【連載】
やんばる便り 2
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)
旧暦三月三日(今年は四月七日だった)、一年に一度だけ、普段は米軍キャンプ・シュワブに占拠されている海辺が地元住民に開放される。この日は沖縄の伝統的な「浜下り(ハマウリ)」の日だ。昔から女性を中心に浜に出て、海の幸を採ったり、ごちそうを持ち寄って一日浜で遊んだりする。海の水や気によって邪気を払い、健康を祈願する祭りだと言われている。基地の開放は米軍の地元住民対策のひとつだが、めったにない機会なので出かけることにした。
この日だけ出入り自由のゲートを通り、迷彩服の米兵たちとすれ違いながら、広々とした住宅地の中の道路を走ると海岸に出る。昔から地元の人々が生活の糧を得てきた辺野古崎だ。いつもは遠くからしか眺められない長島、平島が目の前に見える。大潮の時にはここから歩いても渡れるのだ。磯の上で大勢の人たちが潮干狩りを楽しんでいる。シーカヤックやシュノーケリングで遊ぶ米兵たちの姿も見える。もし、日米政府の思惑通り普天間代替基地がここにできれば、こんな光景も見られなくなるだろう。
東恩納琢磨さんの船で長島に渡った。大浦湾の入り口にある長島には灯台が置かれ、ここからはキャンプ・シュワブと大浦湾の全景が一望のもとに眺められる。軍事基地にしておくにはあまりにももったいない絶景だ。
実弾射撃演習の標的にされ赤い地肌を痛々しくさらしている山や、ゴルフ場のために削られてしまった山を元の森に戻し、米軍施設をとっぱらって畑や野原や林に戻してみる。海の上には、かつてのようにヤンバル船を浮かべてみる。それは何と美しい風景だろう。
大浦湾は戦前、貴重な燃料であったマキや炭、材木、その他の林産物をここから沖縄各地へ運び出し(藍の染料は奄美へも運ばれた)、地元の人々にさまざまな日用品を運んでくるヤンバル船の港としてにぎわった。山が海岸まで迫り、耕地の少ない久志地域の人々の生計を支えたのは山仕事だった。子どもたちも含め一家総出で山に入り、マキなどをヤンバル船が運んでくるさまざまな食料や日用品と交換して生活していた人々にとって、ヤンバル船は命綱にも匹敵する存在だったのだ。山で働いていて、ヤンバル船が入ってくるのが見えると、喜びの唄を唄い、踊ったという。大浦湾の水深は、陸地の開発によって土砂が流れ込んでしまった現在よりずっと深かった。
この大浦湾は軍事利用したいと思う側から見ると格好の条件であるらしく、日本軍にも米軍にもねらわれ続けてきた。沖縄戦当時、日本軍が駐屯していたためにこの近辺の集落は米軍の爆撃を受けて焼かれ、人々は山中を逃げ惑った。飢えと病気で幼子を次々と亡くしたという人も少なくない。
それでも人々は、山から木を切り出して家を建て直し、豊かなサンゴの海の恵みに支えられて生きてきた。太古の昔、ここに初めて住み着いた祖先たちと同じように、この海と山に抱かれ、コツコツとたゆまぬ努力を重ねながら。
ここの暮らしを「貧しい」と言う人がいる。しかし、オバアたちは「今の暮らしで充分だ」と言い切る。基地と引き替えの振興策などいらない。逆に、それと引き替えに失ってしまうものがどんなに大きいかを知っているからだ。
私はこの地域が大好きだ。ここの自然と人々が織りなす暮らし、紡いできた歴史を知れば知るほど、失いたくない、奪われたくない思いは募る。だから、運動がどうのと言う前に、みんなにここを好きになってほしい。この海を、この山を、そこで生きている人々を。誰だって好きなものは守りたいし、奪われたくない。愛の力は何よりも強いのだ。
というわけで、編集部と結託して、読者の皆さんに久志を好きになってもらうことにした。好きになるには、まず知らなければならない。次回から、地元の人々の肉声を自然の奏でるメロディーとともにお伝えできればと思う。市長リコールは棚上げになってしまったけれど、地元が反対しているかぎり基地は造れないと確信している。
〈追記〉前号で書いた三月三一日の市長と十区住民 との対話集会は、市長の「日程調整がつか」ず、またしても延期されてしまった。市長室担当者は「四月中には」などと言っているが信用できない。しかし、「地元への説明」は市長の最低限の義務なのだから、実現させるまでしつこく要請していくつもりだ。
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