が死ぬと農業ができませんから、農民が次々と村を捨て、廃村が広がりました。食べ物がないだけなら人間は何週間かは生きられますが、水がないと24時間しかもちません。医者がこんなことを言うのは不謹慎ですが、病気どころではない、病気は後で治せるからまず生きて村に残っておってくれと、診療所の周りから始めてアフガニスタン東部一帯に飲料水を確保する事業を展開しました。
農民たちは村を空けて、国内避難民となって続々と大都市に逃れました。つてのある者は、大都市からさらにパキスタンに逃れるという状態が、一年前から続いていました。われわれは、診療所の周辺から、村人に呼びかけて総動員で水源確保プロジェクトを次々展開しました。私たちの診療所があるジャララバードはアフガニスタンのなかでも肥沃な穀倉地帯で、ここが壊滅するとアフガニスタンにとって致命的な状態になります。しかも、ここから国内避難民を大量に出してしまうと、西の方からやってくる避難民を受け入れるキャパシティがなくなって、大量の難民がパキスタン側に流出することが予想されました。そこで、ジャララバード周辺の干ばつ地帯でも、作業員700人で、大至急水源確保事業を始めました。
数ヵ月間水が出なかったために遠くまで水をくみに行っていた地域で、カレーズという地下水を外に導き出す農業用水の水路の修復を36本手がけ、そのうち30本で水が出て、そのために、砂漠化していた地域で緑の麦畑が復活するという奇跡的なことが起きました。そのため、一万数千人が村に戻ってきました。私は人に褒めてもらいたいと思ったことは一度もありませんが、砂漠地帯が小麦の緑で埋まったときだけは神様に褒めてもらいたい、と思いました。
米軍の爆撃が始まる直前まで、井戸掘りなど水源確保事業の作業地が660ヵ所あり、そのうち500数十カ所で水源を得て、約30万人が村を捨てずに残れるようになりました。年内にそれを1000ヵ所に拡大するお膳立てをした直後に、米軍の報復爆撃が始まりました。
私たちは、大干ばつで100万人も餓死するという大惨事が起きているのだから、世界的な関心をひかないはずはない、10年前の援助ラッシュを考えると、われわれよりもはるかに強力な外国勢が入ってくるだろう、それまで頑張っていようと思っていたのですが、援助どころか、やってきたのは制裁でした。
今年の1月、国連制裁が正式に発動されて、なんと初めのうちはあの大飢饉のなか100万人が死ぬという国の食糧まで制限しようとしていたのです。日本も制裁に賛成する投票をしました。その後、(タリバンによるバーミヤンの)仏石破壊問題が起きましたが、現地はそれどころではなかったのです。そういった報道はほとんどされませんでした。
その後の地球環境会議、それから京都議定書があって、日本は自分で作った京都議定書を蹴りました。CO2と温暖化が直接どの程度関係があるのかは私は知りませんが、国際社会はアフガニスタンの悲惨な状態に、ほとんど関心を示しませんでした。
もういい、外国の援助を諦めて、われわれだけでも頑張ることにしました。国連制裁の後、次々と外国団体が撤退しました。タリバンは悪いやつで何をしでかすかわからないと、外国人はほとんどもぬけの空になりました。
それまでわれわれの診療の中心は山岳地帯でしたが、信じがたいことに100万都市のカブールに赤十字の病院を除いてほとんど医療機関がない、という状態になりました。ペシャワール会は、無医地区に等しい状態のカブールに5カ所の診療所を3月に開設し、干ばつによって村を捨て親戚を頼ってやってきた貧しい国内避難民の救済にあたりました。五カ所では足りない、10カ所にくらい増やせというお膳立てをして、私がカブールに行ったのが9月9日でした。9月11日のテロ事件を聞いたのが、その直後でした。カブール市内の5ヵ所の診療所は現在も運営されていますが、10カ所に増やすゆとりがなくなりました。
米国追従報道への疑問
私が、最近ニュースの映像を見てばかばかしくなるのは、「北部同盟が進駐して自由になった。街には野菜があふれ、ショーウィンドには綺麗なドレスが飾られるようになった」と伝えられることで、とんでもない。私が行った当時から飾られておりまして、本当に報道を信じている人がいたら恐ろしいなと思いました。
