沖縄県収用委員 第5回会審理記録

知念忠二 伊江島反戦地主


知念忠二:

 わたくしは伊江島補助飛行場に、約3,500坪の土地を持つ、知念忠二と申します。どうぞよろしくお願いします。まず、わたくしが伊江島関係の反戦地主でありますが、ずっと沖縄本島に在住しながら、土地へ、土地を返せの闘いをやってきているものであります。そこで、わたくしがこの闘いに加わる経過、加わってきた経過を、この際、みなさんに、収用委員会のみなさんに申し上げたいと思います。

 わたくしは伊江島に生まれ、伊江島で中学卒業前後まで、育って参りました。そして、上の学校、伊江島以外の上の学校を卒業して、島を出て、北谷の呉屋のほうにありました米軍の沖縄地区工兵隊に勤務をしておりました。そこでわたくしは、沖縄地区工兵隊と言えば、当時の沖縄の米軍用地の評価額、これを決めたり、そしてその基準を決めた書類など、そして地料などを支払いする部隊でございました。

 折しも私はその財政部に勤務しておりまして、で、この軍用地料がいかほどのものであるかということも自分自身で事務に携わって、良く分かっております。この軍用地料というのは雀の涙というほどのものでございます。今日、ここに来る前に、家内に、君は雀の涙をみたことがあるか、と聞いたら笑っておりましたが、辞典をひいたら、雀の涙というものは、ほんのわずかなもの、当時の軍用地料というものは本当にわずかなものであります。こんなものであります。こういうような土地に1954年の夏、こともあろうにこのような雀の涙で取り上げられる土地。これが、わたしの生まれた土地、伊江島の真謝だということが分かったわけであります。わたくしは気が動転しました。少なくとも、わたしがこの本島で仕事が出来るような、教育を多少受けるようになったのは土地があったら、だったからであります。そういうことで、わたくしは毎土曜日曜の休みは、必ず伊江島に帰って、そして伊江島の母、戦争未亡人ですが、母と力を合わせて、また兄弟たちとも力を合わせて、そして、指導者の阿波根さんとも、力を合わせて、この闘いに加わるようになり、そして、陳情団にも、以来加わって参ったわけです。

 そこで、やはり、土地は命綱だったわけですね。今もそうですけれども。特に当時はそうでした。そこで、この土地が奪われると、本当に、家族、いや部落全体、死んでしまう。こういうようなことで、やはり部落全体。部落ぐるみの闘いに入ったわけであります。

 そこで、わたくしたちは、そういう中で、部落といたしまして、この最後まで土地を守るために闘う。という決意を致しまして、この土地取り上げに抗議する意味も含めまして、血判状ですね、指を切ってそれでもって陳情書に判を押して、血判書を作って、関係当局に陳情を致しました。

 そこに阿波根昌鴻さんがお出しになった「人間の住んでいる島」という写真集があります。この、57ページに、わたくし、知念忠二の名前も阿波根昌鴻さんのとなりに、ちゃんとあります。

 その他、先程来、ここで陳述した反戦地主の方々の名前もここに載っておりますけれども、わたくしたちは、そういうようないってみれば悲壮な決意もしながら、土地を守るために立ち上がったわけであります。そこで、米軍はこのような土地接収の通告を行った後、直ちに、測量に入って参りました。最初は通訳を連れてきたけれども、通訳を通してやると、どうも測量が出来ない。農民たちの道理の前に測量が出来ない、という判断が、米軍のほうにあって、その後から、通訳を連れてこなかった。そういうときに1954年の11月頃になって、農民と米軍だけが対峙しているときに、それならば知念忠二のほうが農民の通訳をやれ、というふうなことで、わたくしは通訳をしたこともありますけれども、また、その通訳をしながら、農民たちが土地が取

