親泊康清那覇市長


 那覇市長の親泊です。那覇港湾施設、いわゆる那覇軍港内と普天間基地内に市有地を所有する地権者の立場から発言をさせていただきます。

 発言をする前に、5年前に行われた前回の県収用委員会公開審理におきましては、公有財産として市有地を那覇軍港内に所有する関係で、具体的に那覇市と那覇市民の長年の思いを意見陳述する予定でありました。ところが那覇市長としての意見陳述もなされないうちに、公開審理が打ち切られてしまうという事態となったのであります。このことに 、大きな失望感をおぼえたものであります。
 本日から始まりますところの公開審理におきまして、沖縄県収用委員会のみなさんにおかれましては、十分に審議を尽くされんことを、30万那覇市民の代表といたしまして、強く要望を申し上げたいと思います。

 本日はあくまでも公開審理が開始されるにあたるという冒頭の発言であります。今後正式な意見陳述につきましては、具体的に時間設定をいただく中から、意見陳述をする機会をおつくりいただきたいと思います。その際は、スライドを使用しての意見陳述を申し上げる予定でありますので、収用委員会ならびに収用委員会事務局のみなさまにおかれましては、ご面倒でも対応策のお願いを申しあげたいのであります。

 まず最初に、今回の県収用委員会公開審理の日程の件で申し上げます。今年の5月14日で期眼切れとなる県内各地の米軍基地につきまして、これまでの手続き的な遅れが、あたかも県収用委員会や、また契約に応じない地権者の責任であるかのような認識が示されたりしております。
 しかし、このことは全くの誤解であり、また、事実とは明らかに異なるのであります。このことに関しまして、10年前と5年前に行われた収用手続きについて、具体的な日数を追って振り返ってみたいと思います。

 まず、10年前ですが、1985年8月5日に、那覇防衛施設局長から「20年の裁決申請」がなされ、それから約6カ月半をおいた後に、第1回公開審理が開かれました。そして、その後1年をかけた公開審理があって、1987年2月24日に那覇軍港が5年、その他の基地が10年の収用裁決でありました。
 また、5年前の、この収用委員会の模様につきましては、記憶に新しいところでありますが、その際には、1990年11月27日に那覇防衛施設局長から「10年の裁決申請」が出され、約8カ月半後に公開審理が始まったのであります。そして、それから6カ月後に軒並み5年間の収用裁決がなされたのであります。

 あらためて、本日の日付を確認したいのでありますが、本日は1997年2月21日であります。10年前も5年前も、実は、この時点というのは、裁決がなされた時期であるということです。ところが今回の公開審理は、本日が第1回目であるということを、ここにいらっしゃる多くの地権者のみなさん、弁護団のみなさん、そして収用委員会のみなさんが、確認されていこうではないかと私は考えるのであります。手続きの遅れは、私たちの問題ではないということです。あらためまして、しっかりとした審理をお願いするものであります。

 ところで、那覇市は1972年の復帰以来、今日まで米軍用地には、いかなる理由があろうと市有地を提供しないという方針を貫いてまいりました。そのことを踏まえまして、那覇市ではこれまで、やはり一貫して、代理署名、公告縦覧には応じないという態度を貫いてまいったのであります。
 実はこのように、市有地の契約に応じない、代理署名、公告縦覧には応じないとする方針は、ある意味では行政を預かるものとしては、時にはつらく、時には孤独感を味わうこともございました。しかしながら、米軍基地に対する拒否の姿勢が県民・市民の間に広く浸透してきている今日の状況を考えた場合に、私たちの選択というのはけっして間違ってはいなかったと、確信をしております。多くの県民やまた市民に支えられて本日こうした発言ができますことを私は大きな喜びとするものであります。また、これまで私を支援された県民・市民のみなさんにこの場を借りて御礼を申し上げたいと思います。

 那覇市がこれまで一貫して、米軍基地に市有地を提供しない理由となる本市の抱える様々な行政課題につきましては、後日、あらゆる面から申し上げる予定でございますので、本日は基本的なところだけを申し上げたいと思います。

