No. 80 | ||
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1996年12月7日 | ||
東京都千代田区三崎町 | ||
2-2-13-502 | ||
郵便振替:00120-8-45850 | 電話:030-910-4140 | FAX:03-3386-2203 |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
公開審理は来年2月21日、第1回が宜野湾市で開催されることになりました。会員は全力をあげてこの場での主張・発言をめざそうではありませんか! |
なお、関東ブロックでは来る12月14日(土)午後6時30分から中野商工会館(中野駅北口下車・徒歩7分、電話:03-3389-1181)で「「公開審理にむけた学習会 公開審理とはどんなもの?」を開催します。講師は安里秀雄さん(違憲共闘会議・事務局次長)。 会員以外の方でも参加できます。 |
10月31日、重課税取り消し訴訟・控訴審の判決公判が福岡高裁・那覇支部で開かれた。開廷一番、裁判長・岩谷は「原判決を破棄する。被控訴人(阿波根昌鴻さんら)の請求を棄却する。裁判費用は被控訴人負担とする」という主文を読みあげた。まさかの、しかも全面的敗訴だ。予想だにしなかった反動判決である。傍聴席からただちに糾弾の声が上がる。宜保・前違憲共闘会議議長は「これはあの最低裁と同じだ!ヤマトンチュ−は沖縄の痛みがわかっているのか!」と法廷内外を揺るがす怒りをつきつけた。反戦地主会の照屋会長は、裁判所職員を振り切って裁判長席に突入せんばかりの抗議を繰り返す。裁判長・岩谷は顔面蒼白になりながら、なんとかとりつくろわんと次の民事事件の判決を読み上げようとするが、糾弾の声にかき消される。「不当判決糾弾」のたれ幕を持ち、シュプレヒコールをしながら、法廷外で待機する支援者と合流。あらためて裁判所への怒りのシュプレヒコールをつきつけた。
伊江島で待機していた阿波根昌鴻さんはこの不当判決を聞いて、「腐った、曲がった判決だ。腐った裁判所・政府をただすため、われわれには闘う義務がある」と明言した。
白を黒と言いくるめる裁判所、はじめに結論ありきの政治裁判。われわれは断じて許さない。11月11日にはこの阿波根さんの決意を受け、断固上告した。
また11月14日には、伊江島の地で反戦地主交流会を開催。これには反戦地主会・違憲共闘会議・一坪反戦地主会(北部ブロック)、さらにこの裁判闘争の要として奮闘されてきた公認会計士の加藤俊也さん(関東ブロック)親子、また伊江島の反戦地主のみなさんもかけつけ、ヒージャー(山羊)汁に舌鼓をうち、オジーの決意を直に聞き、文字どおり「ヌチグスィ」(ここでは命の洗擢と意訳すべきか?)してみんな元気モリモリ。大法廷を開かせ、なんとしても裁判に勝利すること、さらに当面する公開審理闘争を盛り上げることを誓いあった。
重課税取り消し訴訟事務局(北部ブロック担当)では当面、上告審の訴状印紙代を最低限確保するために、百万円(上級審に行くにしたがって高くなる!)のカンパを集めている。
いつも関東ブロックのみなさんには並々ならぬ御協力をいただいていますが、今回も是非よろしくお願い致します。
[カンパの送金先]
冬を目前にしたこの時期、野外集会を開くには勇気がいる。でもたくさんの人たちがつめかけるだろう(?)と、日比谷野音となった。
とにかく雨だけは降らないでと祈る。この一年“沖縄集会”はいつも雨に励まされてきた(?!)から。どうやらその願いは天に通じたらしい。
今、沖縄問題は解決もせずに区切りをつけられようとしている。そればかりか、4月の日米防衛協力指針の見直しにみられるように、本土の沖縄化が現実のものとなっている。今日の集会はそれをふまえて、共に基地のない未来を作り出す新たな一歩にしようということになった。
