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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第151号(2003年11月28日発行)

【連載】 やんばる便り 39
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

  一九四〇年九月に品川白煉瓦工場に入った翁長弘さんは、四四年一〇月に徴兵されるまでの四年間、ずっと同じ職場で働いた。仕事は朝七時から午後五時までの一〇時間労働で、そのうえ午後七時までの残業がよくあったという。「金額は覚えていないけど、給料は割りによかった」と弘さんは言ったが、それだけ働けば、よくないほうがおかしいだろう。一方、工場の中でいちばんきつく、汚い仕事をさせられていた朝鮮人労働者たちは、その労働に見合う報酬を受けていたのだろうか。とりわけ、「強制連行されて来たかもしれない」と弘さんが言う四三年以降の人々は、果たして賃金を得ることができたのか、日本の敗戦でどうなったのか、気になるところである。

 「シマに仕送りしましたか」と尋ねると、弘さんは「少しずつ貯めて送りはしたが、そんなに多くはなかった。食べたり、遊んだりするのにけっこう使ったからね」と答えた。前田さんの寮から毎日、弁当を持たせてくれるのだが、若くて食べ盛りの弘さんたちはそれだけでは足りず、よく買って食べたという。日曜日の休みには片上の街(工場は町外れにあった)で映画や芝居を観たり、時には岡山の街まで出た。「岡山には倉敷紡績や北方紡績などの紡績工場があってね、沖縄の若い女の子たちが大勢働きに来ていた。その子たちと遊びに行ったりしたよ」

 同じ若い人の出稼ぎでも、女性の場合はほとんどが定期的に仕送りしているが、男性の場合、「自分で使ってしまうので、(仕送りする)お金は残らなかった」という人がけっこう多いのはおもしろい。女性たちの主な職場であった紡績工場が、強制に近い送金システムを作っていたことも大きいが、娘の多い家庭では彼女たちの仕送りを合わせて家を建てたなどの話も聞く。出稼ぎがシマにもたらした経済効果は決して小さくなかった。

 平日、弘さんは工場の仕事を終えると青年学校に通った。青年学校では軍事教練が行なわれたが、ほかに国語や数学も教えていた。「内地の人が『沖縄に学校があるのか』とバカにするので、本をちゃんと読んでみせるとびっくりしていたよ。当時の内地の人たちは沖縄を植民地扱いしていたと思う」と、弘さんは言った。

 四四年の四月か五月、弘さんは同級生三人とともに岡山の片上国民学校で徴兵検査を受けた。「徴兵検査までまだ一年あると思っていたのに、兵隊が足りなくなったためか、一九歳と二〇歳の人をまとめて検査したんだ」。弘さんは、徴兵検査を受けるなら、沖縄に帰って受けようと思っていたという。しかし、すでに戦争が激しくなり、沖縄航路の船も次々に爆撃され沈められて、帰るどころではなくなっていた。「おかげで生き延びたのかもしれないね。沖縄で徴兵されていたら、死んでいたかもしれないから」

 弘さんは入隊ぎりぎりまで工場で働き、四四年一〇月一〇日に熊本の陸軍西部一六部隊に入隊した。ちょうど那覇で一〇・一〇空襲と呼ばれる大空襲があった日だ。九月末か一〇月初めに電報を受け、いわゆる「電報入隊」だったが、最初は「鹿児島の一八部隊に行け」と言われたので行くと、間違いだということで熊本に送られたのだった。熊本の部隊で教育を受けたあと、天草で陣地構築をしているときに敗戦になった。
 工場には契約期間はなく、いつ辞めるのも自由だったが、「もし徴兵されなければ、ずっと働いていたかもしれない」と弘さんは言う。徴兵されたあとも会社に籍はあったので、戦後、除隊してから行って、わずかだが退職金をもらった。四六年初め、弘さんは佐世保から船に乗り、沖縄に帰ってきた。九州に残っていたウチナーンチュはほとんど佐世保から帰郷したという。「帰ってみると車の通れる道ができていてね、シマまで車で帰ったよ」