タリバンの規制はかなり緩んでおりまして、タリバンのなかにもこっそり恋人か奥さんを連れてハイヒールを買いに行く姿が見られ、道に露店がずらりと並んで野菜も豊富に出回っていました。購買力はありませんでしたが、日本製の象印の魔法瓶もテレビもありました。(タリバンが)テレビを禁止したところで、元々テレビを買える人などそうはいないのです。電気がある地域は、アフガニスタンではわずか2〜3%程度です。
タリバンの司令官自身が夜中にこっそりテレビを見ているということもあって、私は、国連の制裁さえ止めば、もっと自由なアフガニスタンになるとみていました。国家統一は、アフガニスタンの人たちの悲願で、みんなはブツブツつぶやきながらも、おおむねタリバンによる秩序を歓迎していたという事実がありました。
いろいろな報道を見ると、世界中のメディアが、正義の味方米国対悪の権化タリバンという筋に沿って報道をしている。こんなフィクションがあり得るのだろうかと思います。私がこう言うと、「先生はタリバン派ですか」なんて人がいますが、決してそうではない。私は、タリバンよりも古いのです。ペシャワール会は、タリバンよりも古くから現地で活動しています。
共産政権が倒れた後、タリバン進駐以前のカブールは、北部のマスード軍閥、タジク軍閥、ドスタム軍閥、ハザラ軍閥が入り乱れて市街戦を繰り広げていた。乱暴、狼藉、婦女暴行、略奪、強盗が日常茶飯事でした。彼らがいた92年からタリバンが来る96年までのわずか4年の間に、死んだ市民は五万人以上。タリバンは世界的に評判が悪かったけれども、実は、普通の暮らしを求める民衆にとっては、多少の窮屈な宗教政策さえ我慢すれば平和に暮らすことができた。これはかけがえのないことでした。
実際タリバンがいた地域は秩序がよく保たれていました。今、カーブル市民がどういう気持ちでいるか、だいたい想像ができます。世界中のメディアは、フィクションの図式に従う報道をし、あの大干ばつで飢餓に貧する国に、爆撃が始まりました。
このままでは、カブール市民百数十万人のうち、1割にあたる10数万人は生きてこの冬を越せないと、私たちは予想していましたので、いのちの基金を呼びかけて食糧配給事業を始めました。
さらにジャララバード周辺の空爆の被災地で、米軍発表と現地の実情はぜんぜん違います。ジャララバードを中心とするアフガニスタンの東部地域は我々の庭のように分かっていますから、どこに軍事基地があったかもだいたい想像がつきます。しかし空爆でやられたのはほとんど関係のない村で、職員の報告によるとジャララバードだけで二百数十人が死亡し、重傷を負いその後死亡した人も入れると500人くらいになるでしょう。
小麦の配給事業については、われわれの医療職員47人がカブールで働き、30人をペシャワールからジャララバードに送って食糧配給にあたらせていました。現在1400トンがアフガニスタン国内に運び込んであり、うち987トンがカブールで配ら、57トンがジャララバード周辺の被災民に配られました。さらに3千数百トンを買い付けて送る準備をしていたところに、カブール陥落となりました。3日前にタリバンの軍勢が一晩でカブールから消えてしまいました。 私たちの食糧配給グループは、北部同盟が来るギリギリまで配給事業を続けていて、カブールからジャララバード、ペシャワールへ行く道を封鎖する1時間前にそこを通過して、命からがら全員ペシャワールに到着しました。
彼らの証言によると、タリバン及びタリバンの協力者と見られる人が次々と虐殺されています。協力者ではなくてもその疑いがあるというだけでパシュトゥン民族が次々と殺害されている光景を目撃しています。ある地域には、額に五寸釘が打ち込まれた首が、300並べられたり、カブールの3割から4割にあたるパシュトゥ系の民族が虐殺をおそれて東のジャラララバードへ移動しているのが事実のようです。職員の報告では数千人ですが、気が動転していて多く見積もっているでしょうから、少なくとも数百人が、殺されて路上に並べられているでしょう。
私は、日本のメディアで流される報道よりも、現地の人々の報告を信じます。なぜ、(カブールにあった)カタールの放送局が爆撃されて消滅したのか。何かの情報操作がおこなわれているとしか思えません。