られたら、ほんとに命が無くなるのと同じだと。その土地はとらないでくれ。と切々に訴えていたことを、今でもわたくしは鮮明に覚えております。

 以来43年、わたくしは、沖縄本島にあり続けておりますけれども、現地の反戦地主の方々をはじめ、住民の方々と手を取り合って、ここまで土地を返せの闘いを、続けてきて参ったわけであります。

 以上わたくしについてご説明しましたわけですけれども、それでは、そのような経過でわたくしは、この土地取り上げ反対の闘いに加わりましたが、農民の切実な訴えも聞かずに、1955年、3月11日には、11日には、武装兵で300名、が、上陸して参りました。先ほどの方々から証言があった通りであります。そこで、当日もちろん3月12日には、わたくしも現場に居合わせておりました。その現場はやはり、農民と、押し掛けた300名の武装兵の米兵が、その指揮官の中佐、対峙をして、背後ではどんどん、ブルドーザーを先頭にして土地を取り上げていく。こういう光景でございました。

 そして、上からジェット機で、威圧の低空飛行をやると、今でも鮮明に覚えているわけでありますけれども、忘れられないのは、指揮官の中佐が、土地は取らないでくれと言うことに対して、イエスでもノーでも君たちの答えはよい、この島は米軍が血を流して取った、島であるから、土地は取り上げる。こう言い放って、土地取り上げをやったこと、それは今も忘れられません。

 そういうような経過で、先ほど話もあった並里せいうん*(清二)さん62才、この土地が取り上げられる、ママもベビーも7名家族が全部死んでしまうから、取らないでくれということで、米兵の前に武装兵の前に、跪いて、嘆願したんですよ。それを公務執行妨害、米軍の作業を妨害して、などという罪名を付けて直ちに逮捕してぐるぐる縄で縛って、毛布をかぶせて、そして待たしてあった、伊江島のあの中飛行場、に待たしてあった米軍機で嘉手納に連れていって、そして二日間も留置をして、軍事裁判にかける。こういうことだったんですね。現地から、証人が、米兵の、逮捕した米兵が来なかったために、やはり、並里さんは釈放にはなったけれども、このような弾圧を最初から米軍は行って、伊江島の土地取り上げをやったわけなんです。

 そして、先ほど、平安山シズ、わたくしの妹でありますけども、証言があったように、わたしの姉の家、その後ろの親戚の家を、米軍は焼き払って、接収をしていった。これが経過でございます。このような野蛮な行為は、戦争が終わって10年経った平和な島で行われて果たしてよいものか。伊江島の人たち、わたしを含めて、もちろんわたしは本島におりましたけれども、怒るのは当然だったと思うわけであります。

 そういう中でですね、伊江島の人たちは、闘いに立ち上がりました。そして連日のこういう、中佐、指揮官とは話にならない。ということで、伊江島の人々は陳情団を組織しましてね、政府、琉球政府に陳情に参りました。わたくしもいっしょに参りました。ところが、当時任命首席でしたから、埒が開かない。そういうことがあってですね、たちまちに接収された農作物もぜーんぶ取り上げられてしまったから、食べ物がない。そういうことで、琉球政府は、21円、先ほど平安山良有さんがいってましたけれども、これは21円、一日B円21円ていうと、刑務所の囚人の食事代くらいの安かったんですよ。これをやっと琉球政府を出したけれども、米軍の命令で、伊江島の人たちにこういうふうな補償はすな、という命令で、5月1日にはこれも打ち切られたんですね。こういう人道に反することを米軍はやったわけです。

 そこで、農民たちは、ならば自分の土地が、鉄条網がはってあっても、そこを飛び越えてでも、自分の土地で農耕をして食べようというんで、やはり伊江島の農民たちは白い旗を立てて、やはり暮らしのために、農耕をするということで、集団で、農耕にはいったんですね。そうしましたら、これが80名の農民が捕まえられた。で、その中から、32名、やはり強そうな人男性だけ32名逮捕して、軍事裁判で3カ月の懲役、そして1年の執行猶予。こういう判決を出したんですね。ま、そういうような中でですね。以来、もう食べられないと言うことで、このように、この、農民たちは畑に入る。ということで、1957年11月までに、あらたに12名の方々が逮捕されて、そして3カ月から6カ月。その中には17才の少年、79才のおばあさんが食べ物がない、だから自分の畑に入って、芋を掘っていたところを軍用犬に噛みつかされて逮捕されて、6カ月も刑務所行き。そういうようなこともあったわけなんです。これが米軍の伊江島でやった弾圧、先ほど来の陳述の通りの事実の経過であります。

