軍用地を生活と生産の場に! |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
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電話:090- 3910-4140 |
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駐留軍用地使用裁決申請事件に係る公開審理(第8回) |
日時:2005年2月3日(木)13:30 場所:沖縄市民会館中ホール |
(午後2時46分 再開) ○渡久地会長 それでは再開いたします。 嘉手納飛行場、発言者の方。 ○照屋秀伝(嘉手納基地土地所有者) こんにちは。私は嘉手納飛行場に土地を持っています照屋秀伝といいます。僕の素朴な質問を幾つかお願いして、ぜひ私の疑問を解いていただきたいという思いで立っています。 まず最初に、僕の土地が今、何に使われているのかなということをお聞きしたいと思いますが、公告縦覧、いろいろ前回の裁決書を見ますと、住宅敷地と言うんですかね、それから地目は畑となっておりますが、畑に住宅が建っのかなという疑問が一つあるんですが、そのへんひとつ教えていただきたいと思いますが。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) ただいまの照屋秀伝さんからお尋ねのございました、秀伝さんが所有をされる土地、具体的に申し上げますと、沖縄市字森根角石西原191番の土地につきましては、嘉手納飛行場の住宅地区の家族住宅敷地として使用しております。 ○照屋秀伝 これは私たちの常識では、先ほど島袋善祐さんがお話がありましたが、畑というのは農地であって、農作業をするところだけど、宅地になっていると。これは僕も戦前、7歳か8歳だったんですよね。7歳と思っていたら、「いや、昭和10年生は8歳だよ」と、周囲の人たちは言われるんですが、考えてみたら7歳の初めに戦争があって、終わったときは、今から逆算すると8歳だったと。 あの時分は僕の土地の原風景として残っているのは、大きな屋敷があって、周囲に池が2つか3つあって、そのほかは畑でした。僕も畑に何度か行って、芋を掘ったり、それから大豆を刈ったり、サトウキビを伐採したりと、こういう作業をしていたわけですが、あの畑が今、アメリカの住宅になっていると。普通は米軍の使用するものですから、アメリカの兵隊は住宅に住んでいるんですか。それとも兵舎に住んでいるんですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 照屋秀伝さんの所有する土地につきましては、先ほど申し上げましたとおり、家族住宅という形の住宅が建ってございます。今のお尋ねがその米軍人がどこに住んでおられるかというお尋ねでございますけれども、少なくとも照屋秀伝さんの所有する土地には家族住宅がございまして、そこに米軍人が住んでいるということであります。 ○照屋秀伝 軍人がいて、家族が住んでいて、この軍人という兵隊と家族という方々は、これは別個に住んでいるんですか。そこに住宅の中に軍人も住んでいるんですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今、先ほど来お答えをさせていただいております家族住宅には、その米軍人がその家族とともにお住みになっているということでございます。 ○照屋秀伝 僕の土地に何名ぐらい住んでいるんですかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 何名住んでいるということについては、その住宅にそれぞれ何名住んでおられるかということを調べなければわからないわけで、今現在、そのことについて私は承知をしておりません。 ただし、先ほど申し上げました照屋秀伝さんの土地、森根角石西原191番という土地には、若干、住宅が全部入っているというわけでもなくて、一部かかっているような部分もございましたけれども、6戸の家族住宅が建っていたかと思います。 ○照屋秀伝 6戸の住宅が建っていて、僕もこれは復帰して間もないころ、1981年ごろだったと思うんですが、一度、皆さんと一緒に入った覚えがあるんですよ。実は皆さんが、防衛施設局がつくったこの土地の見取り図、僕の土地があって、僕の土地に隣の土地の建物が僕のところに入っていたり、僕の土地に建てられている建物が、隣の所有者の土地にかかったりしています。道にはみ出たり、いろいろやっているんです。1981年ごろだったと思うんですが、入ったときは、これは実はもう一つ大きいのがあって、こっちからこっちまで何メートル、こっちからこっちまで何メートルといって、いろいろ入って縮尺図が入っているんですが、これは測れないんですね。なんで測れないかというと、巻き尺を伸ばすと、屋根にひっかかるものですから、測れないんですよ。 だから、これは実際に書いてあるとおり、測りたいんだけど、測る方法が当時はなかったんです。道にもはみ出ているから、測ろうとしたら車が来ますから、車ぐらいはストップかけて測れたかもしれないけれども、あっちの土地と僕の土地との境に建物がたっているために、巻き尺を伸ばしても屋根を越えてしかできないし、あるいは横に回って後ろに回らないと巻き尺が届かないものですから、実測ができないんですよ。 だから、これは本当かな、本当にこれだけあるのかなという疑問がまずわいてくるんですけど、この疑問はどういうふうにすれば解消できるんですかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今のご質問点について、そのとおりご理解いただければあれでございますけれども、私どもとしまして、この土地を駐留軍用地特措法に基づき使用させて、いただく、その手続きをとる際に、実際に現地に入りまして、その土地のポイント、ポイントを確認しつつ、専門の測量の業者さんにお願いをして、測量をしていただいております。