 弘さんの長兄は四二年に出稼ぎ先の東京から召集され、満州で戦死。三番目の兄は、最初に行かされた中国からは無事に帰ったものの、沖縄戦のときに再び召集され、戦死している。


 前田牛次さんの後日談を、弘さんに少し聞いた。

 牛次さんは四六年に帰郷してから、自分で建造したヤンバル船(風力と人力を動力とする木造帆船で、主に荷物を運ぶ)を所有し、嘉陽の薪や米を与那原方面に持っていって売る仕事をしていたらしい。沖縄戦で焼け野原になった中南部の復興のために、やんばるの木々がたくさん切り出された時期であり、まだ化石燃料が普及せず、薪に頼っていた時期でもあった。船で薪を運んだのは五〇〜五一年頃までで、その後はトラックに代わったという。「牛次さんは区長もやった(戦後の第三代目。就任期日は不明)し、戦後は部落のためによく働いたと思うよ」
 (ちなみに、弘さんも第一一代と二〇代の二期、区長を務めている。)

 九九年に刊行された『嘉陽誌』に、昭和一五(一九四〇)年八月三一日付の『大阪朝日新聞』の記事が掲載されている。「母校愛の金次郎 嘉陽小学校に贈る」という見出しの付いたこの記事は、「沖縄県国頭郡久志村嘉陽小学校を出て目下岡山県片上町の品川白煉瓦工場に働く前田亞次(ママ)君ほか十名は僅かづつ貯めた小遣銭三百円をまとめ、後輩たちへの贈物としてこのほど見事な二宮尊徳の銅像を母校へ送ってきた」こと、校長・職員・全校生徒はもとより「村民有志ら多数参列して校庭で盛大な除幕式を行った」ことを報道している。

 片上に出稼ぎに行く直前だったこの時のことを弘さんはよく覚えている。この像は今でも嘉陽小学校の校庭にあるが、弘さんや前出の大城武雄さんによれば「銅像」ではなく、インベ(印部?)焼き(現在の呼称は備前焼き)と呼ばれていた金属のように固い焼物だという。また、「送ってきた」のではなく、牛次さんがシマに二回目の募集に来るときに持ってきたらしい。その募集に応じたのが弘さんたちであり、武雄さんは像を贈った側の一員であった。

 武雄さんの話では、「牛次さんの下宿にいた嘉陽の人たちが、牛次さんが募集のためにシマに帰るとき、記念に寄付しようということになり、五円ずつ出し合って買って持たせた」という。「当時の五円といえば大金だったから、出す人もいれば出さない人もいた。お金を出したのは一二〜三人くらいかな」。新聞報道の三〇〇円は間違いなのか、残りは牛次さんが出したのか、定かではないが、武雄さんは嘉陽小学校の記録には寄付者の名前がなく「前田牛次ほか十数名」としか書かれていないと、いささか不満そうだった。

 当時、地域を挙げて盛大な歓迎を受けた金治郎像はいま、校庭の片隅にほとんど目に留める人もなく、ひっそりと立っている。戦前、沖縄の島々の各地に金治郎像が建てられたのは、「沖縄に日本の価値観を広めるため」(『嘉陽誌』より)だというが、その帰結が沖縄戦だったことは言うまでもない。

 かつて子どもたちの声であふれていた嘉陽小学校は現在、全校生徒一〇人。新入学生の見込みもわずかで、統廃合の危機にある。過疎の悩みにつけ込んで持ち込まれた新たな米軍基地建設(その見返りとしての「振興策」)が、この地域にどんな「未来」をもたらそうとしているのか。六〇数年間、薪を背負いつつ本を読み続けている金治郎像を見ていると、「未来」がそのまま「あの日」へと逆戻りしていく錯覚を覚え、思わず身震いした。

 未来を奪わせてはならない、決して……。 【この項了】