 そこで伊江島の人々、ならばもう、農耕をしても逮捕される。弾圧をされるということで、とうとう、あの乞食行進に打ってでたわけなんですね。この、乞食行進については、さきほど、証言がありましたので、その時に当たってでですね、全県民に訴えた、訴え文がここにございます。

 「わたしたちの生活の道は一切閉ざされてしまいました。そこで私たち区民はいろいろと考えました。そして私たちは、恥も外聞もなく決心しました。全区民の日々の生活を全住民のご同情とご支援により生活を続けながらも、私たちの土地を返してもらう正しい要求を通すため闘いぬく決意をしております。またそのことは、全住民の生活の問題とも強く結びついていると思っております。何卒今後とも尚一層のご同情とご支援をお願い申しあげます。」

 こうなっております。やはり、こう見てきたときに、この伊江島の、わたしたちの、農民たちの乞食行進が、やはり県民のこころを揺さぶる面でも、また、わたくしたちへの支援の面でも大きな支えであったということをわたくしはここで申し上げたいと思います。

 それで、米軍の弾圧は、個々の、その地主たちには、どう、どのように行われたかということを、先ほど、解雇通告のことを申し上げましたが、このように米軍基地に働きながら、この土地取り上げ反対闘争に加わったわたしにも弾圧が加わりました。加えられました。わたくしは、ほんとうにそのような、農民側の通訳をやっていた頃は、19才から20代でした。そういう純真な気持ちから、やはり困っている人がおれば助けたい。それは自分だけのことではなく、純真な気持ちでございました。

 ところが、このような活動が、わたしの活動が、米軍当局に、職場にたちまちにばれてしまい、わたしはその日以後、わたしの行く先々、情報機関のものが、尾行をされる。わたしが家を借りて移動すると友達よりも誰よりも先に、そういう関係の人たちが良く分かっている。このような生活をわたしは強いられた。

 それだけではないんです。わたくしは、まずは君は米軍に協力しないか、というんです。どのような協力ですかときいたら、嘉手納基地の情報機関の通訳にならないか、今もらっている給料の2倍にしてあげるよと。こういう誘いなんです。その嘉手納基地の情報機関というのは、まさに伊江島の人々を、土地取り上げ反対闘争に立ち上がっている人々を弾圧する情報機関なんです。そういう機関にわたしを引っぱり込んでいく。こういうことをやりました。

 その過程にはいろいろな懐柔がありました。わたしのこころを乱すようないろんなことがありました。ここではもう時間の都合で申し上げられませんが。しかし、わたくしは、いろいろ、苦しんだ挙げ句職場を失った。今後わたしの将来はない。というふうに感じながら、しかし、先程来必死に闘っている自分の親や兄弟、あるいは又農民のみなさん、こういうようなわが同胞を裏切ることはできない。こういう米軍の大きな圧力があったけれども、わたくしはこの誘いを断りました。断りましたら、わたくしに何が来たか。即日解雇です。君を引き続き米軍が採用しているとアメリカの安全が脅かされる、そういう意味の解雇通知であったと思いますけれども、このようなですね、ことで、わたくしは、米軍職場を追い出されましたけれども。しかし、であればこそ、わたくしは、米軍のこういう悪い行為を徹底的に追及していこう、告発していこう。あくまでも自分の伊江島の土地を、伊江島の真謝区のみなさんとともに闘って取り返すという、こういう決意がますます強くなっていったことを、今も思い出します。