私どもとして、照屋秀伝さんの土地に間違いないということで、その土地を今、審理をしていただいているということでございます。 ○照屋秀伝 何でかと言いますと、僕のオヤジが生きていたときに、少し増えているよということで、「ダー、シムサ」ということでオヤジが印鑑を押したそうです。増えているから。皆さんから出された資料を見ても、0.44平方メートルかな、増えているんです。聞いてみたら、あれは有銘さんのも増えているんじやないですか。だって、増えていますよ。減ったところが少ないんですよ。戦前はもう少し狭かったけど、防衛施設局が来たら広くなっている。 これもちょっとおかしいな。どういうふうに測ったのかな。日本のメジャーとアメリカのメジャーは長さが違うのかな。マイルとキロとの、メートルの誤差が出てきているのかな。僕はこれは非常に疑問ですけどね。これはやっぱり、皆さんはご自分で実測したわけではない。専門家に頼んだから間違いない、専門家が言うのは間違いない、専門家が測ったからそのとおりだと、こういうふうにもし納得させようとしていらっしやるんでしたら、僕はやっばり現地を見たい。 だから、去年の11月に立入代理人の先生方がかわって見ていただいたんですが、報告を聞きました。「阿波根先生、僕の土地は畑でしたか」「いや、何も植えられていなかったよ」と。畑だのに、何で建物が建っているのかと。これはやっぱり僕は確かに、戦前あれは屋敷以外は畑だった。池もあった。あれは、戦前と言ったら60年前ですよね。60年前は、僕は7歳か8歳で、今は67歳になっています。60年前は畑で、これだけの面積だったけど、あれから還暦を迎えて、人間だったら大体小さくなるんだが、畑は広い。 何で、じや、昔畑だったら、今は住宅が建っているんだったら、住宅に、宅地になるべきなんだけど、何で畑のままですかと。特に復帰後はもう33年になりますよね。皆さんは何回もやっぱり専門家に調査を依頼して、もちろん調査費も支払って調査させた。 60年前に畑だったからと言って、今も畑なんですか。これも疑問ですよ。これはおそらく復帰前から住宅が建っていたはずですよね。なのに、復帰のときに皆さんが見直して、ああ、これは昔は畑だったけど、今は宅地だなと。このへんもいっぱいありますよ。昔は田んぼで、今は宅地。昔はサトウキビ畑で、今は宅地。いっぱいありますよ。去年もー昨年も。もう毎年、畑から宅地に変わった土地がいっぱいあります。何で皆さんの関係する土地だけは60年前の顔形になっているのか。これを考えたことないですかね。 復帰前から建物が建っているのに、復帰前はアメリカの占領地域だったから、あ、これは戦に負けてしょうがないなと思ったかもしれないけれども、皆さんが1952年に独立して沖縄を踏み台にして独立して、そして33年前に復帰になった。あのときぐらいは畑に家が建っというのは、これは不合理だなということは考えなかったのかな。「クレー、ウチナーンチュの地グァーだから、テーグーヤサ」と、こういう軽い気持ちでなったのか。このへん考えたことないですかね。お願いします。考えたけどできなかったのかね、できなかったんだったら、何でできなかったのか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今、お尋ねの点は畑という地目の中であるにもかかわらず住宅が建っている。しかも復帰前から建っているのではないのかということについてのお尋ねだと思います。 私ども土地をお借りする際には、その土地の現況といいますか、土地そのものにつきましては、土地登記簿にある土地を前提としてお借りをしてございます。したがいまして、その地目は土地登記簿にある畑という土地としてお借りをしているということでございます。 しかしながら、実際に現況はどうなっているのかということにつきましては、復帰後のことに関して申し上げれば、施設及び区域として提供しているその土地につきましては、その現状につきまして米軍がいわゆる3条の管理権に基づきまして、その現状の変更をするということが予定されてございまして、そうした一環として復帰前でも同じような形で米軍が変更したんだと思いますけれども、そういった事柄からして実際の使用としては住宅を建てて使っているということの差異からくるものだというふうに理解をしております。 ○照屋秀伝 そのへんの疑問はこれからずっとまとわりついてくると思うんですが、これは行って確かめたい。僕も60年経って1981年に集団で行って見ましたけれども、これが僕の土地かなという確信はないんです。皆さんがあっちに杭というか、釘みたいなものを打って、あっちからこっち、あっちからあっち、囲われているところがあなたの土地だよというから、あ、そうかと、うなずきはしましたけれども納得はしませんでした。だから、かねて立ち入りをさせてくれということで、代理人の先生方を頼んで申し入れをしたんだが、僕らは入れなかった。僕らが自分の土地に行って確認することに都合が悪い理由があるんですかと。どうですかね。何で、僕が僕の土地に行ってみたいと。なぜかと言うと、僕の息子も娘も、もう37、38になって僕はあとしばらくすると多分、力がなくなって、子供たちに説明もしなければいけない時期にきているんだが、君の土地はあっちにあるよと言うだけでは、これは子供たちは納得しないだろうと思うんです。僕に僕の土地を見せることについて、何か都合の悪い点があるんですかね。教えてください。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 照屋秀伝さんご自身が自分の土地を確認をしたいということでございます。求釈明事項の8の(3)というところに、私の土地に入るにはどんなルートがありますかと。そして、そこに私が立ち入って調査確認することができますかということとの同じご質問かと思います。それについてお答えをさせていただきますが、どんなルートがありますかということが、どんな方法をとったら自分の土地を確認するために立ち入ることができるのかというふうに述べられていることだと理解をいたします。 