カブール市民が解放軍を迎えたというのはとてつもないフィクションです。かつて日本軍が中国に攻め入ったときに、南京でも徐州でもそれぞれの地域の住民は急ごしらえの日の丸の旗を振って迎えました。自分がいじめられないためです。 私は、進行している事態はもう少し気を付けてみないととんでもない誤解を生むことになると思っています。
事態を決定するのは皆さん自身
私たちの18年の活動を振り返って思うのは、子どもたちの笑顔です。暗いなかにあっても生き生きしている。この子たちは栄養失調で、カブール市の飢餓状態のまっただなかにいてもニコニコと明るい。日本に帰ってくると、日本人の方が暗い顔をしている。持てば持つほど、人間の顔は暗くなってくる。今、武力を振りかざして、あんな弱り果てた最貧国に世界中の強い国が寄ってたかって何を守ろうとするのか。
持っているから、何かを失いたくないからああやって手をあげているのでしょう。何も持たない人の楽天性は確かにあります。私たちが活動を通じて思うことは、自分たちは助けるつもりで現地に向かったけれども、本当はそれによって私たちが得たものが多いのではないかということです。
9月に私が日本へ帰ってくると、日本中全体が熱にうかされているようです。私はずっと同じことを言っているのに、「先生の発言は政治的だ」と言う人がいますが、とんでもない。日本中が政治的になっているのです。漫画の読み過ぎのようで、『宇宙戦士ガンダム』のように、現地の戦略が語られる。おまけに日本の軍隊が出ていく。これはいったい何だろう。ということを国会で言いましたら、その発言を取り消せと失礼なことを言うのです。
少なくとも作られたフィクションから自由であることは、ひとつの恵みであると思います。さらに、現地に根付いている人間らしい、憎しみや悲しみを含めて、コンピュータの画像の世界ではなく、そこに人々が息づいている世界のなかで、かろうじて人間性を保つことができたことを非常に感謝しています。
今も日本がどうするかという分かれ目にあると思います。いま進行しているこの事態を決定するのは皆さん自身です。まずは、この事態をどういう目で見るか。世界中が熱にうかされたような状態でアフガニスタン情勢が語られています。あまりにもアフガニスタンについての情報が少ない。一介の田舎医者がこんなところに来て話をしなければならないほど情報が少ないなかで、一つの国家が軍隊を動かす、動かさないという大変なことを簡単に決められる世の中になっていることに恐ろしいものを感じます。
アフガニスタンの問題は、あらゆる意味で終わりの始まりだと確信いたします。今後どういう世界がくるのか。アフガニスタンは、本当に人間が失ってはいけないもの、本当に人間が失ってもいいものを見分けるヒントを私たちに与えてくれたし、今後も与えてくれるものと思っています。
(平和使節団というかたちでタリバンへ対話の場を作ることは可能か、という会場からの質問に答えて)国連制裁以前なら十分可能だった。国際社会の無関心によって、黙殺されて不可能になったというのが偽らざる現実です。事態はもう遅すぎます。タリバン政権の権力自体が事実上消滅しました。
継続的な活動によって支援物資を必要な人たちのところへ届けることができる態勢を持つ同会へは、1ヵ月でおよそ3億円の寄付が集まった。
11月13日に北部同盟がカブールへ進駐したが、「いかなる権力交代、政情変化があっても、私たちの基本的方針はいささかも変わらぬことを言明致します。この18年間、さまざまな闘争や権力の変遷がありましたが、アフガンの人々に密着した活動には決定的な影響がなく、少しずつ拡大発展してきたいきさつがあります。今回の政変は、過去の動乱のひとコマですが、『いのちの基金』はこのような混乱期であればこそ、日本国民の良心を示す力として有効に活用して参ります」として、活動を継続している。
※支援活動の実績はペシャワール会のホームページに紹介されていて、ほぼ日替わりで新しい情報に更新されている。http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/
■[ACT新聞社の紹介] |