 幸いにも、といいますが、そういう道を歩んで43年間、ここまでこれましたけれども、この間ですね、解雇されて後の失業。これはまた苦しいものでございました。やはり、米軍関係の仕事をしているものは、英語を得意として仕事を探しますから、やはり、戸籍謄本などとって、履歴書を出すとですね、そして、米軍にパスの申請などを会社がやると、たちまちにこれはブラックリストにのっている男だよということで、ほとんど就職ができない。それで仕事を失って、この失業の苦しみはもう、例えようがありません。バスも乗れなくて4キロも5キロも、10キロも歩いたことがございます。こういうような弾圧を米軍、あの占領軍というのは、この当然の闘いに立ち上がった者については一人として見逃さないで、徹底的にやったということ、弾圧をやったということを、わたくしはここで申し上げておきたいと思うわけであります。

 そこで、伊江島の闘いはさらにいかなる弾圧にも屈せず、前進していきますけれども、しかし、基地被害も深刻になっていきました。事件事故がどんどん発生をいたしました。爆弾が演習場外にも頻繁に投下される。それから、家屋の上にも爆弾が落ちる。そして、負傷者が続発する。死者が出たことは、平安山良有さんから平安山良福くんが即死をした話がさきほどございました。

 そこで、そういうなかで、生活苦が大変だったんですね。わたしは本島で職を奪われて、苦しい生活をしておりましたけれども、一方伊江島の母や兄弟や、あるいはまた今の反戦地主の先頭とする人々は、やはり暮らしが出来ない。そこで、とうとう、弾拾いをしなければならない。あの落ちてくる弾をめがけて、弾拾いをしたということは、妹の平安山シズが申し上げた、述べた通りでございます。そのような決死の弾拾いのなかで、何名の人が死んだか。比嘉良得さんと石川清鑑さんが不発弾を拾って爆破させてなくなったことは、浦崎さんからありました。

 それで、飛行機の低空のなかを、弾をまた狙っていくわけですから、射撃をされて腕をもぎ取られた青年。あるいは股を打ち抜かれた青年。そういうような被害者がですね、1960年だけで9名もいるんですよ。1年間で。このように犠牲を受けながら伊江島の反戦地主たちは40数年間、ここまでこのような基地を無くせと闘ってきたこと、それはやはり、申し上げておきたいと思うわけであります。

 それでは、これは伊江島だけに特異的なものかというとそうではありません。わたくしは、長いこと失業した後、幸いにも沖縄人民党、今の日本共産党沖縄県委員会の中央機関紙であった新聞「人民」の記者として創刊の当時1962年から、記者になりましたけれども、そこで、わたくしは、この沖縄における米軍占領の実態を記者としても追及して参りましたが、やはり、忘れられないのは、嘉手納航空隊のPXに務めていた24才のうら若い女性が、客の財布を盗んだという疑いをかけられて、捜査機関に、米捜査機関に取り調べられたことであります。もちろん、この財布は、客の財布は、盗まれたんじゃなくて、お家のほうの引き出しに入っているのを盗まれた盗まれたと言ったということが後で分かりましたが。そして、疑いをかけられたのが、のははつえさん、といいますが、捜査機関の暗い部屋で取り調べをされて、盗んでいないというもんだから、ひとつびとつ調べのために洋服を脱がされて、最後の一枚まで脱がされた。それでその日、お家に帰ってきてからもう外に出ない。1週間目に石油を被って、のははつえさんは自殺を行ったわけです。即死はしませんでしたが、しばらくして入院中に亡くなりましたが、その入院した場所にも米軍が来て、この米軍の責任じゃないという書類におとうさんおかあさんに署名をさせようという、そういうひどいことまでやりましたけれども、これをわたくしは告発をしました。

 そういうことで、占領支配下の沖縄というのは、いわゆる伊江島だけでなくて、沖縄本島においてもですね、このような非人道的な、人権蹂躙、そういうことがまかり通っていた時代であり、やはり沖縄県民は、このような占領支配は直ちにやめよという日本復帰を臨んでいたことは、わたくしは当然だと思います。