その立ち入る際につきましては、合衆国の施設区域へ立ち入るということに関しまして、許可手続きが合同委員会合意に基づいて所要の手続きが決められてございますので、その手続きを経て米側と調整のうえに実際に立ち入ることができるというような形になります。もし、照屋秀伝さんご本人が自分の土地を確認するためという目的で立ち入りを希望される場合には、これに基づいて手続きをとっていただくことになります。 さらに申し上げますと、実際に施設及び区域を管理しております米軍がそれを許可する、しないということはございますけれども、そういった手続きをとっていただくことになります。 ○照屋秀伝 これは去年11月に立ち入りをする以前に、実は申し入れをしたと思いますけど。あとで聞いた話では、先ほど阿波根代理人からも話がありましたように、ぜひ地権者である地主を入れてもらいたいという要望もありましたよね。あれはかねてそういう趣旨で申し入れをしたんですよ。そのルートではだめなんですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 大変恐縮でございますけれども、私どもはいいとか、だめとかということを申し上げることはできません。私どもとしては、そうした定められた手続きにのっとって手続きをとっていただくこと、そのうえで米側の許可を得て立ち入るという形になるということを申し上げているということでございます。 ○照屋秀伝 オーケーが出るか、ノーが出るかわからないけれども、申し入れはしなさいと、こういうことですかね。入れるか入れないかはわからないけど、とにかく手続きはしなさいと、このぐらいの話なんですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 大変恐縮でございますけれども、私どもとして立ち入りを認めるとか、認めないとかという権限はもってございませんので、そういった立ち入りたいというご希望のある方であれば、どなたでもそういった手続きをとっていただくことになると、そういう手続きがあるということをご紹介をし、どうしても立ち入りたいということであれば、そういった手続きをおとりになってはいかがですかというふうに申し上げているということでございます。 ○照屋秀伝 前回、申し入れをしたときに地主はだめだよと。そういう判断をしたのはどこでありますか。皆さんじやなければ、皆さんが上とか、下とか言っているその上ですか。それとも日米という米ですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 実際に、その立ち入りを認めた権限がどこにあったのかということでお尋ねだと思いますけれども、それは米軍でございます。 ○照屋秀伝 じや僕が入れなかった理由ですね、米軍は何と言ってあったんですか。 ○波久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) これはむしろ収用委員会のほうからお答えいただいたほうがよろしいかと思いますけれども、私どもとして立ち入り申請書に、正確にもしかしたら間違っていて、後ほどまたもう一度正確にお答えする格好があるかと思いますけれども、私の記憶では、立入申請書に照屋秀伝さんの名前はなかったと記憶をしております。 ○照屋秀伝 あ、そうですか。じや僕が間違っていたかもしれませんね。 次は、それぞれみんな所有者の名前を書いて出しますから、ぜひひとつ。これは皆さんと僕らは、頼んだり頼まれたりする関係ですよ。立場は同じ。だから、僕らがこうしたいと思うんだったら、できるだけそういうふうにしないと皆さんの立場も困りますよ。そこで、僕は十ぐらい求釈明事項を出しましたが、まとめてやりましょうね。 そしたら、僕は復帰のときに、やっぱり自分の土地は、土地というのはこんな使い方をすると先祖代々はもちろんなんだけど、土地に対してもあるいは土地から生まれてくるいろんな生き物たちにも申しわけないなと。先ほど、善祐さんがおっしゃったように、コンクリートで固められた下のあの土、空気をほしがっているよ。水もほしがっているよ。人間の顔も見たいという、そういったほしがりがある。これを押さえつけているわけでしょう。僕はやっぱりそういう意味からも、この土地はやっぱり基地にはふさわしくない。僕の先祖代々かどうかわからないが、僕のおじいさんが獲得した土地だと言われています。僕はおじいさんはよく知りませんけれども。 そして、祖父の代から農業で生きてきた。生きてきたこの土地に、そして生かされてきた人間が、この土地を殺すということは、これはやっぱりだめだと思って僕は反対したんだが、契約もしなかったんだけど。5カ年に1回、皆さんいらっしゃいますよ、僕の家に。契約してくれと言って。今回、公開審理やっているわけですが、公開審理をやる前に僕にどのような交渉、いつどういう方が見えて、そして僕がどういうふうに話をしてきたのか。こういういきさつ、ちょっと教えてください。これは僕がいなかったのかな、僕の妻が対応したのかよくわからないんですが、僕はあまりしてないんです。僕の土地に対する交渉というんですか、これはどういうふうになさったのか。この報告を聞きたいと思います。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今、照屋秀伝さんの土地について合意が得られないということで、駐留軍用地特措法により使用をさせていただいているという状況でございます。今の使用と言いますか、もう既にその使用期限が切れていて、今新たな法手続きに入っているわけでございますけれども、平成10年5月19日に使用裁決と明渡裁決をいただいて、平成15年9月2月までの使用権限をいただいたところでございますが、この裁決の日以降に、照屋秀伝さんと賃貸者契約による使用をお願いにあがりましたのは、私どもの記録によれば何らかの形でお会いできたというふうに認められるのが4回ございます。平成11年2月22日、それから平成12年8月22日、それから平成14年1月9日、さらには平成15年の3月4日の4回でございます。