さて、本日の役回りは進行係。いつもは持たない時計をにらみながらステージの袖から出演者の横顔を見ることとなった。一番手にエイサーを踊る全交(働く青年の全国交歓会)の子どもたちは、出番を待ちながら、客の入りが少ないと言い合っている。正午の開始を告げるのは、司会の城間さんと平田君。主催者代表のあいさつは上原成信さん。
頼泊那覇市長・新川沖縄市長からメッセージが寄せられた。新川さんは「米軍用地に関わる代理署名、公告縦覧手続きを拒否してきた私は、自治体と住民運動の連携によって巨人な米軍基地を動かすことができるのだと自信を得た一年間でありました」と述べている。
この一年余りの間、沖縄は「復帰」以後24年を経てなお変わらぬ基地の事実と、そこから起こる問題を発信し続けてきた。それは他ならぬ安保の実体でありながら、条約の賛否さえ問われることのなかった沖縄に75%もの過重負担を強いてきた「本土」に対する異議申し立てでもあった。10・21の全島9万2千人県民集会は、これ以上後ずさりできない沖縄の姿と声を「本土」に届けた。
沖縄問題が実は日本全体の問題であることが、こんなにも明らかに示されたことがあっただろうか?様々な人たちが起ち上がった。政府をして、真剣なとりくみを表明させ、「実弾演習の本土移転、普天間返還」を引き出したのも、そうした共感が広がったことによる。しかし今まで以上に、安保堅持を明らかにしている日米政府は、「沖縄の住民に配慮して……」などの口先とは裏腹に軍との共生を強いている。その現状を三人に語って預いた。
西宮在住で息子さんを米兵による事故で失った海老原さんは、被害者の会を結成し、裁判を起こしていく中で、日米地位協定がいかに米軍のためにあるか、ということを訴えている。
源さんはじめ、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会は、構造的な矛盾を生み出す軍隊の存在を根本から告発する。強姦救援センターの設置、平和学講座を開くなど、すさまじい勢いで活動を展開している。
宜野湾高校の教師であり、子どもたちに教えられて反戦地主となった大西さんは、普天間基地を教材に、あるいは代理署名裁判の準備書面なども積極的にとり入れて、生徒たちと生きた安保を語る授業を行なっている。
プログラムも中盤に入り、琉舞「四ッ竹」と「谷茶前」が披露される。いつも集会に駆けつけて下さる大平澄子研究所の皆さんである。とくに「谷茶前」は素足なので指先が寒さで赤い。続くカンパのお願いにも、ザルを持って客席ヘ。寄せられたカンパは32万余。
琉球国祭り大鼓の踊りは「みるくむなり」他三曲。
実弾演習の移転候補地・大分の日出生台から佐藤晶さんが発言。地元町民の演習反対集会も開かれているが、とにかく息長くやっていきたいと強調された。
都内と埼玉の高校生からは、沖縄の高校生と交流する中で、平和について考え続けていく、とあいさつ。そして、1047人の解雇撤回を掲げて今年10年目の国労闘争団からは、共に粘り強く闘おうとアピールがなされた。特別立法を許さない百万人署名への呼ぴかけと、フィリピン・バヤン(新民族主義者同盟)からの連帯アピールも紹介された。
フィナーレは、午前中からリハーサルも済ませて待機されていた大工哲弘とカーペンターズのみなさん。おなじみ、ガンバロウ・沖縄を返せに加えて、今日の目玉は「生活の柄」。沖縄の詩人・山之口獏の「歩き疲れはて 夜空と陸との隙間にもぐり込んで〜」で始まる詩に、フォーク歌手・高田渡が曲をつけたものである。
いつしか時間も過ぎ去り、東京沖縄県人余青年部・いまゆ−の城間、野原コンビによるとてもすてきなアピールで集会を〆めて頂いた。
皆さん、寒くて本当に御苦労様でした。