 そこで、やはりこの伊江島の闘いはですね、わたしたちは、あの1956年のプライス勧告に基づく一括払い反対の島ぐるみの闘い、その導火線になったのではないかと、いうふうに、自負をいたしております。そしてさらには、沖縄県全体、基地撤去の闘いにも多少なりとも貢献できたんではないかと、こういうふうにもわたしどもは思います。

 わたくしの甥の平安山良尚が先ほど述べておりましたが、あの1966年、伊江島に突然、ミサイルホークが上陸用舟艇2隻で持ち込まれた時に、現在の反戦地主の方を中心に島ぐるみの闘いを行って、500名、600名という村民が立ち上がって、飛行場まで、海から、浜から引き揚げられたミサイルホークをですね、撤去せよということで、一歩も引かない。米軍がこれを波止場まで持っていって、ほんとうに移動しない限り自分達はミサイルの前から動かない。という闘いを2日3日も行って、とうとう、3日目には、米軍もお手上げをして、やはり上陸用舟艇に積み替えて本島に持ち帰って、こういう闘いがあったんですね。今、思うとやはり当時、3才か5才だった子供がいま立派な青年になって、このような沖縄から基地をなくせ、ミサイルはいらない原爆はいらない、というような闘いの先頭に立つ決意をしているということについて、われわれも40数年、闘いを続けてきて良かった。しみじみわたくしはそうまでも思うものであります。

 そういうようなことで、わたしたちは復帰をすれば、わたしたちの権利も、基地も無くなって、本当に平和な暮らしができるだろうという願いも人一倍、もっていたわけであります。わたしたちはもちろん伊江島のおそろしいこの演習場の基地をはじめ、すべての軍事基地が撤去されて、これが日本復帰だと思っていたわけです。

 ところが蓋を開けてみたら、基地付き返還。基地はなんにも変わらない、そのまま。そういうような復帰になってしまったので、わたくしたちは少々落胆もしました。もちろんそのなかには日本に復帰すれば憲法が沖縄に適応される。憲法が適用されれば、こういう恐ろしい軍事基地はやはり通用しない。やはり平和にいきる権利を私たちは持っているからだ。そして、踏みにじられてきたわたしたちの人権。そういうものも、平和的民主的原則を持つ日本憲法のもとでは補償されるんだ。こういう確信があったからなんです。ところが基地付き返還。そういうことで、占領支配下となにもかわらないと言う状態になったということ。これは、わたしたちがほんとうに落胆し、また、怒りに燃える事件でありました。

 ところが、復帰後の実態は、伊江島の基地の実態がどうなっているかともうしますと、演習場外でですね、落下傘がおっこちて、落下してきたもの、これは2トンの訓練用物資、あるいは先ほど証言のあった、人間がぶら下がって落ちるパラシュート。こういう者がですね、この20年間で、民家に落ちたり、そういうようなことで、民家の屋根などに7件も起こっているんですよ。

 それから事件です。米兵による狙撃事件。これも復帰後1974年の7月10日。わたしの甥の山城やすじが、演習場に入って草を刈りていいという日に、草を刈っている時に米兵に追い回されて背後から腕を撃たれて照明弾で重傷をおうという事件が起こって訳であります。さらには友寄ゆうじょうさんという反戦地主の家にはですね、81年の1月28日には、飛んでいるヘリコプターから、機銃弾が打ち込まれているんですよ。

 そして、その他、催涙ガスによる被害なり、もうこれは枚挙に暇がありません。だからこれは憲法あって無きがごとくの伊江島、沖縄といえるのではないでしょうか。

 そういうなかで、読谷の補助飛行場で行われている降下訓練を伊江島にたらい回しで持っていくということは、伊江島の人々をあの落下傘訓練で、今までのような被害を、悲劇をさらに押しつける以外のなにものではありませんか。だからわたしたちはこのような読谷補助飛行場からの降下訓練を断固拒否いたします。