私どもの職員がご自宅にお尋ねをし、契約をお願いをしましたところ合意を得ることができなかったということでございます。 なお、私どもの記録によればご本人とご面談したということもございますけれども、ご本人のご気分が悪いということで、奥様を介してそういうお話し合いをしたというふうに承知をしております。 ○照屋秀伝 僕が直接会ったのは、去年の3月22日・月曜日。お2人見えていましたよ。3月22日というと、第3回のこの公開審理が3月18日ですから、第3回公開審理が終わって4日後、僕は初めて会いました。そのときの僕との交渉経過報告を、僕の家に来られた方は多分なさったと思うんです。これはどういう報告を受けているんですか。 ○波久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 大変恐縮でございます。今、「昨年の」とおっしやいましたので、16年の3月22日かと思います。私、実は先ほど4回というふうに申し上げました。これは今、審理をお願いしております手続きに入ります前に、交渉した回数を申し上げてございます。大変恐縮ですけれども、今、この審理に入りまして以降の交渉の経緯については、私、今、手元に持ってございませんので、今、お尋ねの点については、今この場でお答えすることはできません。 ○照屋秀伝 これはぜひ、これは非常に重要な交渉のネックですよね。ぜひ次回、皆さんと確認をして、僕がどういう気持ちで、どういうふうに対応したのか。この交渉内容を、これは共有しないと、あれは契約しないと言っていた、どうだったという、皆さんの思い込みでこの裁決申請書が出されていると、僕はそう思うんですよ。 有銘さん、裁決理由、申請理由の中には、誠意をもって交渉云々とあるけれども、誠意が見られない。契約は拒否されたと簡単に言っていますけど、ほかの方々はどうかわからないが、僕は、今から10年前かな、前回の公開審理、今のじやないですよ、10年前の公開審理、あのときも来ましたよ。あのときは3、4名来ました。僕はせっかくだから僕の財産の問題に関することだから、ちやんと玄関を開けて案内して、お茶でも、コーヒーでもありますよと。コーヒーあげたら、また収賄になるかなと思いながら、お茶ぐらいは、水ぐらいはいいだろうと思って、「お茶もありますよ、どうぞ」と言ったら、全然中に入ってくれない。 それで、「契約してください」と言うんだけど、「契約書を持っているか」と言ったら、契約書を持っていない。持っていないんですよ、会長。じや、「契約内容は」と言ったら、「これは契約してから」と。契約書も持っていないし、契約する話の中身もないのに、「どうぞ」と言ったら、「いや、帰りますよ」と。去年も「どうぞ」と言って、僕は家の中にあげようとしたら、「いや、次、またあっち回りますから、皆さん、照屋さんの立場がありますからね」と言うから、ウリ、立場?アンシェ、クレ、立場は違うの?僕の土地を借りたい、中身が条件が整えれば、僕は貸しますよと。これは10年前の公開審理の前に来ましたから、そのときに、じや、僕が契約内容を書いておくから、僕が書いた契約内容に、条件に皆さんが合意してくれるんだったら、僕は契約しますよ、ひと月以内に来てくださいと僕は申し上げたんだが、来ないんです。こういうことで、これは事が進むのかなと。条件が悪ければ契約しませんよ、だれでも。 それからもう一つは、普通はこういう契約には印鑑証明とか、戸籍謄本、住民票とか添付書類があるんだけど、これは皆さん取っていますか、どんなですかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今、印鑑証明と戸籍謄本を取っているのかというお尋ねでございます。私どもは契約をいたします際に、ご本人であることを確認すると、あるいは契約のためにつかれた印鑑がご本人のものであるということを確認するために、印鑑証明と住民票をお取りしているかと思います。 ○照屋秀伝 話によりますと、文房具店から200円、300円の印鑑、「照屋」という文字の彫られた印鑑を持ってきて押せば、契約が成立するという詰も聞いたことがあります。実は僕の復帰のときに、僕は相当、旧森根字の周囲の皆さんから叱られたんですよ。秀伝が契約しないから、森根の人たちはみんな困っている。こういうふうに言われて、それは困っているだろうと思うんだが、僕のオヤジが何を言うかといったら、僕の家には「照屋」という印鑑はたくさんあります。たくさんといっても多分、3、4個ぐらいありますよ。「これ、押しておこうね」と、「ヌーガ」と言ったら、「ううん、みんなこれで契約しているんだよ」と。 それから、別に契約内容も、契約書もない。「ウマカイ、いついつ印鑑を持ってきなさいと、判を押せば終わりだから、イヤームヌン、ウストーチュサ」。ああ、こんなことをしたらこれは大変になるなと思って、僕は、もう逆にこういうときだな、親でも脅迫しなさいというのは。僕は脅迫をして、この「照屋」という印鑑、僕の名前を書いて、「照屋」という印鑑を押してしまったら、ワッター親子がどうなるか、ウリ、カンゲェティみなさいと。見てごらんということで、半分、脅迫まがいなことを言って、これはストップをさせたんです。 こういう契約というのはあるでしょう、実際は。印鑑証明もない。契約、それもない。ただ、一覧表みたいなところに印鑑を押す。あるいは白紙委任状、白紙委任という方法もあるらしい。これは一般的にも通っていますよ。一般的にそう言われています。契約地主も、それから契約拒否地主だったけれども、契約せざるを得なくなった人たちも言っていますよ。これは間違っていますかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 今、お話しいただいた事実について、具体的にどういうことかということは承知しておりませんけれども、私どもは契約していただきます際に、代表者を決めていただいて、その方に委任をしていただき、その方にすべて代理していただいて、契約を締結するという方式がございます。 