Mさん、関東ブロックでの日夜の奮闘ごくろうさまです。特に九月の「語やびら・キャンペーン」での反戦地主との交流は、すさまじい、有意義な取り組みだったようですね。
さて、大田知事の〈公告・縦覧〉代行の後、10月20日の衆議院議員選挙も終わり、私たちは沖縄の地で「10・31基地のない沖縄をめざす市民集会」を持ちました。
沖縄現地は「チルダイ」しているのではないかというウワサがあるそうですが、私(たち)にはそんなヒマはありません。
安保条約再定義と沖縄の基地問題は、解決の第一歩を踏み出すどころか、ますます矛盾を拡大しているのですから。普天間基地の全面返還は、私(たち)の予想通り、結局沖縄内での〈基地コロガシ〉にすぎず、移転先として名前を挙げられた市町村住民の猛反対にあっています。
最近は、名護市や勝連町、知念村や王城村など、保守側首長の市町村議会さえが「移転反対」の決議をあげ、住民大会を開きつつあります。戦後の沖縄の歴史上、これほど米軍基地の存在が〈反対〉されたことはありません。
それにしても、大田知事の〈公告・縦覧〉代行は誤った判断でした。結局、自民党や日本政府、最高裁判所に屈服させられたのですから。知事が代行しなくても、裁判所等をへて最終段階では首相が署名することによって手続きが進められているのですからね。
おまけにそのタイミングも最悪でした。結果的には衆院選で「沖縄問題は終った」というキャンペーンに利用されたのです。大衆運動が盛り上がり、住民が共同闘争に起ち上がったとき、それを分断し沈静化させるために総選挙を使うのは、日本の近・現代史において、支配政党が使った常とう手段です。60年安保がその代表的な事例と言えます。
Mさん、しかしそれ以上にダラシナカッタのは既成政党です。日本の既成政党は沖縄の基地と日米安保再定義を最大の政治争点にすることはできませんでした、私(たち)は日本の既成政党の「沖縄切りすて」というこの歴史的犯罪を決して忘れないつもりです。
私たちは何度も軍事基地撤去の大衆運動に決起していきます。そもそも、今日の基地問題や強制使用反対の闘いは、反戦地主会を中心として私(たち)が戦後50余年にわたって持続してきた運動の一つの成果なのですから。大衆運動が主で大田県政の闘いは従であってかまいません。
いま私(たち)は11月23・24日に沖縄大学を主会場に開催される「第16回・日本環境会議・沖縄大会」の準備に追われています。この学術会議でも当然のこととして、「基地と環境問題」の分科会が開かれます。
Mさん、軍事基地問題と環境問題の解決ぬきでは21世紀の沖縄や日本・世界は展望できなくなっています。たとえ軍事基地が撤去されても、その跡地利用が住民主体の環境保護に発展しないかぎり琉球弧の未来はないのです。
私は、すでに1989年の時点から「琉球弧を東洋のスイスにする」ことを提唱してきました(拙著『琉球弧の発信』所収「くにざかいの島々から−未来の琉球弧・アジア・大平洋ヘ」参照)。すなわち「米軍や自衛隊基地を全面撤去させて、『非武装・永世中立地域』に変えて」いくのです。
この提案と同様な主張を10月に沖縄で開かれた「国際平和学会」の基調講演で、有名なガルトング博士が唱えていました。
私たちが、戦後50余年の住民運動で沖縄の軍事基地を全面撤去できたら、それこそ人類の歴史上かつてなかった大きな平和運動の教訓と成果になります。そして「琉球弧を東洋のスイスに」変えることができたら、人類にとって平和のメッカになります。その日まで共に歩み、闘い続けましょう。
1996年11月20日
暑さカンカンと雨願ゆしちん
雨や降らなしょてぃ
トレラ降らち
<l965年 雨ではなくトレーラ−が降ってきて少女の命を奪う>
沖縄の海やあん美らしゃあしが
コバルトの住まてぃ
漁業やならぬ
<1968年 那覇軍港にてコバルト60大量検出>