 それから、復帰後の実態。反戦地主への差別。あるいは卑劣な切り崩しについて、ございます。これは経済的な面からも言えると思います。先ほどもありました。例えば、10年前に私たちの土地が強制使用されて、10年分一括で損失補償が支払われました。それによって、私たちはどれくらいの損をしたのか。当時のわたしの持ち坪数は、3100坪あまりでした。現在は母のものを相続して約3500坪ですが。当時のわたしのこの持ち分で、例えば年間ですと30万あまりしかないものを、一括払いをされたために、386万ですけれども、それがなされたためにですね、この税金がこれまは一円の税金もつかなかったものをですね、国税やあるいは市民税、健康保険税、含めて101万。合計300万余ったら、101万も税金で引かれているわけですね。だからそういうような差別が契約をしている地主は、毎年毎年で、もちろん税金されてません。このようにわたしたちは300万あまりから、101万も税金が取られるわけだから、経済面からの差別弾圧以外のなにものでもないと思います。これは法の下の平等ではない、とわたくしは申し上げておきたいと思います。

 それから黙認耕作の問題ですけれども、これも伊江島は黙認耕作がかなりありますが、それをやはり農耕しながら地料をもらおうということでも反戦地主との差別だと思うわけであります。それから、那覇防衛施設局の反戦地主への執拗な切り崩しですね。それについて、例えば80才余りのわたしの母に対して、何度も来て契約しなさい、しなさいと。後は、okといわないもんだら、あなた死ぬまで反対するつもりかと母親を脅していくと。それで母親は塩をまくぞといったのでやっと帰っていったということをいっていますけど。このような弾圧は復帰前の米兵のやったこととまったく同じだと思います。そして、言わせてもらうならば、あの米軍用地特措法の改悪は以上申し上げた米軍が行ってきたわたしたちへの仕打ち。それとなんら変わらない数の暴力による弾圧である。であるとここで申し上げておきたいと思うわけであります。

 そしてわたしたちは、終わりに申し上げますけれども、この土地を取り戻すためにこれからも反戦地主、団結をして頑張りたいと思います。

 そこで、私の母は84才で亡くなりましたが、なくなる寸前まで、反戦地主を貫けよ契約するなよ。こういっておりました。理由はと聞いたら、あの戦争で夫と長男が奪われた。あの戦争が憎い、戦争の為の基地には土地は貸さない。だからすぐ返してほしいからなんだ、とこう母はいっておりました。わたしもその通りだと思います。今、このような気持ちは命どぅ宝。これは沖縄県民のあの沖縄戦の教訓からみて、共通する思いである。わたしたちはこのような、沖縄県民の熱い思い。基地はいらないと言うあの県民投票の結果にも示されたような、こういう思いがある以上、わたしたちの苦しい闘いではあるけれども、必ず勝利するという確信に燃えているわけであります。

 わたしたちはそういう意味で、わたしたちの反戦地主の闘いは、うちり火。つまり、種火の精神ですということで頑張って参りましたが、これが、のろしとなるような闘いに必ず発展するだろう、という確信を持っている者であります。そのように私たちは土地を取り戻すまで。取り戻すまで、そして沖縄から基地を無くして平和な沖縄に、伊江島にするまでがんばりたい、ということで、この道を切り開いてくださるこのきっかけを作ってくださるのは収用委員会のみなさんが、あの理不尽な、防衛施設庁の、防衛施設庁の、施設庁の土地強制使用の裁決申請をこれをきれいさっぱり却下して、わたしたちに土地を返してもらう道を切り開くことだと思います。

 収用委員会のみなさんの懸命なご判断のお願いを最後にいたしまして、わたくしの陳述といたしたいと思います。ありがとうございました。

(拍手)

当山会長:はい、ご苦労様でした。それでは次に、久保田一郎さん。


  出典:第5回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉

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