したがいまして、そうした代表の方と言いますか、委任する方と受任する方との間でどういう委任状の取り交わしをしているかということについて、その一々については、私は承知をしておりませんけれども、その際に、私どもとしてきちんと委任関係ができているのかどうかということで、確認をさせていただきます際に、先ほど申し上げましたように、きちんとご本人が委任をしたんだということを我々として確認をするために、印鑑証明なり、住民票なりをつけてくださいと、そういう指導をしてございます。 ○照屋秀伝 そのとおりになっていますかね。3万人近くの人たちの印鑑証明、契約書、署名捺印、皆さんのところにそろっていますか。自筆署名、捺印、印鑑証明、そろっていますか。 ○波久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 私どもとして契約をいたします際に、毎年、その所有権関係が変わります。そうした機会をとらえつつ、きちんと印鑑証明なり、住民票なり、整えていただくようにお願いをしている。あるいは、そうしたものを私どもとしても他のと言いますか、いろいろな我々の中の、国の中の検査もございますので、そういったことをきちんとやらせていただいているということでございます。 ○照屋秀伝 時間がないので、僕の勘ぐりを申しますと、できるだけ短時間に込み入った話はやめて、まとめて書類をつくって終わらせたいという考えが皆さんの中にはあるだろうと。今までのこの30年間の経過を見ると、この勘ぐりは多分当たっていると思います。本当であるのか、うそであるのかは、これは収用委員会の先生方にぜひ、もし疑問があるならば調べていただきたいなと思います。 次、第1ゲートに入ると、左斜めのほうに前方に国連旗がありますよ。何でかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 嘉手納飛行場は、日米安全保障条約に基づきまして、アメリカ合衆国の用に供している施設及び区域でありますけれども、日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定というものがございまして、その第5条2項に基づきまして、国連軍もその施設及び区域を使用することができるというふうになってございます。 ○照屋秀伝 そうすると、米軍以外に、国連軍に属している外国の軍隊もいるんですか。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 個々に、外国の軍隊がどこに、国連軍がいるのかどうかということについては承知しておりませんけれども、先ほど申し上げましたように、国際連合の軍隊というものは、先ほど申し上げた国際連合の軍隊の地位に関する協定というものに基づきまして、そのアメリカ合衆国軍隊の用に供している施設及び区域、そういうものを使用することができるということでございます。 ○照屋秀伝 国連との地位協定というのは、これはいつできたんですかね。それはいいんですけど、まとめてお答えください。 今回の、これはブッシュ大統領も小泉総理大臣も、イラクに我が軍隊が出兵をするのは、国連決議に基づいたと、こう言っているわけですが、そうすると、国連決議に基づいて沖縄の国連軍もイラクに沖縄から行って戦争をしたんですか。僕は米軍だけかなと思っていたら、国連軍も沖縄から行ったのかなと思うんですが、であるならば、米軍以外に国連軍に属している、統制されているどこの国の軍隊が、どのぐらい行ったのかなという疑問がわいてきます。お願いします。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 先ほど、国際連合の軍隊の地位に関する協定がいつできたのかというお尋ねでございました。昭和29年6月1日、条約第12号ということで協定が有効になっているかと思います。 それから、後段で国連軍の軍隊が、今、お尋ねとしては、在日米軍の施設局にいる国際連合の軍隊がイラクに行ったのかというお尋ねかと思いますけれども、私そのことについては承知をしておりません。 ○照屋秀伝 何でこんなことを聞くかと言いますと、僕の土地は住宅が建っていて、その中には軍人もその家族もいて、隣にどういう施設があって、滑走路もあるし、いろんな戦闘機が離発着しています。いろんな事件・事故が起こります。そうすると、僕の友達なんか「君が貸しているから、君は文句言えないよ。日本政府やアメリカには君が文句言えないよ。君の土地から飛び立っている、君の土地から出てきた米兵が事件を起こしているんだから、君は文句言えないよ」と。僕は困りますよ。僕の土地がどういう人に貸して、この人がどういうふうな仕事をして日常生活をどういうふうに送っているのかな。このへんでもありますよ。暴力団に家を貸したら隣近所から文句が出てきて、暴力団出て行けといっていろいろ運動ありますでしょう。同じことです。いいことをする人たちに貸せば褒められるけど、悪いことをする人たちに自分の土地を貸したり、自分の家を貸したりすると嫌われる。僕はある意味では防衛施設局の皆さんからも嫌われ者になって、同級生、隣近所から嫌われ者になって、僕は生きにくいよ、これ。だから、これは嘉手納基地は、本当に日本の平和と安全のために皆さん言うんだけど、日米安保の目的遂行のために、これは必要とすると、日米安全保障条約の目的というのは、ま、こんなこと聞かんでもいいか。これは、僕は日米安保条約の目的と沖縄県民、この基地周辺の人たちの平和と安全と生活のための目的と相反する、していますよ。皆さんはこれは単なる矛盾。60年間そうしたんだから、たまにはそんなこともあるさとおっしゃるかもしれませんけど、貸した人からすれば、借りた人は、「あ、よかったな。トートー、何でもいいから使いなさい」自分勝手に使ったら、こっちのものだと思うかもしらんが、貸した人の痛み、あるいは取られた人の痛みというのは、皆さん考えたことあるんですかね。僕は皆さんが契約交渉といって、何名も揃って玄関まで来てすぐ帰る。本当に言いますよ。 