沖縄県収用委員 第7回会審理記録
村上有慶
村上:
嘉手納の共有地主の村上です。わたしは簡単に5分だけ意見を述べさせていただきます。スライドをよろしくお願いいたします。
わたしは北谷町に住んでおります。これが北谷町の地図です。色が塗られている部分が民間地域です。この地域の57%が基地で押さえられているわけです。昨年の1月7日、キャンプフォスターの前で、母子3人が歩道を歩いていてひき殺されました。わたしたちはその被害者の金城さんたちと一緒に民事訴訟を起こして闘って参りました。まだなにも変わらないような実態です。
北谷ではなにがおこるか分からない。この件についても多くの述べたいですけれども、今日は嘉手納飛行場の関係についてだけ述べさせていただきます。次のスライドをお願いします。
これが先ほどの池宮城先生も述べられた爆音の被害の実態です。北谷町砂辺は250坪くらいの集落があるんですけれども、現在このように空き地が点々としています。次のスライドお願いします。
このような状態で、基地だらけの集落になってしまっています。次のスライドお願いします。
防衛施設局管理用地の看板が立っております。
次のスライドお願いします。昔嘉手納飛行場の中には、こういうwarningという看板がたっておりました。周辺にはそれは知らされていませんでした。戦後こういう鐘が集落のあちこちにたっていました。これをカンカンと叩くと米兵が女を捜しに来たということで、部落の男たちが女性たちを守った。中部の町では、そういうことは毎日のようにあった。次のスライドをお願いします。
これは現在の砂辺の実態です。250戸あまりあった集落のうち187戸がすでに防衛施設局によって買い取られ、集落が平和憲法に帰ろうといって闘ったはずのあの復帰のあとに、なくなりつつあるという状態に、残念ですけど、なっているわけです。
今、基地の町に生活している者にとっては、例えば、一昨年の9月の4日、少女暴行事件のニュースを聞いた時に、私たちは1955年の9月3日、由美子ちゃん事件を思い出しました。40年前にタイムスリップしてしまうわけですね。わたしたちのこの町は、こういう不安の中で生活を強いられているわけです。
嘉手納との関係でもっとも大きな事故、なんといって石川市で起こった宮森小学校でのジェット機墜落事故だと思います。次のスライドをお願いします。
これが現在の宮森小学校です。次のスライドをお願いします。
子どもたちが17名、死にました。その霊を弔う形で学校の中庭に、なかよし地蔵という慰霊塔が立っております。次のスライドをお願いします。
これが、その、なかよし地蔵です。次のスライドをお願いします。
一枚だけ写真をお見せしますけれど、121名の重軽傷者、周辺の民家を焼きました。この事故はもっともひどい嘉手納での飛行機の墜落事故であったというふうに、わたしは思います。
縷々述べたいことはたくさんありますけれど、今日はわたくしの代理人として、この日教壇に立っておられた、新里律子さんにここにおいでいただきました。その時の模様を、短い時間ですけれども、述べていただきたいと思います。こういう不安を抱えながら、わたしたち基地に住む人間たちは生活しているんだということを防衛施設局はよく知っていただきたいと思います。では、新里先生、お願いします。
(拍手)