アジア共同行動・日本連絡会議の呼びかけで11月5日夜、韓国で反基地闘争にとりくんでいる金容漢さん(民主主義民族統一全国連合・米軍基地対策委員長)との交流会がもたれた。設定された会場の都合で一坪・関東ブロックからは上原代表ら九人が参加した。
上原代表から関東ブロックの運動の紹介後、金さんの話に入った。残念ながら通訳を介さなければ意志の疎通ができないことから、時間的な制約もあって、金さんの話は参加者の質問に答えるという形でなされた。以下はそのあらまし。(資料からの引用も含む)
米軍基地は96か所にあり、返還運動は現在、11か所で闘われている。
運動は1993年、平沢(ピョンテク)で始まった。それは龍山(ヨンサン)基地が平沢へ移転するという話が契機となったものだ。
警察は移転反対運動をする人たちを弾圧した。会社へ電話をして嫌がらせをする、露店商には店を撤去させる、ビラを持った人や署名を求める人は連行する、反対運動の発起人会会場は封鎖する、やむなく「親陸会」名で別会場で開催したら参加者の半分は刑事だった……などなど。
基地提供者を訪ねていく時、他村を通ったら「米軍基地、決死反対」の垂れ幕が出ている。基地でない村なのになぜ?と思って訪ねると、“14回目の基地の膨脹を憂いて”とのことで、反対運動を進めることを土地の長老たちは喜んでくれた。しかし最初の目的地では警察の悪宣伝もあって受け入れてもらえず、説得に一年近く通った。基地で働いたり、その周辺で商売をして生計をたてている人のところにも通いつめて説得し、移転阻止に成功した。その記念式典では「基地返還運動」の声もあがった。
基地移転が実現しなかった龍山基地付近の人からは不満の声も出たが、基地のタライまわしではなく返還運動を避めることを提案し、合意を得ることで全国的なひろがりをみつつある。
米軍基地の成り立ちは二つある。一つは日本軍の持っていたもの。他の一つは朝鮮戦争の時に米軍が作ったもの。その補償はテント一張り・小麦粉と米各二袋というもの。70年代の接収時には10万ウォンと明記された債券が渡されたが、支払いは20年後というもの。それ以前に金が必要な時には、二割位の割引きで現金化するしかないのが現実である。
在韓50年の米軍犯罪は11万件にも達し、そのほとんどが女性を対象としたものである。
これら性暴力に対する運動体の一つに「一つの声の会」があり、基地周辺のクラブで働く女性に対する事業紹介など、自立の手助けをしている。
韓米行政協定が1967年に成立し、31条項から成っている。
協定を改訂して賃貸期間・賃貸料を明記させたい。
五年前の公開審理では、第3回に那覇防衛施設局による“起業者説明”が行われ、第4回ではその“説明”が騒然としていてなにも間こえなかったはずなのに、議事録にはしっかり載っていたのはなぜかと地主側が追及した。
これ以降、地主側は130項目以上の求釈明を示して那覇防衛施設局に激しく抗議した。施設局側が回答につまったり立ち往生したりすると、許し難いことに収用委員会・会長はたびたび助け船。とても第三者機関とはいえない対応であった。
そもそも強制使用は−−大田知事も最高裁で強調していたとおり−−国民の財産権に制限を加えるものである。公共の事業に限って例外的に制限が可能だとされているはずなのである。ところが例外どころか、きわめて慎重に使用申請しなければならないはずなのに、まったくズサンに使用申請されていた。
施設別に地主の意見を述べている過程でなんとまだ契約中なのに強制使用の対象にされている三人の地主がいることが判明した。契約に基づいて使用されているのに、強制使用されようとしていたのである。
那覇防衛施設局は「単なる事務的ミス」に過ぎないと逃げた。収用委員会・会長は「その点は取り消すそうです」とこの時も助け船を出していたのである。このようなミスがあった場合、当然にも使用申請も総理大臣の使用認定もどちらも無効であろう。