僕は具体的に言いなさいといったら言いますけど、僕の家に来てどうぞ、お茶でも飲みながらどうですかと言ったら、「ううん、次は有銘さんのところ行かないといけませんから」こんなして行くんですよ。有銘さんのところではどんな話しているかわかりませんけど、「次はゲントクさんのところ行かないといけませんから」と言って、ぐるぐるぐるぐるまわってやってきましたと言って、どういう報告がなされているのか。こういうが非常に僕は疑問でもあるし、わからない。時間はあと20分しかありませんので、ほかの方々の補足もあると思いますので。 本当に防衛施設局の皆さんのやり方は民主的じやない。非常に機械的でロボット的。本当だったら、借りる人は貸す人に向かって対応するときは、もっと紳士的にまじめに誠意を込めて、話をするにしても、態度もですよ。普通のつき合いじやないんだから。嫌いでもやっぱり話がまとまらないと契約に至らないわけだから、そのへんの気遣いというんですか、これが絶対皆さん欠けている。僕と会ってあれはだめだった、照屋秀伝は話にならん。契約しないと言っておったという報告受けているのか。これ以上話をすると皆さんが何かやりにくくなっているから、いたたまれなくなって帰ったのか、この2つしかないと思いますよ。こういった、僕の家に来た職員、ウチナーンチュもいるし、ヤマトウンチュもいるんだけど、これは非常に、挨拶程度だから中身は知らないけど、非常に見た目は誠実そうで、人のいい感じ。だから僕はどうぞと言う。中にお招きをするんですよ。皆さんはいやいや、「皆さんも立場がありますから」、「照屋さん、立場がありますから」。僕は契約する立場ですよ。僕の土地を契約しないからと言って、皆さん自分勝手に取り上げて使っているけど、僕は貸す立場ですよ。貸す立場に向かって、「いや、照屋さんの立場もありますから、失礼します」と言って、これ交渉ですか。実際、年がら年中こんな話ばっかりですよ、渡久地会長。これで、あの申請書の中身、あれは信用できない。もっと交渉するのであれば、5時後でもいい、日曜日でもいいよ。僕はこういうときはある意味では、皆さんサービス残業でもいいんですよ。えっ?。(「賃金は払わないと」と言う者あり) でも、やっぱりたまには「シムサ、ティマー取ランティン(いいさ、給料は取らなくったって)。交渉が成立すればいい。上等さ−、これ」。防衛施設局長よりももっともっと立派な仕事をしている、するというのはこれですよ。防衛施設局の局長さん、大澤さんも大変だろうけど、何が大変かね。僕の家に来て何でもいいから契約しなさいと。任せておけと。僕を信じて任せておけと、このぐらい言えないの。詳しい話をすると、どうも都合が悪いから、あんたも立場あるから、さようなら。これで交渉か。こういうのがこの30年間ずーつと続いているんですよ。 そして、契約地主の皆さんが、何か都合の悪いことが起こったら、あの人たちが悪い。有銘政夫を筆頭に照屋秀伝、あったーが悪いから、向こうへ行きなさいといって、大体こういうふうなやり方がずーつときている。同じ軍用地主の人たちからも、僕らはどちからというと煙たがられているんですよ。非常に生きにくい。生きにくいけど、しかしこの土地こそはやっばり、イラクやあっちの写真を見てごらんよ。ニュースを見てごらん。ああいうものに、ああいう状況をつくるために僕の土地が使われる。心が痛いからこれはよっぽどのことがないとできないという思いをもっています。お金もほしいけど、しかしそれ以上に人間らしく生きたいな、こういう気持ちがあるからこそ、僕はもっと頑張るよ、これだから皆さんは4年、5年したらどこかに人事異動で出ていっていなくなるかもしれないけれども、そうでない職員もいるでしょう。防衛施設局の中にはウチナーンチュもいるでしょ。ヤマトウンチュもいるでしょう。ヤマトウンチュはウチナーンチュから、ウチナーンチュの肝心というのはどういうものであるのか、これをひとつ勉強しながらやらんと僕はだめだなと。払えばいいさ、これでは僕らを納得させることはできない。これは3万人の地主を、これは金で取ることはできても、納得させることはできませんよ。こういうのは、これは日本政府のずーつとこれまでのやり方だと。いろいろ話を聞いてみると、ずーつと薩摩の時代からそうだったという話もありますよ。僕もなるほどそうだなと思う。鹿児島であろうが、北海道であろうが、日本人はウチナーンチュから見たらみんなヤマトウンチュといって、ウチナーンチュとは違うよ。沖縄は日本になったけど、ウチナーンチュは日本人になってないよという詰も聞こえるよ。皆さんの仕事の仕方いかんによっては、ヤマトウンチュもウチナーンチュも、ユヌムンドゥヤッサー(同じ)というのがある。 けれども、この契約拒否地主は最後の最後に踏み潰される対象になりはせんかなと僕は思うんです。そのことがもし、越えることができるならば、僕は人間の良心を踏みにじって戦争をするとか、貧しい人たちのところに餌をあげてかっさらうとか、こういうことはできないだろうと思います。 これは僕が先ほどちょっと言いましたが、戦前の土地と今の土地は広さが違う。僕は本当は戦前の土地よりは、登記簿の面積よりは今の面積が小さくなるべきだと思うんですけど、昔は僕の土地も緩やかな線があって、山はないけど丘もあって、これをやると戦前は山の丘の斜面も斜めに測るから面積が大きかったはず。今、嘉手納飛行場なんか全部平坦にしてあるから、あっちからこっちまでいったら傾斜の部分ははみ出して少なくなるけど、何でこうなるのかなと、こんな話があります。もし開放されたら、嘉手納基地の水際のあの海の向こうまで延ばしていかないと足りないなと言う人がいますけど、こういう疑問は持たなくていいんですかね。開放されたときに、僕の土地は幾ら幾らとみんなやったら足りなくなって、あの58号線を突破して、あっちの海まで行かないと足りないという話が何か半分冗談みたいなことで話が聞こえるんですが、こんな心配はしなくていいですか。 ○渡久地会長 これは質問でしょうか。 ○照屋秀伝 はい。