 那覇軍港が、1974年1月30日の第15回日米安全保障協議委員会におきまして、移設条件付きながらも返還合意がなされてから、本日、約、約ではございません、8423日が経過しておるのであります。実に23年間に及んで那覇軍港は現在の状況におかれているのであります。
 23年前といいますと、極めてわかりやすくいいますなら、当時の田中総理大臣が、インドネシアを訪れて反日暴動にあった頃、あるいは小野田さんがルバング島から返ってきた頃。実にこのようにずいぶんと一昔前の歳月が経過いたしておるのであります。その頃に那覇軍港は返還が約束されていたのであります。

 一昨年の1995年12月7日には、沖縄県知事が国側から職務執行命令訴訟で提訴され、被告側に立たされるということがございました。このこととは逆に、私は那覇軍港内に所有する那覇市有地の返還を求めて、止むに止まれぬ気持ちで内閣総理大臣を相手取っての行政訴訟を提起したこともございました。また、自治体の乏しい財政から絞り出すようにして、市議会も一体となって、直接の独自訪米でもって那覇軍港の返還を訴えてきたこともあります。

 他の都道府県自治体では絶対にあり得ない、米軍基地あるがゆえの独自の取り組みをせざるを得ないような行政行為を行っているのも、沖縄ならではの苦悩でもあります。自治体に許された範囲内の業務というのは、私から申し上げるまでもございませんが、住民の命と財産の安全を図るものでもあります。
 沖縄だけに次々と押しつけられてくる米軍基地問題に対して、また米軍基地あるがゆえに、次々と起こる凶悪事件に対しまして、行政の長としては手をこまねいて見ているだけでは市民の安全が確保できないのであります。

 先日は、劣化ウラン弾を使用しての演習が行われていたことが明らかになりました。それ以前には那覇沖合に、450キロ爆弾が投棄されるなど、私たちの市民生活は一日として心休まることがございません。劣化ウラン弾で心配することは、もちろん環境破壊であり、汚染であります。また、それ以上に漁民の皆さんの生活への影響であります。
 このことは、1968年に那覇軍港に入港してきた原子力潜水艦が停泊していた周辺海域から、放射能のコバルト60が検出され、たちまちにして周辺漁民の生活が根底から揺さぶられたことを、私たちは昨日のように憶えています。このことでは、海水汚染などに加えて、市民の生活が魚介類から遠ざかるという二次的な影響が出ました。その際、琉球政府からは、米軍に対して16万ドルの補償請求が出されたこともあり、漁民の皆さんの生活がいかに、窮地にたたされていたかを伺い知ることができます。

 私がこれまでに申し上げて参りましたように、軍用地強制使用に伴う、代理署名、公告縦覧をお断りしてきたことと、那覇軍港内に所有する市有地の契約を断ってきた背景は、明確であります。それは沖縄が50数年前の忘れがたい悲惨な沖縄戦を体験してきたという事、それにこの間、沖縄に押しつけられてきた米軍基地の存在に対して、けっして容認できない立場からであります。
 ウチナーンチュにとりまして、沖縄戦の教訓は末だに消えることはありません。その体険とは、軍は住民をけっして守らなかったという事実であり、逆に軍との同居は住民にとっては危険だという、生きた教訓であります。それは過去の歴史をひもとけば明らかであります。

 また、戦後27年間の米軍支配でなされてきたこと、これは今日の日米両政府にとっての民主主義という観点からとらえた揚合には、実に恥ずべき27年間であり、その分だけ沖縄住民が犠性になってきたことを、私たちは今日の時点であらためて検証する必要があると思います。那覇市は沖縄戦でもって、すべてを失いました。戦後の復興の歴史は、米軍のフェンスを少しずつ縮めていく歴史でもありました。

 最後に、昨年のSACOの中間報告、あるいは最終報告では、那覇軍港の返還については「加速化」すると表現されておりますが、あの文言とは裏腹に、返還に関しましてはこれまで申し上げてきましたように、遅々として進んでいない、「加速化」どころか「減速化」の状態と言えます。

 収用委員会の皆様方におかれましては、今後とも厳しい日程の中で御審議をいただくわけですが 、なにとぞ、後世に耐えうるような立派な結果を出していただきたいことを期待いたしまして、 那報市長としての発言とさせていただきます。


 出典:第一回公開審理の録音から(文書おこしは比嘉、編集は丸山

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