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『一坪反戦通信』
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 第150号(2003年10月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 38
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会) 


 前回紹介した大城武雄さんより二年遅れて一九四〇(昭和一五)年九月、同じ品川白煉瓦工場(岡山県片上町)へ働きに出た翁長(おなが)弘さんにお話を聞いた。弘さんは、武雄さんや他の嘉陽の青年たちと同様、前田牛次さんに誘われ、男女五人の若者たちがいっしょに行ったという。当時、弘さんはまだ嘉陽小学校高等科に在学中だった。いっしょに行ったうちの弘さんを含む三人は同級生だったというから、卒業を待たずに出稼ぎに行くのは珍しいことではなかったのかもしれない。時あたかも戦争前夜。弘さんたちが行った頃、工場は既に軍需工場になっていたという。猫の手も借りたいほど忙しくなった工場から催促されて、牛次さんのし募集にも拍車がかかったと思われる。同じ年、弘さんたち以外にも嘉陽から行っているし、大阪近辺で働いていた嘉陽出身者で同煉瓦工場に移った人たちもいる。彼らもみんな、牛次さんに誘われたと見ていいだろう。
 

 翁長弘さんは一九二五(大正一四)年、七人兄弟の六番目として生まれたが、父は弘さんが幼い頃に亡くなり、母は農業や山仕事をして子どもたちを育てたという。女手一つで七人の子どもを育てるのはさぞかしたいへんであったろうと、同じ「女手一つ」ではあっても、当時よりはるかに楽な暮らしの中で一人を育てるのに四苦八苦している私は、つい思い入れてしまった。

 大城武雄さんも言っていたが、当時のシマは、背後の山から薪を切り出してヤンバル船に売り、潮時を見て海に出るという、海と山で生活する自給自足の暮らしだった。集落の後ろの山懐には水田が広がり、自給用の米を作っていた(戦後は農協に出荷し、八二年頃まで作っていたという)が、普段の主食はイモで、米のご飯は盆・正月など特別の節日にしか食べられなかった。「小学校の頃は、売るための薪(マキ)を取ったことはないが、自給用の薪(タキギ)はよく取りに行ったよ」。現在もほぼ同じ場所にあるシマの共同売店のすぐ下の浜で、伝馬船が薪の積み降ろしをやっていたのを、弘さんはよく覚えている。与那原方面から来ていたヤンバル船の本船は、浜から少し離れたリーフ内に留まっていたという。エンジンを使わず、風と人を動力とするヤンバル船は、しばしばジュゴンとも遭遇したのではあるまいか(現在も、嘉陽のリーフ内の海草藻場では数え切れないほど多くのジュゴン・トレンチ=食み跡が、調査の度に確認されている)。

 自給用の田畑と山仕事以外には仕事らしい仕事もなかったシマから、多くの人々が出稼ぎに出ていた。「自分たちより少し上の女の人たちはみんな紡績に行っていたし、シマからペルーに行った家族も四〜五軒くらいあったかな」。弘さんの三人の兄たちも、姉の一人も本土出稼ぎに出ていたから、弘さんが牛次さんの誘いを抵抗なく受け入れたのは、自然の成りゆきだったろう。「ヤマトに行けると思うと、楽しみでわくわくしたね。当時のシマは車の通る道もない不便なところだった。三原まで道路ができていたので、名護に行くときは山を越えて三原まで歩いて行ったんだよ」

 那覇の港から波之上丸に乗り、神戸で降りた。船賃は牛次さんが支払ったが、あとで給料から差し引かれたという。牛次さんは、シマで募集するときには、煉瓦工場といっても鉄工所も併設されているし、旋盤でもなんでも好きな仕事を選べる、仕事は楽だし給料もいい、と言っていた。「ところが行ってみると、確かに鉄工所はあったが、仕事を選ぶことはできなかった。土方のような泥ブッター(どろんこ)の仕事でね。わざわざ内地までこんな仕事をしに来たのかと、がっかりしたよ。しかし、先輩もたくさんいたし、せっかくここまで来たんだからと気を取り直してがんばったんだ」

 品川白煉瓦工場は第一〜第三工場まであり、弘さんたちが入ったのは第三工場だった。第一、第二工場は、別の町にあったのでわからないが、第三工場だけで千人近くの従業員がいたのではないかと弘さんは言う。三九〜四〇年当時、ここには沖縄の人が四〇人ほど働いており、その半分以上が嘉陽の人であったことは前回もふれたが、ほかに大宜味、本部、国頭の人などがいた。夫婦や家族持ちは社宅に入居し、弘さんたち独身者は、武雄さんと同じく牛次さんの下宿に入った。「募集のときに嘘をついたのはよくなかったと思うけど、会社に雇われていたから仕方がなかったかもしれないね」と、弘さんは寛容だ。それも、「夫婦とも、とても優しくて面倒見がよかった」(弘さん)せいだろう。牛次さん夫婦も含め、工場で働いていた人たちのほとんどは敗戦を境に帰郷したが、今でも片上に嘉陽出身者が一家族だけ残っているという。

 岡山県には煉瓦工場が多く、大きな工場から個人経営の工場までたくさんあった。「今もあると思うよ。あの付近では、煉瓦の材料になる土が採れるからね」

 当時、品川白煉瓦工場には沖縄や四国などからの出稼ぎ者だけでなく地元の人もたくさん働いていたが、彼らは農閑期(冬)の季節労働が主だった。また、日本の植民地とされていた朝鮮からも多くの人々が出稼ぎに来ていた。若い独身者が多かったが、家族で来ている人たちもいたという。彼らは日本人とは別の場所に社宅を与えられていたが、弘さんによれば、それは杉皮で屋根を葺いた粗末なものだった。

 四一年末、日本が太平洋戦争を開始すると、兵器生産に必要な白煉瓦の需要はますます高まる。しかし、若者たちはみんな徴兵されていくので、人手は足りなくなる一方だった。「そのためだろう、昭和一八(四三)年頃から朝鮮人の若い男が三〇人ぐらいか、それ以上、徴用されて来ていたよ。それ以前の朝鮮人たちは自分の意思で来ていたと思うけど、この頃の人たちは強制連行されて来たのかもしれないね」

 煉瓦作りは、最初に石を砕いて、粉にするところから始まる。この石は朝鮮か中国から取り寄せていたと弘さんは言う。この石の粉と、岡山で採れる土を混ぜ、水を加えて粘土にするのだが、石を粉にする製粉の職場はものすごい埃が立ち、顔も髪も真っ白になって、夕方になると顔も見えないくらいだった。「そういう汚い仕事や、煉瓦を焼くきつい仕事に朝鮮人を就かせていた。決していい仕事はさせなかったね」。それでも彼らは我慢して働いていたが、時々、「朝鮮、朝鮮とバカにするな!」と叫んでいるのを弘さんは聞いた。

 煉瓦作りは重労働なので、従業員は若い人が多かったが、中には四〇〜五〇代の人や女性もいた。彼らは、煉瓦を焼く前に乾燥させる乾燥場や、機械でプレスして作る赤煉瓦の仕事に従事していた。白煉瓦は赤煉瓦と異なり、注文によって形がみんな違うので、手作りでしかやれない。弘さんたちのような若い男性はほとんど全員、この白煉瓦を作る成型部に配置された。溶鉱炉の形に応じて注文が来るので、木工所で型枠を作り、それに粘土を流し込んで成型するのだ。これは、煉瓦工場の中ではいちばんいい仕事だったという。

以下次号)