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 沖縄にとっては大変不幸なことでございましたけれども、先の戦争があって、それで土地登記簿といったものも全部消失してしまうということがあって、それを戦後、皆様が協力して復元をすると。他方、米軍が占領していて、一定の地域には中にも入れないという中で、大変苦労をされて、そういった登記簿をつくられるという作業が行われました。 その後、復帰をしましてから位置境界明確化ということで、さらに最近になっての作業をし、そのことについて各字ごとに土地の所有者の方々が集まって協議をしつつ、「こういう土地でいいね」ということを確認して、そういう作業をしていただく中で、今の土地の状況があるわけでございます。 したがいまして、そうした作業をする際には、航空写真をもとにし、あるいはいろいろな基準点等を設けた測量の結果として、できてございます。したがいまして、今、お尋ねのように、返還をされたら嘉手納飛行場が海に行くというようなことはないというふうに、私は理解をしております。 ○照屋秀伝 これは海まで行きますと言ったら、これは大変ですよね。でも、実際になりますよ。あっちこっち、なっています。これは開放されたところ、石川もそうじやないですか。この地籍どおり足していったら、陸だけでは足りなくなって、金武湾の一部、埋めていったと言いますよ。なるんですよ、これ。 皆さんは簡単にはいかないなと思ったら、少々増やして、僕のオヤジみたいに、増えたからいいさ。0.44平方メートル増えたからいいさ。あれは幾らでもいいから、とにかく1mmでも増えたら喜ぶよ。こういうところを利用してやっている部分がありますよ。減ったという人の話は聞いたことないですよ。みんな増えている。 実際に、嘉手納飛行場、将来これは開放になるから、これは僕は跡地利用計画、どういうふうにやるのかな。これは実際、専門家がやるのは間違いない。それは間違いない。誤りというのは非常に少ないんだけど、あの小泉総理大臣が言ったように、自衛隊がいるところは非戦闘地域と言っているのと同じ。 あっちが測ったから間違いない。そのとおり。これはもう少々増やしていけ、増やしていけといって、だれが入れ知恵したかわからないけども、増やしたら、案の定、みんな喜んで、そして、反対したかった人も、いやいやながら賛成に回るという人たちも何名かいますよ。僕のオヤジがそうだった。 こういうふうにだまして、あるいはだまされなかった人たちは、今度はもっと締めつける。本当だったら皆さんがもっと誠意があるならば、あるいは特措法というあんなやつはどうでもいいのよ。僕らの税金、来年あたりの所得税は、これは大変なことになりますよ、みんな。 これも、累進課税だから仕方がない。税金と施設局は関係ありません、こういうふうなことを言っているんだけど、本当は大変なんだよ。だから、かつて税金の差別裁判もあって、僕らは負けてしまったけど、国の基本的な政策に反対するのは、裁判に行っても、どこに行っても負ける。大体、負ける。負けるのが常識で、この常識も僕らは本当に慣らされて、あんまり当たり前だというようなことで、あきらめかけようとしているんだけど、しかし、皆さんがあまりでたらめな対応でしかないので、あきらめてはいけないなと、こういうふうに思い直して頑張っています。僕はこれからも頑張りますよ。 だから、将来、この嘉手納基地が開放されるときに、どういうふうな形で皆さんが返すのか。畑にして返すのか。このへんはどんなですかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 私どもといたしましては、皆様から駐留軍用地特措法に基づき使用させていただいている土地、そのことにつきまして、皆様が現状に復して返してくれということであれば、その現状に復する、あるいはそれに伴う損失を補償するという形で返すことになると思います。 ○照屋秀伝 それでは、僕があしたとは言わないけど、来年あたりに返しなさいと僕は要求していますよ、今。では、どういうふうに返す。僕は畑にして返しなさいとは言わない。これから農業はちょっと怖い、だから、この相談には乗ってくれますか。僕の土地をどういうふうにして返してもらえるのか。元のままと言ったら畑なんだけど、畑でもいいよ。この作業を僕が要求したら、すぐ進める用意がありますかね。 ○渡久地会長 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 返還がいつ実現するかということについては申し上げにくいんでございますけれども、仮に返還だということになれば、私ども駐留軍用地特措法で適用しております土地収用法に105条という規定がございまして、その土地を使用する場合において、その期間が満了したとき、または事業の廃止、変更、その他の事由によって使用する必要がなくなったときは、遅滞なく、その土地を土地所有者、またはその承継人に返還しなければならないというふうにあります。 その上で、第2項といたしまして、起業者は、今の場合は私ども那覇防衛施設局でございますけれども、起業者は、前項の場合において、土地所有者の請求があったときは、土地を原状に復しなければならないというふうにございます。 したがいまして、この条項に従って、きちんとした手続きを取るということでございます。 ○照屋秀伝 何でこんな話をするかと言いますと、復帰直後、弘法堂さんという局長がいらっしゃいましたよ。あの方が、弘法堂さんでしたよね。あの局長さんがこんなことをおっしゃいました。収用委員会の皆さんが、5カ年間の強制収用裁決をして、5カ年分の補償金、一括払いしますでしょう。何月何日から何年後の何月何日、その間に、土地が開放されたとき、5カ年分の中から使わなかった2年分とか3年分とか、これは返しなさいと言った。 これは公開審理ではなかったけど、防衛施設局に行っていろいろ話をしたら、こんな話をしていたんですよ。そうすると、5カ年強制収用なんだけど、5カ年ぐらいは強制収用するだろうなと思っていても、3年になるか、あるいはひょっとすると万が一、1年になるのかわからない。 そのときに、開放されたら、一括払いしてもらったお金の差額分も返さないといけないから、今回、収用委員会の先生方が2年の強制収用裁決される。そのときに、これはひょっとしたら1年になるかもしれない。こういうような話になってしまうから、今から開放されたときにどうするかというのは、今考えておかないと、なってからでは遅いですよと思うんだけど、どうですか。 弘法堂さん、昔、20何年前、こんな話をしていましたよ。 ○渡久地会長 よろしいですか。 那覇防衛施設局。 ○大澤代理人(起業者側) 大変恐縮でございますけど、今、お話はお話として伺わせていただきましたけど、ご質問の趣旨がもうひとつ、私に理解できないので、もしかすると、とんちんかんなお答えになるかと思います。 先ほど申し上げましたように、土地を返還する際には、先ほど申し上げました土地収用法の105条の規定に基づいて、原状に復旧するということは、その法律にきちんと決められているとおりでございますので、その手続きはきちんと取らせていただきますというふうに申し上げますということが一つ。 それと先ほど、私どもの元の局長の弘法堂のお名前を出して、もし使用期間、先ほどのお話ですと、5年という使用期間の中で返遺された際には、2年というお話がございましたけど、2年で返還になった場合には、その後の期間の補助金について返還を求めるという趣旨のことを、弘法堂が言ったということでございますが、そのことについて私は事実を承知していませんので、そう言ったかどうかということは、事実について、そう言ったとか、言わなかったとかということは申し上げることができませんけれども、私どもとして、使用させていただいた土地、例えば5年、10年というような使用期間をいただいて、先に前払いをさせていただいたことがあって、その後、5年なり、10年なりの使用期間前に返還になるというような事態が出れば、それはその法律の解釈するところに従って、必要なことをさせていただくというふうに申し上げさせていただきたいと思います。 ○照屋秀伝(嘉手納基地土地所有者) たくさん、もっと聞きたいことはあるんですが、時間がありませんから、これで終わります。ありがとうございました。 ○渡久地会長 それでは、予定をされておりました4時になりましたので、本日の審理を終了いたします。 次回の公開審理の日程は3月23日…… (「会長、ちょっと要望があります」と言う者あり) ○有銘政夫(嘉手納基地土地所有者) 嘉手納に土地を所有しております有銘政夫です。 今の19ページから20ページ、僕の持っているものでですが、求釈明の一覧がありますね。これは全部同じなんでしょうね。 そこで、1から7までの中で、今、照屋秀伝さんが幾つか求釈明を求めました。それから、照屋秀伝所有の土地に関して以下の事項の釈明を求めるというところ、(1)から(10)、ナンバー(10)までありますね。この中で、例えば、これは今、名前としては照屋秀伝と挙がっていますけれども、この件については、書いてある10の項目のうちに、僕が質問したいのもあるわけですよ。場合によっては、またマエシロさんが質問する項目もあるわけです。だけれども、総称して今の防衛施設局に聞いたところの19ページの例えば、1にある施設内に存在する建物、工作物というのがありますね。 この件については、どうしても聞きたいわけです。だから、防衛施設局の心得として、私、3つぐらい注文をつけておきます。 例えば、僕の土地を図示してある場合に、なぜこれが私の土地なのかということについて、特別書きたいことが幾つかあるわけですよ。特定できるというわけですから。そしてもうひとつは、一体的に収用するんだから、大義名分はそうですけれども、個別に問いただすと、これは承知してませんとか、これは馴染みません、とかいうことで、まともな回答がこっちに返ってこないので非常に困っているわけです。 先ほど、照屋さんの契約に訪ねたというくだりがありましたね。あれも例えば、私の家に来たときも「契約してもらえませんか」と、玄関先でそれだけです。そうすると、「いや、契約はしませんよ」「そうですか」と帰るんですよ。これ、子供の使いじやあるまいしね。具体的に聞こうとすると、この作業に来た人たちには内容はほとんど回答できない。幾らで契約するんですか、私のこの土地についてなぜこうなっているんですか、わかりませんですよ。 こういう公開審理の場で、私は次に尋ねますから。なぜ、私の土地の地形はこうなっていますか。それは測量士がやっているんだから、私たちはわかりませんではね。こういったことを具体的にやってもらいたい。 ○渡久地会長 要望の趣旨といいますのは、ただいま照屋さんと同じような角度からの質問であるけれども、有銘さん自分について同じ項目、質問を立てるからと、こういうことでよろしいですか。 ○有銘政夫 はい。 ○渡久地会長 そうしましたら、照屋さんと質問項目としては大体類似するでしょうけれども、一応、求釈明の補充の形ですね。 ○有銘政夫 いやいや、補充…。これの中に全部ありますから。補充する必要はありません。 ただし、私、次に求釈明求めますから、そのときに、「あんたについてはわからなかった」では困るんで、「資料を持っていません」では、さまにならないので。この件について、すべてについて嘉手納に土地を持っている人たちのすべてに答えられるようにしておいてください。 ○渡久地会長 それでは、事前協議の席でも改めて、また申し入れをしていただければ。 ○有銘政夫 必要な項目については、さらにやります。 ○渡久地会長 防衛施設局は聞いているわけですから、一応了解はしているでしょうけれども、改めてまた事前協議でこれは協議いたしましょう。 ○有銘政夫 よろしくお願いします。 ○渡久地会長 ご趣旨はわかりました。 (「日程をもう一度、お願いします」と言う者あり) ○渡久地会長 日程を申し上げます。 次回の公開審理の日程は3月23日水曜日です。午後1時30から4時まで。会場は本日同様、沖縄市民会館中ホール。ここにおいて開催する予定です。詳細は文書で通知いたします。 本日は、どうもお疲れ様でした。 (午後4時4分 閉会) 資料提供:安里秀雄さん |